今回は、講話動画の第一回『「成熟した愛」と「未成熟な愛」について』の内容を文字起こしした記事をお届けします。
幼い子どもは愛されるだけでも満足できますが、心身が発達した大人は、受動的に愛されるだけでは満足することができません。
大人が真に満足するためには、自分自身の能力を開発し、主体的に愛せるようになる必要があるのです。
本編動画はこちら⇓
以下、文字起こしした内容に、読みやすいよう手を加えたものを掲載します。
はい、始まりましたかね
今まではライブ配信っていう枠で、自分の話したいことを話してたんですけど
最近はライブ配信がリアルタイムで
視聴者とやりとりをするのがメインのダラダラした枠になってきてるんで
私が言いたいこと
私がお伝えしたいことをまとめてお届けする枠は、別に設けようと思ってですね
ちょっと住み分けをしようと思ったんです
なので、今回から講話という「大層な名前」の枠を立てて
メッセージをお届けするというのをやろうと思います
ライブだと1時間くらいの枠で、リアルタイムで即興的にやり取りをするんで
内容が、結構あっち行ったり、こっち行ったりするんですよね
それに対して、ある程度コンパクトにまとまった形でメッセージをお送りした方が
役に立つ人もいるかもしれないと思うんで
それに関しては講話っていう形で、別枠で撮っていこうと思ってます
というのが前置きで
今回お話したいと思っているのは
「成熟した愛」と「未成熟な愛」についてなんです
「愛」っていうのは、
「その人がその人らしくある、自由に自分らしくあることを喜ぶことである」っていう定義を
泉谷閑示さんという精神科医の方がされてるんですけど
私もそれは同意するんですよ
それに対してエーリッヒ・フロムっていう社会心理学者がいるんですけど
その人が『愛するということ』っていう、愛についての本を一冊書いてるんですよね
その中でフロムが「成熟した愛」と「未成熟な愛」っていうので分けてるんです
「未成熟な愛」っていうのは「相手からの愛」を求めるんですよ
「愛されること」を求めるんですね
「愛されるんであれば愛してあげます」っていうのが「未成熟な愛」なんですよ
わかりますか?
「受け身で愛される」
「愛してくれるんだったら愛して返す」
それが「未成熟な愛」で
「成熟した愛」っていうのは
「ただ愛する」「自分が愛したいから愛するんだ」っていうもののことだとフロムは言ってるんですね
で、生まれたばかりの赤ん坊とか幼児っていうのは「愛されること」を前提に生きてるんです
親とか周りの人とかから「愛される」っていうことを前提に生きてて
それはある意味で「未成熟な愛」なんです
「愛されるなら、じゃあその期待に応えようか」っていう感じで
心が働いていくっていうね
それはある意味で相手に依存してるんですよ
つまり、相手次第なんです
だから例えば相手が「もう愛してやんない」っていう風に「愛」を引っ込めてしまったら
どうすることもできないんですよね
自分が欲しいものがもらえなくなっちゃうから
で、そうすると
「愛が欲しい」「もっと愛して欲しい」っていうんで
その人は「愛されるためにどうしたらいいか?」みたいなことを考えていくようになるんですね
人によっては「勉強を一生懸命頑張ったら愛されるんじゃないか?」って思うかもしれないし
「整形手術をして顔を綺麗にしたら愛されるんじゃないか?」って思うかもしれないし
「年収をたくさん稼いで、自分の市場価値を上げれば愛されるんじゃないか?」って思う人もいるわけですよ
それってみんな「未成熟な愛」なのね
って言うと、怒る人いるかもしれないんだけど(笑)
