当ブログの文章と筆者の著作物は全て著作権フリーですので、どうぞご自由にお使いください。

「理想」を手放す際のジレンマ|「苦しみ」が「敵」ではなく、「客人」になる日まで

私はよく、「苦しみをひたすら見つめ続けると、それはやがて溶けて消える」と言いますが、これがなかなか一筋縄では行きません。

おそらく、私の言葉を信じて、実際に「苦しみ」と直面している人もいると思います。

もちろん、私は嘘を言ってはいません。

実際に「苦しみ」を味わい続けるならば、それはいつか溶けて消えます。

ただ、もしも当人の中に「早く消えてくれ!」という想いが残っていると、「苦しみ」というのは消えてくれないのです。

これはどういうことでしょうか?

そもそも、世の中の多くの人は普段、「苦しみ」から必死で目を逸らそうとしています。

ゲームや漫画で気を逸らそうとする人もいれば、仕事に熱中することで「苦しみ」から逃げようとする人もいるでしょう。

でも、そのうちどこかで「逃げ場」がなくなる時が来ます。

なぜなら、どんなゲームや漫画にもいつかは飽きてしまいますし、ずっと働き続けていると心身を壊して仕事ができなくなってしまうからです。

その時、当人は否応なく「苦しみ」と向き合うことになります。

そして、もしもその人が「苦しみと向き合うこと」を途中で投げ出さないならば、「苦しみ」はどこかで溶けて消え、後には「穏やかな解放感」だけが残るのです。

しかし、そもそもどうして「苦しみ」というのは生まれてくるのでしょうか?

「苦しみ」は、「理想」と「現実」の間にギャップがある時に生まれてきます。

つまり、当人の中に「こうでないといけない」とか、「こうなってしまったら自分はおしまいだ」とかいった想念があると、その「望ましくない事態」が目の前に現れてきた時に、その人は深く苦しむようになるのです。

時には、「現実」がまだ実際に動き始めていない時点で、「こんなことになったらどうしよう…」という不安感に囚われて、一人で苦しむ場合もあります。

そこにもやはり「現実はこうならなければいけない」という想いがあり、そのような「理想」を握りしめる時に、その人はそれによって束縛されて苦しむのです。

そして、厄介なことに、これは「苦しみを味わう」という実践をおこなっている最中にも起こります。

つまり、「苦しみが溶けて消えた状態」を「理想」として握りしめ、「早く苦しみを消して『穏やかな解放感』を感じたい」と望むことによって、その人はリアルタイムで「苦しみ」を再生産してしまうのです。

これは、言い換えれば、片方の手で「苦しみ」を消そうとしながら、もう片方の手で「苦しみ」を作り出すようなことを、その人は現にしてしまっているということです。

この状態にハマっている限り、「苦しみ」が消えることはありません。

「苦しみ」が本当に消える時というのは、「苦しみを消したい」という願望そのものが沈黙した時です。

それは、ある時、不意に訪れます。

気が遠くなるくらいずっと「苦しみ」を見つめ続けた果てに、当人は疲れ切ってうんざりしてしまいます。

そうして、「もうどうとでもなれ」と思って、全てを放り投げてしまうのです。

すると、気がついてみたら「苦しみ」が消えています。

そして、なぜか胸には「穏やかな解放感」が宿っているのです。

ここには逆説があります。

私たちには「幸福を目指す」ということができません。

なぜなら、その「目指す」という運動性自体が、「ここではないどこか」に「ゴール」を作り出してしまい、それによって当人は、いつまでも「ゴールを目指している状態」に釘づけにされてしまうからです。

