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私の言葉の功罪について|瞑想会を終えて感じた当ブログの問題点

昨日は、初の瞑想会の開催日でした。

参加者は、どなたも他県から来られた方たちで、それぞれに何年も実践を重ねてきた経験の持ち主です。

そして、私のブログも熱心にお読みになっており、いろいろと疑問を抱えておられるようでした。

私が本やブログで提示している方法も実践されているようだったのですが、彼らの話を聞いていて、私は自分がこれまでにやってきたことのうちに、二つの問題点に気づきました。

それは以下の二つです。

  • 言葉でしか説明しなかったために、本来の意図と違った仕方で伝わっていること
  • 私があまりにも網羅的・体系的に説明し過ぎたために、「これを全部できるようになるならいといけないんだ」という思い込みを読者が持つようになってしまったこと

ここから一つずつ説明してみます。

◎意図しない仕方で伝わる危険性について

そもそも、今まで私はずっと文章だけで技法の説明をしてきました。

動画はおろか、技法を実践する際の写真さえ掲載したことがなく、読者は文章だけからやり方を想像して実践するしかない状況だったわけです。

そして、昨日の瞑想会に来られた方は、私が意図していたのとは違った仕方で実践をおこなっていました。

文章だけでは細かいニュアンスが伝わらなかったため、必然的に私の意図とズレてしまったわけです。

もちろん、何もかも私の意図したとおりでないといけないというわけではありません。

しかし、心身の変容について扱う技法は、やり方次第ではかえって心身を損なう可能性もあります。

幸い、昨日参加された方たちはそこまで危険な逸脱の仕方はしていなかったのですが、ひょっとすると、読者の中には、私が提示した技法をしたことで、かえって心身を損なってしまっている人がいるかもしれません。

