私はよく「『こうでないといけない』という想念がない状態が『自由』である」と書いています。
ひょっとすると、それを読んだ人の中には、
「『こうでないといけない』という想念を持ってはいけないんだ」と思う人もいるかもしれません。
ですが、実はこれが「罠」なのです。
確かに「自由」というのは、「『こうでないといけない』という想念を抱えていない状態」なのですが、それはあくまで結果論であって、意図的に作るものではなかったりします。
そもそも、「『こうでないといけない』という想念を決して持ってはならない」という想念自体が、自分を縛る束縛です。
これは言ってみれば、「『こだわっちゃダメだ』という方針にこだわり過ぎている状態」でもあります。
でも、別に「こだわること」そのものを自分に禁じる必要はありません。
むしろ、それはそれで自分を縛ることにつながります。
たとえば、私は本を書いていると、時々、表現にこだわることがあります。
「ここのフレーズはやっぱりこれじゃないといけない」とか、「ここのレイアウトはどうしてもこうしたい」とかいった形で、「こうでないといけない」という想いを抱えることがあるのです。
でも、そういう時に、もしも「いやいや、こんな風にこだわることは『自由』に反するから、握りしめちゃダメだ」と思い始めたらどうなるでしょう?
私は、自分の意に反して「妥協」しなければならなくなります。
しかし、そうなると私の中には
「『こだわってはならない』という自分の主義にこだわり過ぎて、自分を曲げた」という変な状況が生じることになります。
そうして私は心の底では納得がいっていないのに、しぶしぶ「妥協」して作品を世に出すことになってしまいます。
きっと私は「これで良かったのかな?」と迷いを抱えるでしょうし、または、「あんなことしたくなかったのに…」と思って不満を感じるかもしれません。
これは、「『自由』にこだわり過ぎて、かえって『不自由』になっている状態」です。
なので、私は「自分の想い」をなるべく正確に伝えるために、「こだわる時」にはとことんこだわります。
「ここのフレーズはこうじゃないといけない」と思った時は、そこを決して動かさないようにして、まわりの表現や話の流れのほうを変えます。
そして、「ここのレイアウトは絶対にこうしたい」と思ったら、たとえそのページのレイアウトを変更することで、本全体のレイアウトを調整し直さなくてはならなくなったとしても断行します。
なぜなら、私の中には「そうするだけの必然性」があるからです。
そして、こういった「内的な必然性」を現に感じているのに、「頭」で「いやいや、なにも握りしめちゃいけない」と思うのは、むしろ「余計な執着」です。
それは「『何も握りしめてはいけない』という考えを握りしめること」であり、かえって自分を束縛することなのです。
ここには二つの層があります。
「第一の層」には、「どうしてもこうしたい」という欲求と、「そうするだけの必然性」があります。
しかし、それに対して「そんな風に執着してはならない」と思い始めると、これが「第二の層」となって覆いかぶさってきます。
どっちのほうが自分にとって「根源的」かと言えば、もちろん、「第一の層」のほうです。
そして、もしもこの「第一の層」を、「こだわってはいけない」という想いから「第二の層」で覆ってしまうと、当人は徐々に「第一の層」にアクセスすることができなくなっていきます。
つまり、「自分の根源的な動機」が自覚できなくなっていくのです。
そして、それが世の中の多くの人の現状でもあります。
実際、非常にたくさんの人たちが「自分にとって最も根源的な動機」を自覚できず、その上を覆っている「表層的な想念」によって操作されながら生きているのです。
たとえば、「愛されたい」という「根源的な欲求」を抱えている人がいたとしても、その人は往々にしてこの「根源的な欲求」に様々なものを覆いかぶせていきます。
たとえば、「愛されるためにはいい子でないといけない」とか、「愛されるためには美しくないといけない」とかいった形で、「こうでないといけない」という想念が積み重なっていくのです。
すると、その人は徐々に「いい子でいること」や「美しい容貌を保つこと」それ自体に執着し始めます。
