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「理論的な理想」を自分に強いないこと|「理論」より「感情」を優先する意味について

またまた読者の方とやり取りしていて気づいたことがあるので、ブログで共有したいと思います。

私は先日、「見返りを求めず与えられるように、まず自分を満たしましょう」という趣旨の記事を書きました。

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見返りを求めずに与えるために|もしも「幸福」が溢れたら、「贈与」は自然と起こり始める

自分自身が満たされていないと、他人に何かを与える時、どうしても見返りを求めてしまいます。

だからこそ、「まず自分自身を満たし、そこから溢れた分だけを相手に与えましょう」と私は書いたわけです。

しかし、そうは言っても、「全く何の見返りも求めない」ということは容易ではありません。

実際、私だって、もしもこのブログに何年経ってもほとんど読者が訪れなかったら、へこむと思います。

幸い、今は読者がいくらか訪れるようになっていて、数人の方とはメールでやり取りをしていて、彼らから色々と学ぶことができています。

そういう意味で、私はたくさんの「お返し」を現にもらえているわけです。

でも、世の中には本当に何も返してもらえない人もいるでしょうし、時には、心を込めて贈ったのに、相手から邪険にされることもあるでしょう。

そういう時に、「いや、見返りを求める気持ちがあってはならない!無私であれ!」と自分に強いるのは、むしろ束縛につながると私は思います。

私は前回の記事で、あくまでも「理論的な話」をしました。

そういう意味で、「自分を満たして余った分だけ与えましょう」というのは、「理論的な理想」ではありますが、そうもいかないのが人生というものです。

時には、どうしても見返りを求めてしまったり、心を込めて届けた贈り物を無碍にされて傷ついてしまったりすることもあるはずです。

そういう時は、「理論」より「感情」を優先してください。

そもそも「見返りを求めない」という状態は、本来「目指すもの」ではなく、「結果として自然と起こるもの」です。

なので、「見返りを求めない」というのは、直接目指すものではなく、「自分を満たす」ということを実践しているうちに、少しずつ「副産物」として可能になっていくことなわけです。

それゆえ、「自分を満たす」ということを日々続けている人は、ある時に不意に気づきます。

「そう言えば最近見返りを求めなくなったな」と。

そんなぐらいの力加減で良いのです。

私は「どんな時も見返りを求めるべきではない」と言ったわけではなく、あくまで「もし自分を満たすことを優先するなら、見返りを求めることは自然と減っていくだろう」と言ったに過ぎないのですから。


