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相手を抱きしめる二つの仕方|「自由」を縛れるものは、この世に一つも存在しない

私はいつも、「自由こそが最も価値のあるものだ」と言っています。

だからこそ、私は「読者の自由」も尊重します。

私は、読者がなるべく「こうしなければならない」という束縛を内側に感じなくて済むように、いつも言葉選びに気を使っているのです。

たとえば、「別に無理してこうする必要はありませんよ」とか、「あくまでも自分の心に従ってください」とかいった仕方で、私は読者の中に「思考の逃げ道」を残すようにしているわけです。

しかし、本当に「自由」を尊ぶならば、そんな「先回り」さえも余計なことかもしれません。

そもそも、本当に「自分自身」に定まっている人は、たとえ私が「無理して来る必要はない」と言っても来るでしょう。

当人の中に「必然性」があるのなら、たとえどれほどの「困難」が目の前に立ちはだかっていようと、その人は「世間の常識」や「私の言葉」を意に介さずに、「自分の道」を歩むだけです。

人というのはそういうものですし、そしてだからこそ、その人の選択には価値があるのです。

私が読者を束縛したくないのは、ある種の「親心」からです。

自分自身が過去に多くの束縛を抱えて苦しんだ経験があるので、読者にそういう想いをしてほしくないのです。

でも、「親」がどう想っていようと、「子」がそれをどう感じるかは別問題です。

たとえば、ある「親」が「この子には自由に伸び伸び生きてほしい」と願って、あれこれ小言を言わないようにしていたとしても、「子」の側はそれを「放任されている」と思って寂しく感じるかもしれません。

そして、「何でも自分の好きなようになさい」と告げる「親の言葉」を聞いて、「子」はそこに「余裕ぶった上から目線」を感じて反発するかもしれません。

そこでは、「親」の側の「自由であってほしい」という願いさえもが、「子」にとっては「余計な束縛」になってしまうことがあり得るのです。

結局のところ、私は「読者のことを抱きしめてしまいたくない」という想いによって、間接的に読者のことを抱きしめてしまっているだと思います。

そもそも私たちには、「真っ直ぐそのまま抱きしめる」か、「間接的に抱きしめる」か、そのどちらかしか選ぶことができません。

当人がどんなに「抱きしめてしまいたくない」と想っていても、結局、その想いによって、相手を間接的に束縛してしまうことは避けられないのです。

「真っ直ぐに抱きしめる」なら、抱きしめられた相手はそれによって一時的に身動きが取れなくなるかもしれませんが、「体温」だけは確かに感じられるでしょう。

逆に、「間接的に抱きしめる」なら、抱きしめられた相手は好きに動けるかもしれませんが、自分に遠くから注がれる思いやりを、その人は「余計なおせっかい」と感じるかもしれません。

いずれにせよ、たとえどれほどきつく抱きしめられていても、当人が「もうこれ以上くっつているのは嫌だ!」と思ったら、その人は全力で束縛を解いて「自立」するはずです。

また、たとえ私が老婆心から「無理してこういうことをしなくてもいいんだよ」と言ったとしても、言われた当人が「それでも、自分で試すまでは納得できない」と感じているなら、その人は「やらなくていい」と言われていることをあえて断行するでしょう。

いつだって、一番大事なのは「その人自身の選択」です。

たとえ私が何を言おうと言うまいと、それを意に介さずに「自分自身の責任」のもとに「自分の選択」をする時に、その人は「私の言葉」を超えていくのです。

私はそういう姿を見る度に、深く胸を打たれます。

人間というものの「原動力」の強さと、その「生命力」の瑞々みずみずしいほとばしりとを感じて、私は心を動かされるのです。

人間には、たとえ「するな」と言われても、あえてそれをする「自由」が与えられています。

同時に、「しろ」と言われたことを、あえてしない「自由」も私たちにはあるのです。


私はこれからも、「抱きしめてしまいたくない」という想いによって、読者のことを抱きしめ続けると思います。

なぜなら、私には「抱きしめない」ということができないからです。

でも、いつかそんな私の腕の中から、読者は飛び立っていくのだと思います。

その時その人は、「私の言葉」を超えていき、「自分の世界」を獲得し、それを「自由」に表現するでしょう。

私は、そのような日がやって来るのを、楽しみにして待っています。

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