なので、なるべく早めに技法のレクチャー動画を整備しようと思っています。

実際、文章で読んで想像するのと、映像と音声で理解するのとでは、情報の量も濃度も圧倒的に後者が上です。

文章だけで分からなかったことも、動画を見れば「こういうことだったのか!」とわかってもらえるのではないかと思います。

また、どうしてもわからないことがあるようであれば、いつも言っていることですが、私に個別にメールで質問してください。

必要があれば、リクエストに合わせて動画を新たに作成することもできます。

そもそも、「これについてわからない」と思っている人が一人いれば、その背後には、同じような疑問を持ったまま黙っている多くの人がいるものです。

そこで一人が思い切って声を上げると、そこから生まれた私の回答が、他の誰かの利益にもなる可能性があります。

なので、「こんなことを疑問に思っているのは自分だけなのでは?」と考えず、気軽に質問してください。


とにかく、私の意図しない仕方で実践者が心身を損なうことのないように、動画の整備を進めます。

この点について問題意識をお持ちの方は、メールで確認できることはメールして聞いていただき、動画については今しばしお待ちいただければと思います。

なお、お問い合わせはこちらからお願いします。

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◎説明し過ぎたことの弊害について

次に、私があまりにも網羅的・体系的に説明し過ぎたことによる「弊害」についてです。

そもそも、私はこうしてブログで文章を書く時、その時々で対象者のイメージを変えています。

「こういう問題意識の人にはこの記事」
「こんなポイントで引っ掛かっている人にはこの記事」

という感じで、記事によってイメージしている対象者が違うのです。

そのため、全ての記事の内容を全部きちんと理解して、全部の技法をマスターする必要があるわけではありません。

むしろ、8~9割くらいは、あまり自分とは関係ない問題についての記事だと捉えてもらっていいと思います。

もちろん、自分事として受け止めてはいただきたいのですが、「全部理解して、全部できるようにならないといけないんだ」と考える必要がありません。

また、私はこのブログの「連載記事」や、主著である『「自由」とは、深く息ができるということ』の中で、「探求全体のロードマップ」を示しています。

要は、なるべく多くの人がステップバイステップで進んでいけるように、たくさんのマイルストーンを置いているのです。

「これができたら、次はこれ」
「それもできたら、今度はこれ」

といった感じで、読者が一歩ずつ進めるように意識して技法体系を設計しています。

しかしそれは、そもそも私にはそれぞれの読者の「現在位置」がわからなかったからです。

読者によって、「今の課題」も違えば、「次の一歩」も違います。

それぞれの読者が「ユニーク」なので、そうであって当たり前です。

しかし、不特定多数の読者に向かって体系的に語る場合、どうしても網羅的に説明することになってしまいます。

つまり、「特定の人には関係するけれど、他の人にとっては無視していい論点」についても、必然的に扱うことになるのです。

このため、こういった体系的な説明を通読した人は、「これらのステップを全て踏破しないといけないんだ」という思い込みを持ってしまうことがあり得ます。

というか、おそらくかなりの人が現にそうなっているはずです。

しかし、実際には「全てのステップの踏破」は必要ではありません。

「本当にその人にとって必要なステップ」というのは、実はそれほど多くないのです。

でも、私はどういう状況に置かれている人が読むかわからなかったので、「どの段階の人にも役に立つように」と思って、ステップを非常に細かく分けたわけです。

そして、それが結果的には裏目に出てしまい、「これを全部歩まないといけないんだ(ゴールは果てしなく遠そうだな…)」という無力感や絶望感を、読者に植え付ける結果となりました。

私はそれを、昨日の瞑想会の参加者の方から学びました。

私があまりにも網羅的・体系的に説明し過ぎたために、彼らは「ゴール」がどこかはるか遠くにあるものであるかのように、思い込んでしまっていたのです。

ですが、実際のところ、「ゴール」は最初から足元にあります。

本当は、ただそのことに当人が気づけばいいだけです。

しかし、私たちはあまりにも「頑張って何かを達成する」ということばかりを教育されてきたために、「自分は既にゴールにいる」と信じることができません。

それを信じるよりも、「自分はまだまだ道半ばで、これから『悟り』を達成しなければならないんだ」と考えるほうが、ほとんどの人にとって容易なのです。

ですが、実際には「ゴール」というものはありません。

そして、だからこそ、人はどこまでも歩み続けます。

そもそも「ゴール」がないのですから、「止まる」ということもないのです。

多くの人は「ゴールに到達したら楽になれるのだろう」と思っていますが、そんなことはありません。

むしろ、「ゴールは存在しない」とはっきり悟った時に、その人にとっての「本当の旅」は始まるのです。

「正解」も「終点」もないまま、ただ「自分自身の命」を表現し続けること。

それが「ゴールが消えた人の生き方」です。

なので、「悟り」というのは「ゴール」ではなくて「スタート」です。

それは、「ゴールの存在しない旅の出発点」なのです。

私の活動の目的は、読者がそのような「出発点」に立つことができるように導くことです。

いえ、実際には導いているわけではありません。

それだと、まるで私が当人のことを「外側」に連れ出しているみたいです。

実際には、当人は「自分の内側」を見ればいいだけです。

「答え」は最初からそこに在り、その人に見つけてもらえるのを待っています。

でも、ほとんど全ての人には、その「当たり前すぎる真理」が見えないので、「技法を実践する」ということが、「方便」として必要になったりします。

つまり、私が「外側」から与えた技法を自分自身で実践し、それを少しずつ「内面化」していくわけです。

もしもこの「内面化」が十分に進んだならば、その人は「私の教え」によって縛られなくなり、「自分の言葉」を獲得することができるでしょう。

その時、「方便としての技法」は捨てられることになり、その人は「私の言葉」ではなく、「自分の心」に従って生きるようになるのです。

ともあれ、網羅的・体系的に説明し過ぎるのも考えものです。

それは確かに「親切」ではあるかもしれませんが、多くの人にとっては「余計なおせっかい」になってしまいます。

ある人に必要な技法の数はそれほど多くないものです。

また、人によっては私が提示したのとは違う順序でステップを踏んでいる可能性もあります。

その場合、読者は私の説明を読んで、「自分はまだこの段階がクリアできていないから、その先のこともわかっていないのだろう」と思うかもしれませんが、実際には、もっと先まで実は進んでいたりします。

なので、「私が説明のために便宜的に設定した探求の順序」にはこだわらず、自分の感覚を信頼してください。

それでも「自分の現在地」と「自分にとっての次のステップ」がわからない場合は、いつも言っていますが、私に個別にメールをください。

そうしたら、「その人だけに特化した仕方」で、「本当に必要なステップ」だけをお示しします。

ということで、お問い合わせはこちらです。

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◎終わりに

瞑想会の様子についてもお伝えしたかったのですが、それはまたの機会にしまして、今回の話はこれで終わろうと思います。

とにかく、「わからない」と感じたら質問して、「わかった」と感じたら私の言葉は忘れてください。

最終的には、「自分の心」こそが羅針盤です。

私の言葉はあくまでも、そのことを当人が思い出すための「よくできた嘘」に過ぎないのです。

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