昨日、少し考えたことがあるので記事にしておこうと思います。
それは、私たちの「道徳」と「律法」の起源についてです。
最初に断っておきますが、これは一種の「神話」です。
学術的な裏付けがあるわけではなく、私が勝手に「こうだったんじゃないか」と思って、妄想しているだけですので、それを自覚した上でお読みください。
おそらく、まだ「道徳」も「律法」もなかった時、人々が「どうしたらいいか」がわからなくて右往左往している中に、突如として「無根拠な自己肯定感」を持つ人が現れたのだと私は思います。
つまり、「外側」に一切根拠を求めず、完全に「主観的な判断」だけで的確に物事を処理できる人が現れたのです。
おそらく、当人にとってそれは「自然なこと」だったのだろうと思います。
きっとその人は、「内側」に自動的に湧き上がってくる想いと考えを、そのまま表現していただけでしょう。
でも、そのような「内的な必然性」がよく見えない人々は、こういった「無根拠な自己肯定感」から迷いなく判断を下す人のことを、「高貴な強者」だと思ったんじゃないでしょうか。
人々は「この人について行けばいいのだ」ときっと思ったことでしょう。
そうして、「リーダーと追従者たち」という形が自然と生まれてきます。
「リーダー」はその時々で即興的に判断し、「無数の智慧」を人々に分け与えたはずです。
それは、「追従者たち」にとって大きな恵みとなり、誰もが「幸せ」になれました。
しかし、ある時ついに「リーダー」の命が尽きる時が来てしまいました。
「追従者たち」は嘆き悲しんだでしょう。
でも、もはやどうすることもできません。
「リーダー」はこの世を去っていき、後には「追従者たち」だけが残されることになったのです。
しかし、これらの「追従者たち」の内側には、「リーダー」が持っていたような「無根拠な自己肯定感」がありません。
彼らには、いかなる根拠も持たずに「然り」と言うことができず、いつも「外側」に答えを求めてきました。
だから、「リーダー」がいなくなってしまったら、もうどうしたらいいかがわからないのです。
それゆえ、彼らは「かつてのリーダー」が残していった言葉や教えを引っ張り出してきて、これに寄りかかろうとし始めます。
彼らの中にある「根源的な不安」と「リーダーに対する愛着」が、彼らにそれを促します。
そして、かつて「血の通う生きた智慧」だったものは、「形骸化した形式」として、祭り上げらて行きます。
そもそもそれらの言葉や教えは、かつて「リーダー」が、あくまでも「目の前の特定の誰か」や「ある限定的な状況」の中で即興的に編み出した「その場限りの命の表現」でした。
しかし、「寄りかかるもの」を求める「追従者たち」は、この「もう終わった命」を無理やり延命させようとして、「金科玉条」にしてしまうのです。
こうして、「リーダー」という「外側の光」を失った人々は、その代わりになるものとして、「道徳」や「律法」を作り出します。
そして、後から来る人々に「これを守れ」といって押し付け始めるのです。
でもそれらは、もともと「特定の個人に向けた限定的な教え」に過ぎなかったものです。
そのため、全ての人にそのまま適用することはできません。
もしそのようなことをすれば、どこかで誰かが「不適応」をおこします。
そして、そのような「不適応」を起こす個体は、このような社会においては、「不道徳で間違った存在」とされてしまうのです。
もともと、「リーダー」は「自分を超えた何か大きなもの」から「智慧」を受け取って表現していました。
だからこそ、それはいつも瑞々しく、その場の状況にふさわしいものであったのです。
しかし、そのような「源泉」との接続を持たない人々は、「無根拠な自己肯定感」を持つことができないので、「リーダー」が残していった「智慧の影」にすがり、それを絶対化せずにはいられません。
そして、そうこうしていると、時には「かつてのリーダーと同じ素養」を持つ人が生まれてきます。
つまり、「無根拠な自己肯定感」を持ち、「自分を超えた何か」の声を自然と聞くことのできる人が生まれてくるのです。
しかし、「既存の権力者たち(かつての追従者たちの末裔)」は、こういった人のことを「傲慢な異分子」として排除しようとします。
なぜなら、彼らの目からは、このような「無根拠な自己肯定感を持つ個体」というのは、嫉妬の対象になるからです。
彼らは、かつて「リーダー」に見たのと同じ「無根拠な自己肯定感」の萌芽をそこに見ます。
しかし、彼らは「かつてのリーダー」の中に見た「光」への羨望が反転し、これが、後からやって来る「次のリーダー」への嫉妬となって感覚されます。
つまり、かつての「憧れ」だったものが、今度は「嫉妬」の対象となるのです。
実際、その新たに現れた「無根拠な自己肯定感を持つ人」は、「追従者たちの末裔が持っていないもの」を持っています。
彼/彼女は、「かつてのリーダー」と同じように、「外側」に根拠を求めることなく、「然り」と言うことができるのです。
そして、そのような「然り」は、必ず「既存の道徳や律法」を突き崩すものになります。
なぜなら、「かつてのリーダー」と「新たな人間」が、そもそも別な人間だからです。
私たちは皆、生まれつき「ユニーク」です。
同じように作られている人間は一人もいません。
だからこそ、「大きな何か」とつながって、「無根拠な自己肯定」を表現する仕方は、一人ひとりみんな違うのです。
かつてモーゼが人々に示した「十戒」と、後の時代においてナザレのイエスが人々に示した「福音」が異なるのもこのためです。
両者の言葉が異なるのは、モーゼとイエスがそもそも「別な人間」だからなのです。
しかし、「既存の権力者たち」はそういった「新たな福音」を認めることができません。
「かつてのリーダー」と同じように「無根拠な自己肯定感」を持っているがゆえに、「かつてのリーダー」と全く違うことをし始める人のことを、きっと彼らは「秩序を乱す反逆者」として処罰しようとするでしょう。
皮肉なものです。