「幸福」は、全ての「理想」が落ちた時、内側で自然と花開き始めます。

「あれをしなければならない」
「こうなってはならない」

そういった想念が発生しなくなった時、当人はその「手ぶらな状態」の中で、嬉しさのあまり踊り出します。

もうどこに行く必要はなく、何者かになる必要もありません。

当人は、ただ「ありのままの自分自身」に深くリラックスするだけです。

しかし、現に「苦しみ」によって悩んでいる時は、そんな風にリラックスすることができません。

なぜなら、そこにおいては誰もが「苦しみ」を消そうとするからです。

そして、この「消したい!」という願望が「力み」となり、当人の心身を束縛することになります。

「じゃあ、どうしたらいいんだ?」という話になるのですが、結局のところ、疲れ切ってうんざりするまで「苦しみ」と向き合うしかありません。

もしも継続して「苦しみ」と向き合い続けるならば、どこかであなたはうんざりします。

きっとその頃には、「自分のやっていることのバカバカしさ」も自覚できるようになっているはずです。

つまり、「自分は『苦しみ』を消そうとすることによって、自分の手で『苦しみ』を作っている」と、あなたは気づくようになるのです。

そして、この気づきこそが「最後の理解」です。

このことを腹の底まで納得した時、あなたはもう「苦しみ」を消そうとすることを諦めます。

その時、あなたはもういかなる「取引」もしようとしません。

あなたが諦めるのは、「そうしたら苦しみが消える」と知っているからではありません。

つまりあなたはその時、「欲求の放棄」をおこなうことで、代わりに「幸福」を買おうとしているわけではないのです。

あなたは、全てをただ放り出します。

なぜなら、その時のあなたには、自分の手の中にあるものが「単なる石ころ」だと、既にわかっているからです。

多くの人が「捨てること」ができないのは、彼らが、自分の手の中にあるものを「石ころ」ではなく「黄金」だと勘違いしているからです。

彼らは、どうしても自分の内側にある「理想」を捨てることができません。

なぜなら、その「理想」こそが自分を「幸福」に連れて行ってくれるはずだと、その人は信じているからです。

しかし、もしも自分の人生を丁寧に観察し続けるならば、「理想」こそが「苦しみの母」であることを、人はいつか理解するようになります。

つまり、「理想」というのは「黄金」ではなく「石ころ」なのです。

ですが、このことがまだ十分に理解できていない間は、当人の目には「理想」は「黄金」のように映ります。

それゆえ、それを捨てる時には必ず対価を要求します。

それは「現世での成功」かもしれませんし、「あの世での幸せ」かもしれません。

あるいは、「苦しみを溶かすことで幸福になること」であるかもしれません。

しかし、そこに「見返り」を求める気持ちがあると、「理想」というのは捨て切ることができません。

当人は「黄金」を捨てた振りだけして、手の中にそのまま残しておこうとします。

あるいは、「一つの黄金」を手離して、代わりに「別な黄金」を握り込み始めます。

ですが、そこに「理想」という「黄金の見た目をした石ころ」は残ったままであり、当人はそれによって束縛され続けます。

なぜなら、その人には「自分の握りしめているものは何の価値もない石ころだ」ということが、まだ十分にわかっていないからです。

全てにうんざりするまで歩き切った時、その人は、自分がずっと手の中に握っていたものが、「黄金」などではなく「ただの石ころ」だったと悟ります。

というか、もうここまで来てしまうと、たとえ「黄金」だろうと知ったことではありません。

当人は全てを放り出します。

そして、満身創痍で横たわったまま、「もうどうにでもなれ」と諦めます。

その時、彼は「全てのゴール」を失います。

当人は完全に「手ぶら」になり、「何もする必要がない」という「まっさらなスペース」に、ただ寝転んでいます。

「幸福」というのは、本当はそのようなものです。

それは何らかの「特別な行為」や、「特定の状況」に紐づけられたものではありません。

「幸福」とは、「手ぶらであることの中で深く呼吸ができる」ということなのです。

その時、当人は内側に「生命力の高まり」を感じます。

そうして、心と身体が軽くなり、「今まではできなかったこと」を易々やすやすとおこなえるようになっていくことでしょう。

しかし、そのような「限界突破」は、クタクタに疲れた後にならないと、決して訪れないのです。


昔、『ダイの大冒険』という漫画の中に、こんなシーンがありました。

主人公のダイは、師の元で剣の修業をしていて、剣で大岩を割るように師から言われます。

それで、彼は必死になって何度も岩に切りつけるのですが、何時まで経ってもヒビ一つ入りません。

しかし、様々な修業を積んでいき、最後の最後で疲労困憊でヘトヘトになった時、師から「今の状態で岩を切ってごらんなさい」と言われます。

「自分には無理だ」とダイは思うのですが、試しに切りつけてみると大岩はまっぷたつになっていたのです。


私たちは、「自分の力」で何とかして問題を解決しようとしますが、実際のところ、そうすることでかえって問題を複雑にしてしまいます。

こうした時、「自分が込めた力」はそのまま自分に返ってきて、「目の前の岩」を切りつければ切りつけるほど、自分自身の手が痛むだけです。

でも、万策尽きてヘトヘトになった時、「奥に元から在った力」は表に出てきます。

その時、きっと当人は笑うでしょう。

少なくとも、私は笑いました。

なぜなら、それまで自分が味わっていた「苦しみ」があまりに小さく見えたからです。

「自分自身の苦しみ」が「巨大な大岩」に見えていると、私たちは目一杯に力を込めてそれと闘います。

でも、後になって振り返ってみると、それは「大岩」などではなく、いつでも投げ捨てられるような「小石」にしか見えないものなのです。

ただ、そんな風に、うんざりしてヘトヘトになるまでには、いくらか時間がかかります。

どれくらい時間がかかるかは、その人がどれだけ強く「理想」を握りしめているかによります。

場合によっては、全ての「苦しみ」が溶けて消えるまで、年単位で時間がかかるかもしれません。

なので、「今日一日で全ての苦しみを根絶する」とは考えず、「小分け」にして向き合うことも有効です。

たとえば、「今日は15分だけ苦しみと向き合う」と決めて、その15分間だけ、徹底的に「苦しみ」を味わい尽くすのです。

そして、決めていた15分が過ぎたなら、その日はもう「苦しみ」のことは忘れます。

そうした実践を繰り返すことによって、「苦しみ」は徐々に溶けていくと同時に、「なにがなんでも苦しみをすぐに失くそう!」という「意志の力み」も解けていきます。

いずれにせよ、「最後の執着」は「苦しみを失くしたい」という切実な想いです。

それさえもが当人の中で溶けて消えた時、「苦しみ」はようやく消えていきます。

その時、その人はもう「苦しみ」を消そうとは思わなくなるでしょう。

それ以降、「苦しみ」は海に生じる波や、山に吹く風のように自然なものとなり、たとえ再び「苦しみ」が訪れても、当人はもうそれに対して「消えろ!」とは言わなくなっていきます。

「やあ、また来たんだ。久しぶり」

そんな風に挨拶して、その人は「苦しみ」という客人を迎え入れるようになるのです。

コメント