今回はちょっとした注意喚起と言うか、「私の言うことを信じ込まないように」という話をしたいと思います。
もちろん、「技法のやり方」などについては、なるべく忠実に私が言った通り実践してほしいと思っています。
ですが、それは「道具を取扱説明書の通りに使う」ということと同じで、あくまで「安全上の理由」からです。
「技法」というのは、探求をスムーズに進めるための「道具」であり、そこには「真実」も「非真実」もありません。
【関連記事】
【注意喚起・再び】「技法の森」の中で迷子にならないために|技法はしょせん「道具」と心得る
なので、「これこそが『真実の技法』であり、これを信じて実践するべきなのだ!」というようなことを私は思っておらず、私としては「探求する各自が自分に合った技法をやればいい」と考えています。
実践する技法を探す場合は、実際に少し試してみて「なんかちょっと自分には合わないな」と思ったら、別の技法を試したらいいでしょう。
また、どんなに「自分にジャストフィットする技法」であったとしても、実践が進んで自分の認識が変わることで、「最適解」ではなくなったりします。
そういう時にも、柔軟に技法を乗り換えていくのが良いのではないかと、私は思っています。
そして、そんな風に技法が「探求のための道具」であるからこそ、「説明書」の通りに実践しないと時には危険な場合があります。
自己流に歪めて実践すると、思わぬピット・フォール(落とし穴)にハマることがありますし、心身に悪影響が出る可能性もあります。
なので、「あくまで技法は『道具』だけれど、だからこそ、言われたとおりに実践しましょう」ということが、私のお伝えしたいことです。
たぶん、これについてはほとんどの人が理解できると思います。
しかし、私が語る「思想的な部分」についてはよく注意して聞いてください。
先ほども言いましたが、「技法のマニュアル」については私が提示した通りに受け取ってほしいのですが、「思想的な部分」については鵜呑みにする必要はありません。
むしろ、私の考えをそのまま受け取るのは、よくないかもしれないです。
「思想的な部分」については、誰も私と同じように考える必要はありませんし、むしろ読者一人一人には、自分なりに考えを突き詰めていってほしいとさえ思っています。
「じゃあ、その『思想的な部分』って何?」という話を、今回はしたいと思います。
私の書いた記事をいくつか読んで、「自分もこういう風に考えないといけないんだ!」と思ってしまっている人は、ちょっと立ち止まって今回の記事を読んでみてください。
ひょっとすると、そんなことを考える必要は全然ないかもしれません。
「それなら、いったいどうしたらいいのか?」ということを、これから説明していきますね。
では、行ってみましょう。
◎本当に「真実はいつも一つ」なのか?
私はこれまで毎日のように記事を書いてきたので、ブログ開設から約1ヶ月の現時点で、既に50本以上の記事が公開されています。
しかも、どの記事も5000文字以上の長さがあって、長い記事になると1万文字を超えています。
未公開のストック記事まで合わせると、現状では40万文字以上あると思います。
それにもかかわらず、まだまだ新しい記事が増えていっているので、どこまで行ったら語り終わるのか、私自身にもわかりません。
しかし、だからと言って、私が何かものすごく規模の大きい「思想」を脳内に構築している人間だというわけではありません。
というか、文章を書いていない時、私は基本的に物を考えないです。
なぜなら、私は普段「考える必要のある時」だけ考えて、「考える必要のない時」にはわざわざ考えることをしないからです。
もちろん、生活の中で「記事のアイデア」が湧いてくることはしばしばありますが、それについて具体的なことはその時点では考えず、簡単なメモだけをブログの下書きに残しておくようにしています。
そして、細かい内容については、短く書き残しておいたアイデアのメモを元にして、実際に記事を書きながらリアルタイムで考えているのです。
なので、私の文章を読んで「この人、いつもこんなことを考えて生きているのかぁ」と思ったとしたら、それは「誤解」というものです。
私は基本的に、ブログを書いていない間は物を考えておりません。
そういう意味では、私は「思想家」とは言えないと思います。
また、何が正しくて何が間違っているかも私はよく知りません。
そもそも「何が正しくて何が間違っているか」を決めることに、あんまり興味がないのです。
どこぞの少年探偵は「真実はいつも一つ!」と言いますが、私からすると、「真実は人の数だけある」かのように思えます。
実際、何が正しくて何が間違っているかについては、「見る人の立ち位置」によっていくらでも変わる可能性がありますし、「唯一絶対の真実」というものを人間には確かめることができないのではないでしょうか?