たとえば、「学校でいい成績を取ること」にこだわっては、自分に鞭打って勉強するようになったり、「常にキレイであろう」と意識しては、過度な食事制限をしたり、整形手術を繰り返したりするわけです。
でも、当人はこの時、「自分の根源的な欲求」に気づいていません。
本当は、「ただ愛されたかっただけ」なのに、いつの間にか手段と目的がすり替わってしまい、「いい子であること」や「美しくあること」そのものが自己目的化してしまうのです。
もともと、「いい子を目指すこと」や「美しさを目指すこと」は「愛」を得るための手段でした。
でも、それらの手段にこだわるうちに、徐々に「本当の目的(愛の獲得)」が自覚できなくなって、手段そのものが目的になってしまうわけです。
それゆえ、当人は徐々に強迫的になっていきます。
たとえば、「学校の成績が落ちたらおしまいだ」とか、
「この美貌を失ったら自分は無価値になる」とかいった風に考え始めるわけです。
しかし、当人は、なぜ自分がこんなにも「成績が落ちること」や「美貌を失うこと」を恐れているのかがわかりません。
当人は、「何故かはわからないけれど、これだけは失いたくない!」と考えており、その人はこういった想念を強く握りしめることによって、「不自由」になってしまうのです。
私が言う「自由」というのは、こういった「強迫観念」が全部落ちた状態のことです。
つまり、当人の「表層」を覆っている「二次的・三次的な動機」を取り払って、「最も根源的な動機」に従って生きることこそが「自由」なのです。
「いい子であること」に執着していた人は、もしも成績が落ちてしまった場合、深く絶望するかもしれません。
きっと「自分はもうおしまいだ」と考えることでしょう。
人によっては、そこから「巻き返そう」と思って必死に勉強することもあるかもしれません。
ですが、そうやって無理をして頑張ることで、当人のエネルギーは徐々に涸れていってしまいます。
しまいには、いくら勉強しようと思っても身体が動かなくなるでしょう。
なぜなら、その人にとっての「本当の動機」は「勉強すること」ではないからです。
そもそも、当人にとっては、勉強そのものがしたいわけではないので、「心」と「身体」は「勉強をするためのエネルギー」を出し渋ります。
それにもかかわらず、「頭」は「勉強しないと終わりだ!」と一人で叫んで大騒ぎしています。
そうして、「頭」は「心」と「身体」に鞭打って無理やり勉強させようとするのですが、そんなことを続けていれば、いつかは「心」と「身体」がついていけなくなって、当人は「バーンアウト」してしまうことになります。
でも、それもまた当人にとっては「必要なプロセス」です。
その人は、燃え尽きて療養していると、最初のうち「罪悪感」と「無力感」で苦しむことになるはずです。
「こうやって休んでいる間も、ライバルたちは勉強している…」と思って苦しくなったり、
「勉強をしなくなった自分には価値なんてない…」と思ったりするかもしれません。
でも、もしも「もうどうでもいいや」と諦めて、ゆっくりくつろぐようになると、不思議なことが起こり始めます。
それは、段々と「心」と「身体」にエネルギーが戻って来ることです。
当人は何もかも放り出してぐっすり眠ることによって、自分を満たし始めます。
やがては「勉強しなくていい気楽さ」を味わい出すかもしれません。
そうして、徐々に当人は「勉強すること」にこだわらなくなり、そのうち自然と、「心からやってみたいと思えること」を見つけ出し、それに自発的に取り組むようになるでしょう。
これは、「表層」を覆っていた「こうでないといけない」という想念が取り除かれたことによって、自然と起こる変化です。
この時、当人の深層にある「第一次的な欲求」は、「もう勉強なんかしたくない!」ということです。
この「深層にある欲求」と「表層」にある「勉強しないと自分は終わりだ!(だから勉強しよう)」という「偽物の欲求」が対立していたからこそ、「内戦」が勃発してエネルギーが涸れてしまったわけです。
しかし、もしも「表層」に居座っていた「偽物」が消えると、奥から「本物」が出てきます。
そして、「本物」のほうは「当人の生命力の根源」と直接つながっているので、そっちに定まってさえいれば、「元気」になって当たり前なのです。
その時、当人は「もともと欲しかったもの」を手にします。