「それって俺のことじゃん!」って思う人いるかもしれないから(笑)
でもそれ、「未成熟な愛」なんですよ
フロムからするとね
「成熟した愛」っていうのは相手がたとえ愛さなかったとしても
「自分が愛したいから愛する」っていうのが「成熟した愛」なんです
その時、その人は自分の内側に余っているものを相手に分け与えて、相手を自由にしていく
相手がありのままにその人らしくあることを喜ぶんです
そして、それが「成熟した愛」だっていうことなんですね
けど、私はね
もう一段階上があると思ってるんですよ
要するに三段階あると思ってるんです
最初の段階は「未成熟な愛」ね
つまり欲望で相手をコントロールしようとしている段階
相手に対して「愛」をねだっている状態
「相手からの愛」を求めていて
要するに、相手を「愛を与えてくれるマシーン」のようにコントロールしようとしているのが
「未成熟な愛」なんですよ
自分の市場価値を高めたりとか
整形して顔を綺麗にしたりとかして
「愛される人間」になることによって
相手をコントロールしようとしているわけです
「愛を与えてくれ」って言うんで
これが「未成熟な愛」の段階で
そこから自分の足で立って
「自分で自分を満たす」っていうことができるようになると
その人は「自分を愛する」ように「他人を愛するよう」になるんですね
そうすると「見返りを求めずに愛する」っていうことができるようになるんですよ
例えば、世の中のお母さんとかは我が子を愛すると思うんですけど
その時たぶん見返りを求めてないと思うんです
もちろん、毒親みたいな自分の欲望のままに子供を支配する親もいると思うんですけど
でも、そうじゃない親御さんもいるじゃないですか?
子供を本当に見返りを求めずに愛している
「この子が生きていてくれるだけでいい」っていうね
そういう「無償の愛」を与えるっていうのは
お母さんだけじゃなくて、お父さんにもいると思うんですよ
なんだけど
この段階にいるときって、「愛」が特定の対象に固定されてるんですよ
例えば「自分の子供だから愛する」とか
「自分の恋人だから愛する」とか
「自分の生徒だから愛する」とかっていう感じで
「特定の対象だから愛する」っていう風に「愛の対象」が固定されてるんですね
見返りを求めずに愛してはいるんだけど
対象が固定されてるのね
それ、「普遍的な愛」じゃないんですよ
そこからさらに上に
「愛」を行為として行うんじゃなくて、「愛である」っていうね
「愛」が状態になるっていう段階があると私は思ってて
これ、インドの覚者のOSHOっていう人が言ってたんですよね
「愛」が本当に溢れ出す
要するに、自分の内側に幸福感が溢れてきて
「自分が幸せだ」っていう感覚が溢れてきて
それが外側に漏れ出すと
それって、対象が限定されなくなるんです
「この人だから愛する」とか
「こういう性格の人だから愛する」とか
「この人は血縁関係があるから愛する」とかっていうんじゃなくて
ただただ溢れ出すようになるのね
全方位に向けて、対象を限定せずに
360度全部の方向に向かって「愛」が溢れ出して
放射するようになるのね
それ、太陽と同じなんですよ
太陽ってただ核融合して熱を放っているだけじゃないですか?
なんだけど
結果的にそれが地球を温めて生物を生かしているじゃないですか?
だから、太陽って「愛の象徴」なんです
太陽は別に「何かを愛そう」とは思っていないんですよ
「愛」を行為していないんですよね
ただ、「愛の状態」として在るんですよ
もちろん、太陽に近い星々は灼熱の大地になっているんだけど(笑)
地球はちょうどいい距離にあるんで
生物が生きるための日の光が温かく届くわけじゃないですか?