気づいている人がいるかどうかわかりませんが、私は「真理」という言葉はよく使いますが、「真実」という言葉は滅多に使いません。
何故かというと、「真実」は定義があやふやな言葉ですが、「真理」という言葉については、千年以上前から既に定義が確定しているからです。
◎歴史的に定義が決まっている「真理」と、人によって変わる「真実」の姿
私が探求において基盤としていた不二一元論(アドヴァイタ)では、「真理」は三つの側面から説明されます。
それは、「サット(存在)」「チット(意識)」「アーナンダ(至福)」です。
「サット(存在)」というのは「『世界』は実在しない」ということであり、「チット(意識)」というのは「自身の存在の根源は『意識』である」ということです。
そして、「アーナンダ(至福)」というのは、「存在の本質は『穏やかな幸福感』である」という理解に基づいています。
と、いきなり専門用語のオンパレードですが、これは別に今理解しなくても構いません。
というよりも、もしこれを全部きっちり理解してもらおうと思ったら、私はここから10万文字くらい説明をしていかないといけなくなります。
なので、詳しく知りたい方は連載記事のほうを参照してください。
いずれにせよ、「『世界』というものは実在せず、存在するのは『意識』のみであり、それは『幸福感』に溢れている」ということを理解した時に、探求の旅は終わります。
それが「真理を理解した」ということです。
不二一元論では、この「サット」「チット」「アーナンダ」を「真理の三側面」として強調しています。
そして、この「サット」「チット」「アーナンダ」の概念は、紀元前から存在していたヴェーダというインドの聖典群の中で既に登場していたもののようです。
となると、これを「真理の定義」とする伝統は、2000年以上の歴史があることになります。
とにかく、そういった背景もあるため、私は「真理」という言葉の定義については迷うことがありません。
もちろん、宗派や学派によっては、別のものを「真理」と呼ぶこともあると思いますが、私にとっては、2000年以上の伝統を持つ「サット」「チット」「アーナンダ」こそが「真理」です。
そこにブレはありません。
そして、私自身が探求の過程で実際に確かめたのも、主にこの「真理の三側面」についてでした。
それ以外のことは、あくまでも「オマケ」と言うか、「真理」を理解するために私が個人的にした「寄り道」のようなものに過ぎません。
たとえば、「『自我』というのは信用ならないから、よくよく注意しないといけない」とか、「人は何を手にしても満足できず、その欠乏感を埋めるために走り続けるものなのだ」とかいった話は、「真理」ではなくて、あくまで私の「個人的な見解」です。
そして、それが「真実」かどうかということは、たぶん聞く人によって変わるのではないかと思います。
実際、私の言葉を聞き手が人生のどの局面で聞くかによって、その「真実味」は変わって来るのではないでしょうか?
たとえば、まだ若く、社会的な成功を求めてバリバリ働いている人は、「『自我』を信用するのはやめて、欠乏感を埋めるための『終わりのないレース』から降りましょう」と私から言われても、「何を寝言みたいなことを言っているんだ」と思うはずです。
なぜなら、当人にとっては「自我の満足」こそが全てであり、「レース」をどこまでも続けることこそが「生きる意味」でさえあるかもしれないからです。
逆に、そういった「終わりのないレース」に疲れ果ててしまっている人は、私が「そういうことを続ける必要はないですよ」というのを聞くと、「その言葉こそが聞きたかった!」と思うかもしれません。
「こんなことを続けても虚しいだけだ」とうすうす感じていた人は、私の言葉に「真実味」を感じるのではないかと思います。
じゃあ、いったいどっちの考え方が「真実」なのでしょうか?