それこそが「愛」です。
もともと当人は「愛」が欲しかったからこそ、勉強し始めたのでした。
でも、求めれば求めるほどそれは遠ざかり、いくら勉強しても「まだ足りない」と感じるようになっていってしまったのです。
しかし、もしも自分に勉強を無理強いしなくなると、当人は「自分で自分を満たす」ということをし始めます。
「もう勉強なんてしたくない!」と感じている自分のことを受け入れて、自分を縛ることなく、解放してあげるようになるのです。
当人は、寝たくなったら寝るでしょうし、漫画を読みたくなったら、好きな漫画を読んでゲラゲラ笑うかもしれません。
そして、そんな風に「本当にしたいこと」を自分にさせてあげることによって、その人は自分自身の手で、自分に「愛」を与えているのです。
「バーンアウト」した後、そこから「健全な仕方」で回復した人というのは、例外なくこういった「自己愛」が機能しているものです。
これらの人々は、一度エネルギーが回復して立ち直ると、たとえ「頭」が「こうしろ」と言ってきても、「心」で「無理だ」「嫌だ」と感じたら、「心」のほうを優先するようになります。
なぜなら、「頭が言うこと」より「心が感じていること」のほうが「深層」にあり、「根源的な動機」に近いということを、彼らは本能的に理解しているからです。
そうやって、人は自分の内側深くに根を張ることで、「バーンアウト」を起こさなくなります。
それは、「自分にとって根源的な欲求」に従って生きることであり、「豊かなエネルギーの源泉」とつながって生きることでもあるのです。
私が何を言いたいかというと、
「こうでないといけない」という想念と、「どうしてもこうしたい」という欲求は別だということです。
そもそも、「こうしてはいけない」というのはあくまで「義務」です。
でも、「どうしてもこうしたい」というのは、「義務」ではなくて「内発的な欲求」なのです。
こういったことの見分けがつくようになると、「自由であること」はさらに容易になっていきます。
もしも「義務感」を感知した場合、それは何らかの束縛が存在することを意味しています。
でも、「欲求」は「義務」になることがありません。
むしろ、「本当の欲求」を何かしらの理由から捻じ曲げられた時、当人は「義務感」を感じて苦しむのです。
このため、「本当に自由な人」というのは、「一個の野生動物」のようになっていきます。
彼/彼女は自分の「心」と「身体」が抱く「根源的な欲求」に従って生きており、「頭」はあくまで「社会生活上必要な最低限の調整役」に過ぎなくなります。
当人は、「こうしたい」と感じることがあると、「世間の常識」や「周りの空気」を無視して、躊躇なく断行します。
なぜなら、そういったものを考慮し過ぎて「自分」が抑え込まれることを、当人は「束縛」だと感じるからです。
このため、「自分で自分を束縛しない」ということも、なかなか難しいものです。
というのも、たとえ主観的には「したいこと」をしているつもりでも、それは「第一次的な欲求」ではなく、その上に覆いかぶさった「二次的・三次的な偽物」に過ぎないことがあるからです。
そして、こういった「偽物」に従うことで、その人の心身は束縛されることになります。
つまり、「偽物」に従ってしまうことで、「こうでないといけない」という「義務感」が生まれ、それらの奥に隠された「どうしてもこうしたい」という「内発的な欲求」が見えなくなってしまうのです。
こういった事態を避けるためには、「自分が本当に欲しいものは何だろう?」と、時間を取ってじっくり自問してみることが大事です。
あなたが欲しいのは本当に「人々からの称賛」なのでしょうか?
誰もがあなたを崇めれば、それであなたは本当に満足できるのでしょうか?
あなたはその問いに「イエス」と答えるかもしれません。
でも、あなたを本当に満たすのは「他人からの称賛」などではなくて、あなたが自分に与える「愛」なのです。
もしもあなたが自分に「ありのままであること」を許すなら、あなたはもはや「外側の承認」を求めなくなるでしょう。
ただ、あなた自身が、自分に許せばいいだけです。
「そのまま」でいい、と。

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