それって「愛」を全方向に放射してるのね
無目的、意図せずに、作為せずに
「愛の状態」にあるんですよね
それと同じで
人間も内側が幸福感によって満たされてくると
「愛」が全部の方向に放射するようになるのね
対象を限定せずに
出会う人、出会う人
全ての人に「愛」を分け与えるようになるんです
その時にはもう「相手を愛そう」という風に意識もしなくなるんですよね
自分の内側が幸福感でいっぱいになって
それが外側にあふれ出すようになると、対象を選ばなくなるんです
「この人は自分の気に入る人だから愛そう」っていうんじゃなくて
「愛する」っていう風に意図することさえもなく
「相手を愛してしまう」というかね
「愛」が感染し始めるんですよ
要するに
自分の中の深い呼吸とか、落ち着きとか、安らいだ感覚とか、満たされた感覚
それが自然と相手に伝わっていってしまうんですよ
それを自分でコントロールすることさえできないんです
それが「愛の状態である」ってことなんですよね
「愛する」んじゃなくて、「愛である」状態
これが一番上の段階だと私は思ってて
まぁ、2番目と3番目はどっちが上とかあんま決めなくてもいいかもしれないんだけど…
「愛」が特定の対象に固定されないっていうのは情念的にならないんですよね
「どうしてもこの人にだけは生きていてほしい」みたいに思うと
やっぱり執着になって苦しみが生まれたりするんです
それを仏教では「愛別離苦」って言ったりするんですけど
「愛する者と別れる苦しみ」
要するに、そういう「愛」って苦しみと分かちがたく結びつくんですよね
「この人じゃなきゃダメだ」っていう限定がかかってるから
例えば恋人と一緒にいて
「この恋人を愛する」っていうふうにしてると
その恋人が離れていくってなった時に苦しくなったりすることもあるし
その恋人が死んでしまうってなると
ひどい悲惨に暮れることもあるわけですよね
「この人にもっと自分らしく生きていてほしかった」って思うと
やっぱり苦しいじゃないですか?
まあ、もちろんそれをいけないことだと私は思わないんだけど
それとはまた違う「愛」
「状態としての愛」があるんですね
「行為」ではなくて「状態」としての「愛」があるという話なんです
別にどっちが上とかじゃなくて
「行為としての愛」っていうのは特定の対象と結びついてるから
その対象を喪失すると人は傷つくし苦しむんですよ
なんだけど
「状態としての愛」っていうのは対象と結びついてないから
ただ単に放射してるだけだから、相手がどうとかって関係ないんですよ
ひたすら一方的に太陽がただ温かさを配ってるみたいな感じで
その人は「愛」を配るようになるんですよね
そんな感じで太陽みたいに生きるようになっていくってことなんです
やっぱり、自分の内側がどれだけ満たされているかによって変わっていくと思うんですよね
自分の内側が満たされていないと
やっぱり「愛してくれ」って言うんで
「愛を与えてもらわないと自分は満たされないんだ」って思うんですね
なんで、まず最初に
「自分で自分を愛する」
「自分自身を満たす」
「自己愛を機能させる」ってことが最初なんですよ
たとえ人が愛してくれなくても
「私は私を愛する」って言えるかどうか?
「やりたいこと」があったら、自分のやりたいようにやる
休みたくなったら、たとえ他人から非難されても休む
それができるかどうか?
それって他人が愛してくれなかったとしても
「私は私を愛するんだ」っていう、そういう決意をすることなんです
そうすると、自然と自分の内側が満たされていって
心と身体が活力を取り戻していくんですよ
そうして、「別に他人から愛されなくてもいいか」って思うようになるんですね
自分で自分のことを満たせるようになるんで
他人に寄りかからなくなるわけです
で、そうして自立していくと、自分から主体的に人を愛せるようにもなるんで
例えば親御さんが、自分の子供を愛するとか
自分のパートナー、恋人を愛するとか
自分の生徒、自分の弟子を愛するとかっていうことができるようになるんですよ
で、それとは別に、さらにもっともっと自分を満たしていくと
それがどこかで臨界点を超えて溢れ出すんです
自分の外側に全方位に向かって対象を限定せず
全方位に向かって「愛」が溢れ出すのね
そうすると「愛」っていうのは「行為」じゃなくて、「状態」になるんですよ
「ただ愛である」っていう風になるんですね
っていう感じで
自分の内側が幸福感でどれだけ満たされているかによって、「愛の段階」が決定されるんですね
なので
「愛を求める」っていう時には、まず自分がどの段階にいるかを確認するんです
自分はまだ「外側からの愛」を求めているのかどうか?
