「自責思考」と「他責思考」というものがあります。
一般的には、「他責思考は良くない」と考えられていて、「何でも他人のせいにせず、時には自分の言動を振り返ろう!」と言われることが多い印象が私にはあります。
ただ、「他責思考」について、単に「善い・悪い」で考えてしまうと、「他人のせいにする自分は悪い人間だ」と思って自分を過剰に責めてしまったりすることもあります。
それは「自責思考」が強くなり過ぎている状態であり、それはそれで問題があります。
大事なことは、「善い・悪い」というラベルを貼って片付けてしまうことなく、もっと冷静に「他責思考」のメリットとデメリットを分析することでしょう。
では、「他責思考」のメリットとデメリットとは、いったい何でしょうか?
「他責思考」の一番のメリットは、「知的な負荷が少なくて楽」ということだと思います。
実際、なんでも他人のせいにして、「相手が悪いんだ」という風に結論付けてしまうなら、それ以上は何も考える必要がなくなります。
それによって当人は、自分を変える必要がなくなりますし、「相手が何とかすればいい」と思って、そのまま構えていられるわけです。
それゆえ、「楽をしたい」と思う人は、「他責思考」を採用することにも意味があります。
実際、「他責思考」を採用する限り、「知的な負荷」を低く抑えることができますし、自己分析や自己成長をしていく必要もなくなるので、「楽な状態」に留まれます。
「他責思考」によって問題が発生するのは、「あまりにも楽をし過ぎた結果、逆に楽ができなくなる場合」です。
これこそが「他責思考」のデメリットの最たるものなのですが、
「他責思考」を採用していると、「知的な負荷」がなくなって成長が止まるので、そのうち、誰からも相手にされなくなるのです。
「あいつが悪い!」「こいつのせいだ!」と騒ぎ立てることが日常茶飯事になると、周りの人は「あぁ、また始まった…」と思って本気で相手をしなくなりますし、最終的にはみんな離れていきます。
それでいて、当の本人は「こんな風に人が離れていくのも、他人が悪いんだ!」と思い続けるので、「社会的な孤立」がさらに深まっていき、やがては生活にも支障が出始めます。
また、いつも他人のせいにすることで苛立ち続けるため、心が休まる時もありません。
そんなわけで、自己成長しなくなることによる「社会的な孤立」と「絶え間ない苛立ち」こそが、「他責思考」のデメリットです。
なので、「もしも楽ができるなら、別に社会的に孤立してもいいし、四六時中イライラしていても構わない」と思うのであれば、「他責思考」を選択するのはその人の自由です。
そして、人というのはみんな無意識にちゃんと計算をして、自分で「他責思考」を選んでいるものです。
つまり、「自己成長のための努力なんてしたくないし、自分の非なんて絶対認めたくない」と思っている人は、たとえどれほど社会的に孤立しても、心が荒みに荒んでも、決して「他責思考」を手放そうとはしないのです。
別に他人の悪口ではありません。
当の私がそうだったのです。
私は過去、三十年以上にわたって、他人のせいにし続けていたことがありました。
私はずっと「自分が悪いんじゃない」と思おうとし、「自分がうまくいかない原因は外側にあるんだ」と思っていたのです。
その結果どうなったかというと、仲間はみんな去っていき、妻は子どもを連れて実家に帰っていきました。
それでもなお、私はそれを「自分の蒔いた種だ」と認めることができなくて、徐々に精神的に錯乱していったのです。
最終的には、仕事場で発狂してしまい辞職し、やがては生活費がなくなって生きていけなくなってしまいました。
そこまで行った時、私はようやく「自分が間違っていたのだ」と認めることができたのです。
私は「他責思考」を手放すことがなかなかできませんでした。
なぜなら、当時の私は「本当は自分が間違っているのだ」と認めるのが怖くて仕方なかったからです。
当時は、一度でも「自分が間違っている」と認めてしまうと、何もかもが崩れ去ってしまうように感じられていました。
「そうなったら、自分は終わりだ」と思っていたわけですね。
でも、実際には、「自分は何も間違っていない」という観念にしがみつき続けた結果、仲間も家族も仕事もお金も失って、私は「終わって」しまいました。
「自分を終わらせないため」に「他責思考」にしがみついたはずなのに、気づいてみたら、その「他責思考」自体が、私を「終わり」に導いてしまったわけです。
