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youtubeからの転載停止と、新たな気づきについてのご報告

このところ、ブログがすっかり「youtube動画の転載場所」のようになっていました。

youtubeで動画をアップする際に、その都度ブログでも記事を作っていたからです。

でも、おそらく「動画を観たい」と思っている人は、もはやブログをチェックせず、直接youtubeの私のチャンネルを確認するようになってきているのではないかと思います。

なので、今後はブログで動画の転載記事は作らないことにしました。

一応、動画アーカイブのコーナーには、新しい動画やライブのアーカイブを、そのつど格納していこうと思っていますが、記事にして転載はしません。

そのほうが、ブログも全体としてスッキリすると思いますし、私としても投稿の手間が省けます。

それで、代わりにもう一度、文章メインの記事を書いていくつもりです。

実は、昨日の朝にかなり大きな気づきがありまして、現在、認識が高速度で書き換わっているところです。

そもそも、私は去年の年末に「世界が実在しない」ということを感覚的に理解し、「探求は終わったのかもしれない」と思って、このブログを始めました。

ただ、私自身は「本当に探求は終わったのだろうか?」と内心では疑っていて、継続的に検証をおこなっていたのです。

確かに、「世界は実在しない」という理解が起こってからは、束縛されることが激減していました。

私は自我が傷つくことを恐れなくなりましたし、未来が不確定であることも恐れなくなっていました。

非常に自由になっていたことは確かです。

しかし、半月ほど前からyoutube上で活動をするようになり、新しい人と出会ったり、活動の幅が広がったりしていく中で、徐々に感情的な揺らぎが大きくなっていきました。

私はそれらの揺らぎを感じる度に、胸でそれを味わって溶かしていきました。

「感情の揺らぎがそこに在る」という自覚と共に、それを見つめていたのです。

ただ、そうして胸で感情を見つめていると、自分自身が一緒に振り回される感覚をしばしば経験するようになっていきました。

その時も、「この振り回されている感覚は錯覚なのだ」とわかってはいたのですが、振り回されている感覚にはかなりのリアリティがあったので、それに巻き込まれることもしばしばでした。

確かに、胸で感情を味わっていれば、いつかはすべて消えていきます。

そして、あらゆる感情の根底には、「無感情」としての「無垢」があり、その中で溢れ出てくる「無条件の喜び」こそが、自分にとっての「本当の本質」であると感じていました。

しかし、その「本質」があまりにも頻繁に「感情の揺らぎ」によって覆い隠されるようになったことで、私は疑問を持つようになったのです。

「やっぱり探求は終わってなかったんじゃないか?」と。

それで、胸で感情のエネルギーを受け止めることをやめて、思考や感情の波が発生した時に、それを下っ腹の一点に流してみることにしました。

そもそも、私たちの身体には、エネルギーの波を受け止めることのできる部位とできない部位が存在しています。

一番受け止めてはならない部位は「頭」です。

外からの情報や他人が向けてくる感情などのエネルギーを「頭」で受け止めようとすると、精神的に非常に不安定になります。

「胸」は、「頭」に比べると受け止められるキャパシティが大きいですが、それでもあまりに大きなエネルギーが流れてくると、感情が揺さぶられて動揺することになります。

それに対して「はら」というのは、エネルギーを受け止めることに特化したセンターです。

ここに思考や感情のエネルギーを流すと、それは「どこか広大な場所」に向かって放電されていき、自分の内側には残らなくなります。

いわば、エネルギーを「宇宙」という広大なスペースへアースするような感じで、「自分の心身」という限定的な回路の中でショートを起こさないようにするわけです。

今までの私は、「胸」で感情を味わってそれを溶かしていたのですが、そうすると、時には「胸」という回路の中でエネルギーが暴走して爆発してしまいます。

これはつまり、自分の心身を「通り道」にできておらず、途中でエネルギーをせき止めてしまっている状態です。

そうではなくて、エネルギーを完全に「肚」まで通してしまって、そこから「宇宙」に放電するようにしたほうが、結果的に「静寂」の中に留まりやすいのではないかと思ったのです。

そもそも、「胸」は「人間的な感情を司っているセンター」であり、「肚」は「宇宙的な実在とつながっているセンター」です。

このため、「胸」に軸足を置いていると、確かに愛情深くはなるのですが、意識は水平方向に拡大していく傾向があります。

要は、「より多くの人と仲良く交流したい」という感じになりやすいわけですね。

これはまさに、この半月ほどの私の行動の傾向とも合致しています。

私はより多くの人とかかわりを持ち、友好を結びたいと感じて活動していたのです。

ですが、昨日の朝から試験的に「肚」に軸足を移して過ごすようになった結果、「人間的な愛情」が薄らいでいって、「非人称的な慈悲」とでもいうようなものが芽生え始めました。

それは、同情や共感に基づいた「友愛の情」ではなく、ただ全てをあるがままに受け入れている「天地自然の在り方」に近い何かです。

「誰かを愛そう」とか「何かをしよう」とかいった意図や作為はなくなって、「在る」という感覚が前よりも深まった実感があります。

要は、「胸」を中心にしていた時の「水平方向への拡大」から、「肚」を中心にしたことで「垂直方向への深化」が起こり始めたわけです。

それと同時に、「感情的な揺らぎ」は沈静化していき、「静寂」も深まっていっています。

その「静けさ」は、以前の私がまとっていた「人間的な賑やかさ」を脱ぎ捨てた後に現れた、「本来の存在の質」であるように感じています。

そんなわけで、昨日からずっと、この「『人間』を脱ぎ捨てた後に残る静けさ」の中に留まる実践をしています。

今の私は仕事をしていないので、こういった実践をするには好都合です。

こうして文章を書いている今も、思考や感情のセンターに軸足を置かず、「肚の奥で感じる静寂」を維持しながら書いています。

思い返してみると、今まで書いていた文章は、なんだかんだで、「頭」や「胸」に軸足を置いて書いていたようにも感じます。

私の中にはまだ「自我の欲求」が残っていて、それに支配されながら書いていたのかもしれないです。

今後しばらくは、「胸」から「肚」へ軸足を移して、「内側の静寂」をもっと深めていこうと思っています。

「人間としての色」を落として、「存在そのものの透明さ」に心身を馴染ませていく修行サーダナです。

ただ、最終的には「肚」という身体部位にこだわる必要もなくなるのだろうと思います。

今は単に、「存在」にアクセスするための方便として、「肚のセンター」を利用していますが、本来、「真我」は特定の身体部位とは関係がないはずです。

それはただ「在る」だけであり、「身体のここに在る」という仕方で示すことはできないものだと思います。

実際、昨日の夜あたりから、「肚」から意識が離れていても、「実在の静けさ」が持続していることが増えてきました。

要は、「常に肚を意識していなければならない」というわけではないわけです。

とはいえ、まだ昨日気づいたばかりなので、さすがにうまく言語化できませんね。

いずれにせよ、今後は今までと言うことが少し変わるかもしれません。

以前は「これが答えだ」と言っていたことを、一つずつ訂正していくようになると思います。

ただ、私の中にはそうするだけの必然性があるので、あくまで今現在のリアルタイムの気づきを文章化していこうと思っています。

ということで、「youtubeの転載をやめること」と、「認識の大幅な書き換え」についての話でした。

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