そんなわけで、別に「見返りを求める気持ち」が常にゼロでなければならないわけではありませんし、傷つく時には人間というのは傷つきます。

そういう時に「理論的な理想」を自分に強制して、「感情」を抑圧することは、「自分を満たす」ということに反してしまいます。

優先するべきは、「見返りを求めないこと」ではなくて、「自分を満たしてあげること」です。

あくまで、「自分を満たしてあげること」がメインで、「見返りを求めなくなること」は、そのメインの実践が進むことで副次的に自然発生する「オマケ」なのです。

ここで「オマケ」に気を取られて、「見返りを求める自分は間違っているのだ!」なんて言って自分で自分を断罪し始めたら、それこそ「自分を満たすこと」に反します。

こういった場合、もしも「見返りを求めて苦しんでいる自分」に気づいたら、まずはそんな自分を許してあげてください。

「見返りを求めている」ということは、それだけあなたは頑張ったのです。

あなたはそこに自分を注ぎ、相手に何かを贈りました。

でも、相手からは何も返ってきませんでした。

時には、相手から拒絶されたり非難されたりしたかもしれません。

その時、きっとあなたは傷ついたはずです。

そうであるなら、まずはその自分の傷に「居場所」を与えてあげてください。

「見返りを求める自分はきっと間違っているんだ…」と考えて自分を責めず、「自分は確かに傷ついたのだ!」と主張する自由を、自分に認めてあげてください。

ただ、だからといってこれは、「相手に報復しろ」という話ではありません。

「相手がお返しをしなかった(あるいは拒絶や非難をしてきた)」というのは、あくまで「相手の問題」であって、あなたにはそもそも関係がありません。

あなたにとっての「向き合うべき問題」は、「そういった相手のリアクションによって現に自分が苦しんでいる」という事実のほうです。

それは「相手の中で起こっている反応」ではなく、あくまでも「自分自身の中で起こっている反応」です。

そして、だからこそ、この「反応」は、相手を関わらせずに、自分自身の中だけで完結させることができるのです。

あなたの贈り物についてどういう対応をするかは、相手が決めることとであり、最終的には「相手の問題」です。

そして、「そういった相手のリアクションに対して心がどういう反応をするか」は、相手とは関係ない「あなた自身が解決するべき問題」なのです。


これは、今風に言えば、「課題の分離」という話ですね。

つまり、「相手の課題」と「自分の課題」を分けて考えるわけです。

実際、「自分の中」に見返りを求める気持ちがなければ、そもそも傷つかなかったかもしれませんし、たとえ相手が大喜びして絶賛してくれたとしても、不満を感じる人はいるものです。

なので、「自分の心の反応」というのは、あくまで相手とは関係ない「自分の課題」なのです。

ここにおいて、他人というのは心の反応を発生させる「きっかけ」に過ぎません。

そして、心の反応の原因というのは、「外側」ではなく、常に「内側」にあります。

なので、「外側の他人」のことは忘れて、「内側の心」を見つめてください。

そこには、ひょっとすると「怒り」や「悲しみ」があるかもしれません。

また、そこには、「どうして受け入れてくれなかったんだ!」という悲嘆があるかもしれませんし、「あんなに頑張ったのに無駄になってしまった…」という喪失感があるかもしれません。

そうであれば、そういった感情が自分にあることを認めて、心がこれを表現するのを許してあげてください。

具体的には、もし「怒り」が湧くなら、誰にも見せないノートにそれを書きなぐります。

罵詈雑言ばりぞうごんが溢れてくるなら、それを抑え込まずにそのまま書きます。

なぜなら、あなたがどう思っているのであれ、現に言葉が出てくるのなら、それは「心の声」だからです。

そして、もしも「悲しみ」を感じるのなら、泣くことを自分に許しましょう。

人によっては「自分には泣く権利なんてない」と思って、無意識にブレーキをかけているかもしれませんが、もし「悲しみ」を感じているなら、あなたは「喪失感」も感じているはずです。

そもそも、「自分にとって大事な何か」が台無しになったと感じているからこそ、「悲しみ」というのは湧いてくるのです。

であれば、「腹の底から泣く」という「喪の儀礼」がどうしても必要になってきます。

なぜなら、人は腹の底から泣くことができないと、「深い喪失感」を乗り越えることができないからです。

心が泣きたがっているなら、それを許してあげてください。

泣くことは「負けること」ではありません。

というよりも、「負けた」って別にいいではないですか。

そもそもどこに「勝者」がいるのでしょう?

私たちはみんな「ちっぽけな人間」なんです。

だから、「大事なもの」を失ったのなら、心のままに泣けばいいのです。

そうして、「怒り」や「悲しみ」を叫ぶことで、心は納得することができます。

「あれはもう終わったことなのだ」と。

見返りをどうしても求めてしまうなら、そのことで自分を責めなくて構いません。

かといって、「お返しをくれなかった相手」に報復してしまうと、問題は余計に複雑になります(まぁ、このブログの読者にそういう発想をする人は少ないと思いますが)。

いずれにせよ、「他人を巻き込まない形」で、「自分の心」を表現してください。

お勧めは、誰にも見せないノートに感じたままの言葉を書きなぐることです。

人気のない場所に行って、空に向かって大声で叫ぶのでもいいです。

とにかく、他人を関わらせず、自分だけで感情を表現し切ってみてください。

その時、きっと後には「清々しい感覚」が残るはずです。

心の中で淀んでいたものが出ていって、そこには新鮮な空気が入ってきます。

「あぁ、スッキリした!」

そんな風に思って、あなたはもう過去を振り返らず、前だけ向いて歩いていけることでしょう。

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