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「深刻さ」を捨てて、「真剣」になって遊ぶことの意味

私は現在、毎日3つとか4つの記事を投稿し続ける生活を送っています。

でも、別に「毎日記事を書かないといけない」と思ってはいません。

ただ、なぜかたまたま、毎日「書かずにはいられない必然性」を内側に感じるだけなのです。

たとえば、私が部屋でボケーっとして過ごしていると、突然「向こう」から合図が来ます。

頭の中に「書くべき文章のビジョン」が浮び、胸に「何か熱いもの」が込み上げてきます。

だから私は、書かずにいることできなくて書くのです。

それは「義務」ではありません。

誰も私に「書くこと」を命令してはいません。

また、私自身も「書かなければならない」と思っていません。

私は「義務感」からではなく、「責任感」から文章を書きます。

そもそも、「義務感」から行為する時、人は「自分は束縛されている」と感じています。

多くの場合、そこにおいて当人は「しなくてもいいこと」を無理してすることになります。

なぜなら、そうすることによって社会や他人から認めてもらえる目算が立っているからです。

実際、「義務」を我慢して果たすことによって、人は社会から受け入れられます。

でも、その人の心は知っています。

「本当はこんなことはしなくてもいいのだ」と。

逆に、「責任を果たすこと」とは「応答すること」です。

実際、英語で「責任」は「responsibility(応答する能力)」と言います。

それは、私たちがいつも「向こう側」から問われているからです。

私たちの心は絶えず「何か」を感じ取っています。

「本当にするべきことが何か」を、心は感じ取っているのです。

「社会」に応えようとする時、人は「義務」によって束縛されることになります。

それに対して、心を通して「向こう側」に応えようとする時、人は「責任」を自覚します。

そして、「自由」と「責任」はセットです。

「責任」を背負う人にだけしか、「自由」というのは与えられません。

それこそが、「自由」と「自分勝手」の違いです。

「自分勝手な人」というのは、「『義務』からは逃げたいけれど、『責任』を背負うのは嫌だ」と言います。

しかし、それは無理というものです。

「義務」を手放して「自由」を求めるならば、そこには必ず「責任」が発生することになります。

そしてその時、人は「社会」のほうを見ることが減っていき、自分の内側に潜ることで「向こう側」を見るようになっていくのです。

「合図」はいつも心にやってきます。

だから、当人は「自分にはこうとしか在れない」と感じています。

「どうしてもこっちに進みたくなってしまう」
「なぜかいつもこう言いたくなってしまう」

それは、その人自身の「応答(response)」の仕方であり、「責任(responsibility)」の背負い方です。

そこには、その人の中の「本来の自分」が活き活きと表現されることになります。

それゆえ、私たち大人の表現を真に「瑞々みずみずしいもの」にするのは、「責任」です。

まだ幼い子どもたちは、「責任」を背負うことなく「自由」を表現することができますが、それは彼らがまだ「保護されている存在」だからです。

しかし、大人はもう「保護」されてはいません。

そのため、大人が「責任」を負うことなく「自由」を表現しようとすると、どうしてもそれは「不当な保護」を要求する「独りよがりで自分勝手なもの」になってしまうのです。

でも、私は「深刻」になるべきだとは思いません。

宗教画の中で描かれるナザレのイエスは、いつも「深刻そうな顔」をして「十字架」を担いでいますけれど、本当は「自分の十字架」を背負う際には、「真剣」になる必要があるだけで、「深刻さ」はまるで必要ありません。

本当は、ただ「真剣」になって子どものように遊べばいいのです。

それが、大人だけに許された「極上の遊び」です。

なぜなら、子どもたちはただ「純粋」であるだけで、「真剣」になることができないからです。

「責任」を自覚している大人だけが、「純粋」になった上で、「真剣」に遊ぶことができます。

そうして、彼は「責任」という名の「重力」を利用して、これとたわむれ始めるでしょう。

そこには「真剣に表現された自由」があります。

そしてそれは、「幼い子どもの自由」のような「ほほえましいもの」に留まらず、時に、見る人の心を根底から揺さぶるような「力」を持つことがあるのです。

「真の芸術家」が偉大なのは、彼らが「自分の存在」を賭けて表現するからです。

ただ単に「テクニックのカタログ」を見せているだけの人は、「本物の芸術家」ではありません。

本当に心から表現をする時には、人は「テクニック」に寄りかかることなく、「自分自身」だけを根拠にするものです。

そうして人は、そんな風に表現する時にはいつも、「応答する者」として呼ばれます。

彼は何をするのも完全に「自由」です。

しかし、それにもかかわらず、彼は「こうとしか在れない」という「一つの軌跡」を描き出します。

「他にもあり得た全ての軌跡」を捨て去って、彼は「一筋の道」を歩むのです。

人生を「深刻」に考えないこと。

それが大事なことです。

もしも「深刻」に考え始めると、人は「重力」に負けて倒れるでしょう。

逆に、「真剣」になって遊び始めるなら、その人は「重力」を遊ぶために使い始めます。

「一つ、やってやろうじゃないか」

自分にかかる「重力」を感じながら、当人はそんな風に思います。

彼は妥協することをやめ、そこに「自分自身の存在」を賭けます。

彼は「自分自身の重さ」を味わい、それが「自分の脚力」を強くしてくれることに、むしろ感謝を覚えるのです。

そして、もしも本当に「真剣」になるならば、肩の力は自然と抜けるものです。

逆に、「深刻さ」は眉間にしわを刻み、肩を吊り上げる呪縛です。

「義務」に縛られる人は、「深刻な顔」をして生きていき、「責任」を歓迎する人は、「真剣な顔」をして今日も心から遊んでいます。

「感じたままに遊ぶ」ということ。

それは勇気の要ることです。

でも、それは同時に楽しいことです。

実際、自分自身に課された「重さ」に「自分なりの仕方」で応えることで、その人は「生きること」を楽しみ始めます。

「義務」にしがみついている人々は、それを「恐ろしいこと」だと思っていますが、一度受け入れてしまいさえすれば、「恐怖」は溶けて消えていきます。

それゆえ、私にとって「悟り」とは、「自分は生きる」と宣言することです。

「悟り」とは「ゴール」ではありません。

そうではなく、それは、いつまでも終わることのない「スタート」なのです。

「自分は生きる」ということを誓い、「そこから逃げない」という覚悟をすること。

私はそれを、「悟り」と呼びます。

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