「外側からの愛」を得るために頑張っているのであれば
それはどっかで行き詰まるんですよ
だって他人をコントロールすることはできないから
他人があなたを愛するかどうかっていうのは、他人にしか決められないんです
なので、やっぱりそういう時はまず
「自分で自分を愛する」っていうことが必要だと思うんですよね
もちろん、「いや、それでも自分は他人からの愛を求めるんだ」って言うんだったら、私は止めませんけども
でも、やっぱり限界があるんですよ
エーリッヒ・フロムはそれを「未成熟な愛」って言ってて
エーリッヒ・フロムがなぜそれを「未成熟な愛」って言ったかっていうと
大人は「愛されること」では満足しないからなんですよ
子供はね、「愛されること」で満足できるんです
子供のうちは愛されていれば、それで満足できるんだけど
大人になっちゃうと、「愛される」だけじゃ満足しなくなるんですよ
それについては、たぶん、大人は心が成熟して発達しているからだと思うんです
大人っていろんな能力が発達してきていて
子供の時よりもいろんなことを知ってるじゃないですか?
大人は自分の潜在可能性が頑張れば開花するっていうのを、自分でも分かってきてるから
受動的に「愛される」だけじゃなくて
「主体的に愛する」っていう能力を使ってないと
それを成長させてないと
大人は満足できなくなるんですよ
だから、大人は「愛される」だけじゃ満足しないんですよね
たとえどんなに愛されても、なんか虚しくなるんです
なんとなくね
自分は「本当に欲するもの」を得ていない
「自分がするべきこと」をしていないっていう感覚になるんですよ
だから、大人になったら「愛する」っていうことを試みないと、心が満足できないんですよね
なので、まずは「自分で自分を愛すること」が大事になります
そうして自分で自分を愛していると、幸福感が内側に満ちてくるんですよね
「ああ、これでいいんだ」
「自分は自分のままでいいじゃないか」って
他でもないその人自身が、「自分らしくあること」を自然と喜べる状態になっていって
幸福感が溢れてくるんですよ
そうすると、自然と主体的に他人を愛せるようにもなっていって
最終的には、それが全方位に放射するようになるっていうことなんですね
なので、まず自分で自分を愛しましょう
そうしたら自然と「他人を愛すること」ができるようになります
「愛する」っていう能力が開発されてくるんですよね
「愛される」っていう性質
自分の年収とか、自分の容姿とか、資格を持っているとか、こういう能力があるとかっていう
そういう「愛されるスペック」を磨くんじゃなくて
「愛する」っていう自分自身の資質
潜在的な能力を育てていくっていう方向に舵を切った方がいいと私は思います
大人の場合はね
そうすると、自然と自分の内側が満たされるようになっていって、
「愛する」っていうことができるようになって
もっともっと自分を満たしていけば
「愛」っていうのはもはや「行為」に縛られることがなくなって
「対象」に縛られることがなくなって「状態」になります
その時、人の心は「自由」になるんですね
「対象」によって、「世界」によって束縛されなくなるわけです
「この人がいなくなったら嫌だ」とか
「この人にいてもらいたい」とか
「この人に対してこそ愛を注ぎたい」とかっていう風に
世界に束縛されなくなるってことですね
そして、それが「自由である」ってことなので
だから「愛」と「幸福」と「自由」は同じものであるってことですよ
「愛」があれば、そこに「幸福」はあるし
「幸福」があふれれば「愛」は周囲に放射される
そして、そういう状態になると、世界に束縛されなくなるので
特定の対象に束縛されなくなるので
その人は「自由」で在れる
こういうふうに全部つながっているという感じなんで
要するに、あんま肩肘張らずにね
「幸せに生きたらいいじゃん」っていうことなんです
自分で自分を認めてあげる
「自分はこのままでいいんだ」っていう形で、「愛して」あげる
大切にしてあげる、尊重してあげるっていうことが
全てを得るための「マスターキー」であると思っていただいて
「今日ものんびり過ごしましょう」という話でした
はい、ということで
第1回目の講話という名目の枠は、これで終わりにします
また何か言いたいこと思いついたら、こんな感じで枠を作るんで
気の向いた時に聴いてもらったらいいと思います
どうもありがとうございました

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