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「正しい瞑想」ではなく「楽しい瞑想」を|「楽観主義」こそが「内側の問題」を解決する

昨日の瞑想会について、少し文章にしておこうと思います。

初の瞑想会でしたが、参加者はお二人で、どちらの方も他県からお越しになっていました。

なお、さっき配信したラジオでも話したのですが、瞑想会を開いている間は、ほとんど身体のワークをして過ごしました。

これは、「身体を開くことで瞑想は自然と起こる」と私が考えているためです。

実際、もしも身体がリラックスすると心は透明になるし、心が透明になれば思考は自然と沈静化します。

一般的な瞑想のアプローチだと、眉間や呼吸に頑張って集中することで、無理やり思考を追い出すのですが、私はそういう方向性を取りません。

なるべく、頑張ってやらない。

楽しく、愉快に瞑想したいのです。

いえ、本当は「瞑想をしたい」とさえ思っていなくて、私は「瞑想を味わいたい」のですね。

実際、瞑想には「固有の味」があって、経験するとそれがわかるようになります。

身体がリラックスして、心が澄んできて、思考が沈静化して、「ほっ」と安心する感じ。

「あぁ、これでいいんだ」
「何も変えなくていいし、どこにも行かなくていい」
「世界は既に美しい」

そんな風に「感じる」ことができる瞬間、内側で瞑想が花開きます。

別に、そういう風に「考える」必要はなくて、ただ純粋にそう「感じる」だけです。

その時、その人の中ではもう「ゴール」が消えていて、当人は「ずっと居たかった場所」にいます。

もちろん、「頭」はこれに抵抗します。

「自分なんてまだまだだ」
「もっと遠くまで行かないといけない」
「こんなところで満足していちゃいけない」

そんな風に思って、私たちは「ありのままの自分」にリラックスすることができません。

「苦しみを根絶しなければならない」
「絶対的な境地に至らないといけない」
「悟りを実現しない限り幸せはない」

そうして、自分自身を束縛してしまうのです。

もちろん、「とことんまで徹底的にやらないと気が済まない人」というのはいます。

実際、私自身がそうでした。

私は「なんとなくの幸せ」では満足できなくて、「絶対的な幸せ」を求めていましたし、「なんとなくの安定」ではなく「絶対的な安定」を求めていました。

だからこそ、行けるところまで行って、全てを自分の目で確かめないと納得いかなかったのです。

しかし、そうやって徹底的にやり切った結果、辿り着いた結論は「とても当たり前のこと」でした。

「答え」は自分の中に最初からあり、「なんでもない日常」を超えるような神秘など、どこにもなかったのです。

それで、「結局、どこか遠くに行く必要なんてなかったんだ」と、私は思いました。

どんなに「遠く」へ行ったとしても、「帰っていくべき場所」は日々の生活であり、悩み、苦しみながら生きる人々の輪の中なのだと、私は最終的に悟ったのです。

自分一人だけ「超然」としていて何になりましょう?

私もまた苦しみながら生きる一人の人間です。

そして、それで私には十分なのです。


そんなわけで、瞑想会のコンセプトも、「楽しい瞑想」です。

「正しさ」ではなく「楽しさ」を感じてもらおうと思って、身体の感覚を味わうワークをたっぷりやりました。

ただ、参加者の方はお二人とも真面目な方だったので、一生懸命頑張って、「ちゃんとやろう!」と思っているようでした。

私としては「もっと気楽に味わったらいいのになぁ」と思うのですが、かといって「それじゃダメです!もっと気楽にやってください!」と言い始めたら、余計に緊張してしまうかもしれません。

そもそも、「気楽さ」というのは外から押し付けるものではなく、内側から花開くものです。

それゆえ、「気楽さこそが正義だ」と言って押し付け始めると、自分が現にやっていることが自分の言葉を裏切ってしまいます。

なぜなら、「正しさ」について語り出すと、「気楽さ」は生まれてこないからです。

私たちはもっと「楽観的」になっていいと思います。

少なくとも、「内側の問題」についてはそうです。

「外側の問題」については、「楽観的」であってもうまくいかないことが多いですが、こと「内側の問題」については、「楽観的であること」は強力な推進剤になります。

「自分はまだ全然だめだ」
「こんなことが自分にできるわけがない」

そんな風に「悲観的」に考えると、「内側の問題」を解決するのはどんどん難しくなっていきます。

自分で「自分の問題」を難しくしてしまうのですね。

それは、「内側の問題」というのが、基本的に諦めると解決するものだからです。

「あぁ、もう別にどうでもいいかぁ」と、「楽観的」に思えるようになると、「内側の問題」は勝手に解決します。

逆に、「こうでないといけない」と握りしめれば握りしめるほど、「内側の問題」は強大になります。

結果をコントロールしようとし、自分自身を受け入れられなくなることによって、私たちは自分で自分を縛るのです。

とはいえ、身体の中に歪みや滞りがあるままで「楽観的」になるのは難しいものです。

筋肉が凝り固まって血流が滞り、呼吸が浅くなってエネルギーレベルが低下し、姿勢が崩れてうまく立てなくなっていると、どうしたって力んでしまいますし、執着を捨てるのも難しいです。

だからこそ、私は身体からアプローチします。

そうすれば、そこから心にもアプローチできますし、結果的に瞑想は自然発生し始めます。

そして、そのような「自然発生する瞑想」こそが、本当の意味でその人のことを自由にしてくれるものだと、私は思うのです。


ということで、昨日の瞑想会ではひたすら身体のワークをやりました。

ただし、「機械的にひたすら身体を動かせばいい」というわけではなく、「意識して味わう」ということを、私は大事にしています。

無意識的・機械的に動作を繰り返すのではなく、その感覚を深く味わうのです。

これについても、さきほど動画を一つ上げたので、興味のある人は観てみてください。

ちなみに、今回参加されたお二人は、次回もまた参加されるそうです。

よほど何か得るものがあったのかもしれません。

参加された方からはメールで感想もいただいていまして、こんな感じのことを思われたそうです。

【遠方からお越しのNさん】
瞑想会に参加したことで呼吸法の実践の仕方がわかり、書籍の理解も深まりました。
また、私の身体の使い方の滞りを指摘していただき、それを解消するためのワークをご指導いただけたことも収穫でした。
湯浅さんの身体の動かし方を拝見でき、自身の実践の参考になったと感じています。
湯浅さんとお話しして、他の参加者である先行く探求者の方とも交流が持てて、とても良い刺激になりました。

ご覧の通り、瞑想会の感想ですが、この方の気づきは瞑想ではなく、身体のことがメインとなっています。

そして、「それでいい」と私は思っています。

瞑想のことはいっそ忘れてしまって、身体で夢中になって遊んでいれば、いつの間にか瞑想は起こっているものです。

瞑想を「起こそう」と思って努力するのではなく、ただ身体の感覚で遊べばいい。

私はそう思います。

なお、次回の瞑想会は3/22(日)13:00~14:30に岡山県の岡西公民館にて開催予定です。

詳細はこちらから!

瞑想会のご案内

初心者の方は大歓迎ですし、遠方から来られる方も受け入れています。

また、参加に際して不安に思っていることや悩んでいることがあれば、気軽にお問い合わせください。

なお、お問い合わせや参加の申し込みはこちらからできます。

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ではでは。

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