昨夜のゲリラ・ライブでは、視聴者の方がリアルタイムで参加してくださり、なかなか面白いやり取りができました。
せっかくなので、その時に話したことを、文章でも残しておこうと思います。
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【ライブ配信・第七回】「仏性」の想起と、「人生」という映画について
昨日のゲリラ・ライブ後半の質疑応答では、「世界の実在性」についての話題になりました。
まず、「目が覚めている時と夢を見ている時は同じなのか?」という問いがスタートでした。
私の答えは、「どちらも主観であるという意味では同じ」というものになります。
「現実(と人々が呼んでいるもの)」と「夢」は、どちらも「主観」です。
つまり、どちらも私たちの「ハート」が「意識=自己」というスクリーンに映し出している映像なのです。
ただ、「夢の中の出来事」は、時として自分の思い通りにコントロールすることが可能なのに対して、「現実での出来事」はコントロールすることはできません。
いちおうそういった違いこそありますが、どちらも「ハートが見ている映像」である点は同じなわけです。
このことが感覚的に納得できるようになると、「世界」によって束縛されることが激減します。
なぜなら、「世界」とか「人生」とかいったものが、「映画館のスクリーンに映っている映像」に過ぎないように感じられるようになっていくからです。
世の中のほとんどの人々は、「現実」を唯一絶対のものだと思い込んでいます。
だからこそ、「現実」の中で孤立したり破産したりすると、「大変なことになった!」と言って大騒ぎするのです。
でも、もしも「現実」が「ハートの見ている夢みたいなもの」だと感覚されるようになると、「人生」で何が起ころうと、それによって動揺しなくなっていきます。
たとえば、「夢」の中で他人に裏切られたり、財産をすっかり失ったりしたとしても、「でも、これってしょせん夢だしな」と思って動揺しないでいられます。
もちろん、「これは夢だ」と気づいていない場合、「夢」の中でも動揺するでしょうけれど、「夢」から覚めて「現実」にやってくると、「あー、よかった」と思って安堵するはずです。
「悟り」という現象が起こると、「現実」を生きている場合にも、徐々にそれと同じような心地がするようになっていきます。
つまり、「現実」そのものが「夢」みたいに感じられるようになっていくわけです。
実際、ヒンドゥー教の瞑想技法であるタントラの中には、「起きている間、常に『これは夢だ』と想起せよ」というものがあります。
起きている間、絶えず「これは夢だ」と想起し続けると、まず寝ている時に夢を見た時、「これは夢だ」と気づけるようになっていきます。
要は、「自分は夢を見ているだけだ」と自覚できるようになっていくわけですね。
そこからさらに、「これは夢に過ぎない」というこの感覚は、「寝ている間の夢の世界」から「現実世界」にまで浸食し始めます。
そうして最終的には、「世界」や「人生」そのものを「夢のようなもの」として感じるようになるわけです。
すると、私たちはもう「自分の人生」について深刻に考えなくなります。
なぜなら、それはしょせん「夢みたいなもの」だからです。
そして、「夢」の中で孤立したり破産したりしても別に心配しないのと同じように、「現実」において孤立したり破産したりしても、当人はそれを特に問題視しなくなっていきます。
すると、肩の力が自然と抜けて、その人は「自力」ではなく「他力」で生きるようになっていくのです。
つまり、「大きな何か」によって流され始めるわけですね。
それが「明け渡し」ということの意味です。
自分自身を「大いなるもの」に明け渡し、たとえ「人生」で何が起ころうと、ただそのままに受け入れる。
その時、当人はもはや「世界」に束縛されなくなり、「自由な心」で生きていけるようになるわけです。
というような話を昨日はしました。
やはり視聴者が質問をしてくれると話が面白くなります。
なるべく多くの人が参加しやすいよう、今後も夜にライブをしようかと思っています。
ライブの開始通知は、私のチャンネルの登録者になると届くようになりますので、もしお時間がある方は、気軽に遊びに来てくださいね。
ではではー。

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