ある意味においては、どっちも「真実」であり、どっちも「非真実」なのではないかと思います。
実際、「『自我の満足』を求めて走り続けること」と、「欠乏感を埋めるための『終わりのないレース』から降りること」と、どちらかが「真実」でもう一方が「非真実」というわけではないと思います。
単に、当人が求めるものが違うというだけの話です。
ただ、後者の方が人生を俯瞰的に見ており、そういう意味では、「人生において『自我の満足』を追い求めることは虚しいことだ」という認識のほうが、普遍的で深みがあるかもしれません。
しかし、だからといって、それが「唯一絶対の真実」であるとまでは言えないでしょう。
実際、もっと長く生きていく過程で、「やっぱり『自我』も適度に満足させてあげたほうがいいかもな」と、当人の考え方が変わっていく可能性はあるはずです。
むしろ、「『自我の満足』は、もう一切認めない」と頑なになるよりも、そのほうが柔軟性もあるので、「よりバージョンアップした考え方」と言えるのではないかと思います。
いずれにせよ、「真理」については意味を確定できるのですが、「真実」については、その中身を確定させることが非常に難しいのです。
◎私は読者の「思い込み」を破壊して、「自由」へ近づけようとしている
ここまでの話をまとめると、以下のような感じですね。
- 真理
2000年以上前から定義が確定している。
「サット」「チット」「アーナンダ」を理解したら、「真理を悟った」と言っていい。 - 真実
明確な定義や基準がない。
見る人の性格や置かれた状況などによって、何を「真実」とするかがコロコロ変わる。
他の人がどう考えるかはわかりませんが、これが私の中での「真理」と「真実」の定義です。
そして、こういった事情があるため、私は「真理」については「これこそが『真理』だ」と自覚しながら語ることができますが、「真実」については「これこそが『真実』だ」という自覚をもって書くことができません。
そして、連載記事では主に「真理」について扱っており、単発のブログ記事では、あくまで「相対的な真実」について語っている「思想的な部分」が多くなっているところがあります。
なので、私が「真理」ではなく「真実」について何かを語っていたとしても、それはあくまで「私個人の目からのみ『真実らしく』見えている景色」として受け取っておいてほしいと思います。
「誰もが自分と同じように考えなければならない」とは私は全く思っていませんし、逆に、そのように考えてしまうと、読者は「私の思想」によって自分自身を束縛することになってしまいかねません。
じゃあ、なんでわざわざそんな「思想的な話」を私がするかというと、主な目的は読者に「自由」を感じてもらうためです。
私の書く記事をいくつか読んだ経験のある方はわかると思いますが、私はよく記事の冒頭で「世間ではこんな言葉がありますね」とか、「あなたはそれについてこういう考え方をしていませんか?」といった形で、導入部分を書くことが多いです。
そして、それらの言葉や問いなどを、記事を書き進める中でどんどんひっくり返していきます。
「その言葉の本当の意味は、こういうことではないでしょうか?」
「あなたが抱いている問いの裏側には、こんな心理が隠れていないですか?」
そんな風にして、私は「人々が普段何気なく使っている言葉の意味」を再定義し、「特に疑問を持っていなかった読者自身の思考に関する内省」を促そうとしています。
つまり、「世間一般の常識的な考え」や「ありがちな固定観念」などを、ひたすら解体していくことを狙って文章を書いているわけです。
すると、「自分はこのことをよくわかっている」と思っていた人は、「実はよくわかっていなかった」ということに気づくかもしれませんし、「自分にはこのことがよく理解できない」と思っていた人は、「理解の糸口」を見つけられたりすると思います。
つまり、「自分は既に知っている」と思い込んでいた人は、その「思い込み」を手放すことができますし、「自分は知らない」と思って立ち止まっていた人は、「次の一歩」を見出して歩み出すことができるわけです。
どちらにしても、それまでの「不自由な状態」が破壊され、「自由」に向かって当人は進んでいくことができます。
私は狙いはあくまで「これ」です。
私が言っていることにどれだけの「真実」が含まれているかは、別にどうでもよいのです。
とにかく、私の語る言葉に触れたことによって、読んだ当人が一時的に「自分の牢獄」から抜け出せるなら、話す内容は何でもいいわけです。
私の話というのは、そういう意味であくまで「一つの方便」です。
実際、私は別に「真実」を語っているつもりはありません。
「自分の発見した『真実』を流布したい」とは特に思っておらず、私はただ人々をもっと「自由」にしたいだけです。
そして、そうすることで、結果的に人々は「真理」に近づいていくことになります。
「真理に近づく」ということはつまり、「自分自身の束縛が破壊され、徐々に自由になっていく」ということです。
なので、私にとって大事なのは「真理に近づいてもらうこと(=自由になってもらうこと)」であって、「真実を知ってもらうこと」はこれといって特に重視していません。
それに、さっきも書きましたように、そもそも私だって「唯一絶対の真実」なんて知りません。