その「新たに生まれてきた人」は、「次のリーダー」になれる素養があったのに、その素養があったからこそ、「かつてのリーダー」と反する生き方をするようになってしまい、結果的に「既存の道徳や律法」に反することになってしまったわけです。
こうして、「道徳」や「律法」という、「もはや血の通っていない残骸」が力を持ち始め、実際に生きている「血の通った個人」は、「ユニークさ」を抑圧されていくようになります。
そのような世の中にあっては、「ユニーク」であればあるほど、そして、「かつてのリーダーと同じ素養」を持っていればいるほど、「異分子」にならざるを得ないのです。
そこにおいては、「血の通っていない掟」が、非人間的に「個人の命」を磨り潰すようになっていきます。
「かつての追従者たちの末裔」自身にさえ、もはやそれを止めることができません。
誰もが「自分で感じ、自分で考える」ということを放棄して、「死んだ形式」に寄りかかることをやめられなくなったことで、彼らは、もともと命を持っていなかった「非人称的な掟」に、「それ自体の生命」を与えてしまったのです。
このようにして、「社会的なシステム」というものは生まれてきます。
それは「顔」も「個性」もない冷徹なロジックそのものであり、全ての人間を「唯一の正しさ」によって判定しては、そこから漏れる人々を断罪します。
確かに、それによって「表向きの秩序」は維持されるかもしれません。
しかし、それによって一人一人の人々は、「自分自身の命」を肯定することができなくなります。
人々は絶えず「システムによる判定」にさらされ続け、「自分の個性」を発現させようとする度に、叱責されたり裁かれたりします。
「お前は間違っている」
「お前は傲慢な思い込みから秩序に向かって反抗している」
「システム」はそんな風に言って、その人の「個性」を責めるのです。
ですが、何度も言いますように、私たちはみんなもともと「ユニーク」です。
だから、「かつてのリーダーの個性」と合致する人はどこにもいません。
それにもかかわらず、「かつてのリーダーが残した言葉の残骸」を絶対的な判定基準にしてしまうなら、そこから全ての人が漏れてしまうのは当たり前のことなのです。
このため、「完璧に道徳的な人間」というのは、たったの一人も存在しなくなります。
もしもそういう人間を作ろうと思ったら、その人のことを鋳型にはめて抑制し、「個性」を歪めていく必要があります。
その上で、もしも当人が「かつてのリーダー」と同じような「無根拠な自己肯定感」を持ち始めたら、自然と「罪悪感」に苛まれるように「教育」するのです。
それゆえ、現代に生きる私たちには「無根拠な自己肯定感」に留まることがうまくできません。
もしも「あぁ、これでもう何も問題ないや」と思い始めても、当人の中では、きっとすぐに「本当にそうだろうか?」という疑いが頭をもたげてくるでしょう。
つまり、「全てはこれで良い」と言ってそのことに納得することが、私たちにはうまくできないのです。
これは「追従者たちの末裔」が人々に施した「教育」の成果です。
「かつてのリーダー」と同じように「自分だけの個性」を発現させ始めた時に、その人が自動的に「罪悪感」を抱いて苦しむように、「末裔たち」は人々の「心」に鍵をかけておいたのです。
ですが、たとえ全体の秩序の中においては「異分子」として排除されても、なんとかして「自分だけの個性」を新たに発現させることができた人は、局所的には「新たなリーダー」となることがあります。
彼/彼女は「自分の命」が命じるままに、あくまで即興的に「新たな道徳」と「新たな律法」を作り始めるでしょう。
そうして、その人の元には「新たな追従者たち」が集まり始め、いつかは「既存の権力」に取って代わるかもしれません。
しかし、後の流れは同じです。
「新たなリーダー」もいつかは死に、後には「新たな追従者たちの末裔」だけが残されます。
そして、以前は瑞々しかった「新しいリーダー」の言葉や教えは、再び「死んだもの」となっていき、次の時代の「個性」を機械的に磨り潰す「次の社会システム」となっていってしまうのです。
この流れを断ち切るためには、「リーダー」の次に続く人々が「追従者」にならないようにする必要があります。
つまり、後に続く人自身が「リーダー」と同じ「無根拠な自己肯定感」を内に持ち、「リーダー」と違う、「その人だけの個性」を表現していけるようにする必要があるのです。
その時、もはや「システム」は生まれてこなくなるでしょう。
誰もがみんな、「自分の光」を生きるようになります。
誰かの真似をすることもなく、誰かの追従者になることもなく、誰もが「自分自身」を生きるようになるのです。
そして、そうなって初めて、私たちは「自分の個性」を歪められることがなくなり、「社会システムによる、人間の機械的な圧殺」を抑止することができることでしょう。
以上が、私の考えた「神話」です。
でも、私はこの「神話」を誰かに継承してほしいと思っています。
しかしそれは、この「神話」を形式的に繰り返してほしいからではありません。
私はこの「神話」を、その人に生きてほしいのです。
その時その人は、きっと「私の神話」を受け継ぐからこそ、「私とは全く違うこと」をし始めるでしょう。
「私の言葉」を真の意味で受け継ぐからこそ、その人は自然と「自分の言葉」で語るようになっていくはずです。
そして、それこそが、最も大事なことです。
私と同じ人間になろうとして、自分を鋳型にはめれば、その人の「個性」は歪められます。
大事なことは「何者かになること」ではなく、「自分自身であること」です。
今回の「神話」の意味が理解できる人は、きっと、このことの「意味」と「重さ」も理解できるはずです。
私が安心して死んでいくためには、誰かが私の「神話」を受け継いでくれる必要があります。
そして、私はきっといつか、その日が来ると信じています。

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