その時、私の中でようやく「天秤」が傾きました。
それまで私は、何だかんだで無意識に計算をして、「他責思考にしがみついたほうがお得だ」と判断し、「他人が悪いんだ!」と言い続けていたのですが、実際に何もかもを失った時、
「他責思考はお得じゃない」と、やっと気づいたのです。
もちろん、そこまで極限的な状況でなければ、「他責思考のほうがお得」ということは十分あり得ます。
そして、だからこそ、世の中の多くの人は「他責思考」をなかなか手放そうとしないのです。
なぜなら、「他責思考」にしがみついている限り、「自己成長の努力」を回避できるし、「自分が間違っているのだ」と認めなくて済むため、「自我(エゴ)」が傷つかないからです。
このため、成長を回避し、「エゴ」を守ろうとする程度が強ければ強いほど、その人は「他責思考」に長期間しがみつき続けます。
というのも、そういう人の目には「他責思考」が非常に「お得」に見えるからです。
しかし、過去の私の例のように、「他責思考」は少しずつその人を「終わり」へと導いていきます。
どこで「天秤」が傾くかは、人それぞれです。
私よりもっと手前で天秤が傾いた人は、「このまま行くと破滅するから、他責思考はほどほどにしよう」と思って、「破滅」するよりもずっと前に、踏みとどまることができるでしょう。
でも、私のような「エゴ」が強いタイプの人間は、実際に「破滅」するまで「天秤」が傾くことがありません。
そういった人には、最後の最後まで「他責思考」のほうが「お得」に思えてしまうのです。
おそらく、「他責思考はそんなにお得じゃない」ということに早めに気づける人は、内省力が高いのだろうと思います。
そういった人は、「自分の破滅」を早めに見通して、前もって進路変更できるわけです。
しかし、だからと言って、「何もかも自分が悪いのだ」と考えるのも、それはそれで問題があります。
実際、「自責思考」も、行き過ぎると「知的負荷」が少なくなって「成長」が止まります。
そこにおいては、「何もかも自分が悪いんだ」と決めつけてしまって、「ひたすら自分を責めて終わり」なので、それ以上内省が深まっていかないわけです。
これもある意味で、「知的な負荷を減らしたい」という欲求の現れです。
もちろん、「自責思考」が強すぎる人は、幼少期に親や教師から否定された結果としてそうなっている部分もあるでしょう。
ですが、それと同時に、当人の中には「自責思考から出るのが怖い」という想いもあります。
なぜなら、「極端な自責思考」から抜け出す場合、「どこまでが自分の責任で、どこからが他人の責任なのか」を冷静に見極める必要が出てきますし、その上で、「他人の責任についてはきっぱりはねのける」という決断をする勇気も必要になるからです。
実際、「極端な自責思考」から脱却しようとする人は、「知的な負荷」が増えますし、「決断する勇気」も求められるようになります。
このため、「知的負荷の増大」と「勇気をもって決断すること」を避けたい人は、「極端な自責思考」から抜け出すことが難しくなりがちです。
そうして、その人はひたすら自分を責めては罪悪感によって苦しみ続け、ひどくなると自殺してしまうことにもなるのです。
大事なことは、「自責」と「他責」の間でバランスを取ることです。
「他責思考」にもメリットがあるし、「自責思考」にもメリットがあります。
ただ、どちらかに極端に偏ると、結果的に「破滅」を招きます。
私たちが「破滅」しないで生きていくためには、両方の極端から離れて、「真ん中」に立つ必要があるのです。
しかし、現実に「破滅」するくらいまでいかないと、なかなか気づかないのが、人間というものなのかもしれません。
実際、「これ以上こんなことを続けていてもダメだ」と心底気づいた時、人は本当の意味で変わり始めます。
それは、血が流れ、骨が磨り潰されるような「痛み」のある経験なのですが、どんな経典や聖典の教えよりも深く、当人のことを変容させます。
「痛み」こそが最大の教師となって、その人に学びをもたらすのです。
人というのは、時に救いがたく愚かなことをするものですが、だからこそ、愛おしいとも思います。
苦しんでいる人は、私にとって同胞です。
もちろん、私には当人の代わりに苦しむことはできないですけれど、
「私もまた苦のない人生を望むまい」とは、私はいつも思っています。

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