なぜなら、「真実」は見る人の立ち位置によっていくらでも変わり得るものであり、私には「私の目から見える景色」についてしかわからないからです。
私が知っているのは、あくまで「真理」だけです。
つまり私が知っているのは、「人は自分で自分を束縛するものだ」ということと、「もしもその束縛を破壊すれば、人は自由になることができる」ということだけなのです。
◎「束縛から自由になった感覚」をこそ、ずっと覚えていてほしい
問題は、そうして文章を読むことによって実現する自由には「時間制限」があるということです。
私の書いた記事を読むと、人によっては「そうか!こんな考え方があったんだ!」と目から鱗が落ちることもあるかもしれません。
ですが、それによって当人が「自由」を感じられるのは一瞬だけであり、次の瞬間にはもう「今読んだ内容」によって束縛され始めます。
もしも「これは良いことを知った」という手応えが当人の中にあった場合、その人はなおさらそれに無意識にしがみついてしまうでしょう。
そうして、当人は知らず知らず「私の考え方」に合わせて自分のことを縛るようになっていくはずです。
「この前読んだあの記事にはこう書いてあったから、こういう風にしなければ」という風に、自分の思考や言動をコントロールしようとし始めるわけですね。
もちろん、そうやって試行錯誤することは意味があるでしょうし、そこから新しい発見も生まれると思います。
ですが、その際には、決して「私の言ったこと」を絶対視しないことが重要です。
「書いてあった通りにしなければ」と考え出すと、それは「新たな固定観念」となり、当人を束縛し始めてしまいます。
なので、「私の言葉」はあくまでも考えるための参考程度に留めてもらって、「金科玉条」のように捉えて律儀に守る必要はないです。
まあ、そこまでする人はほとんどいないと思いますが、私のブログの読者の中にはやたら熱心に読んでいる方が既に何人かおられるようなので、そういう人は注意してください。
私が読者に覚えていてほしいのは、「私の言った言葉」ではありません。
そうではなくて、記事を読む中で感じられる可能性のある「重荷が降りた感覚」のほうです。
それは、「自分が無意識に握りしめていたものを手放した感覚」であり、「『手ぶら』になることで生まれた解放感」です。
私としては、読者にそれを感じてほしくて、「真実性」が不確かな「思想的な話」をわざわざ書いているところがあります。
そして、もしも読者が記事を読むことで「解放感」を感じることができたなら、その感覚をこそ、日常の中に広げていってほしいと思っています。
逆に、「私の思想」を日常で活かす必要はありません。
してもいいですけれど、結局、私とあなたは「別の人間」なので、どこかで「齟齬」が生じるでしょう。
それに、そもそも私自身だって、「私の思想」を完璧に守って生きているわけではありません。
そんなことをしていたら、あまりにも窮屈すぎます。
だから、あなたも「私の言ったこと」に縛られる必要はないのです。
ただ、「束縛から自由になった時の解放感」だけは、できれば覚えていてほしいと思っています。
それは決して「私からの借り物」ではなく、あくまでも「あなたの内側で生じたもの」です。
だからこそ、それを一度でも感じ取れれば、自分で「これだ」とわかるはずです。
そうしたら、その「解放感」が日常の中に在るかどうかを点検してください。
あなたは実際のところ、普段の生活の中でどれだけ「自由」を感じられるでしょうか?
仕事に縛られ、家庭に縛られ、自分の内側の固定観念や無意識の強迫観念などによっても、あなたは縛られているはずです。
なぜなら、「これこそが自分にとっての束縛だ」と思えば、人は何でもそれを「自分を縛る縄」に変えてしまうことができるからです。
なので、「そういったものから自分は自由になれているか?」ということを、ぜひ日々の生活の中で点検してみてほしいです。
つまり、「私が語る思想の真偽を点検する」のではなく、「自分の不自由さを点検する」ということをしてほしいわけです。
しかし、私は別に「仕事や家庭を捨てろ」と言っているわけではありません。
そうではなくて、もしもあなたが仕事や家庭を束縛だと感じているとするなら、「自分はいったい何を握りしめている結果として、そのように感じるようになったのだろう?」と自問してみてほしいのです。
仕事や家庭を捨てなくても、束縛を破壊することは可能です。
また逆に、世の中には、仕事も家庭も捨てたのに、あいかわらず束縛されたままの人もいます。
たとえ家族を捨ててヒマラヤの奥地に行ったとしても、別れた家族のことを想い続けて苦しむならば、当人は「自由」になることができません。
つまり、本当に重要なことは、「あなたの心が自由であるか」ということです。
もしも「あなたの心」が束縛されていないなら、あなたが何を手にしていても「自由」ですし、逆に何を失ったとしても、あなたは「自由」だけは失うことがないでしょう。
しかし、そのためにはまず、「無意識に自分が握りしめているもの」を自覚し、これを手放さなければなりません。
それはあなたの「外側」ではなく、あくまで「内側」に存在しています。
たとえ「外側の家族」を捨てたとしても、「内側の観念」によって縛られている限り、あなたは苦しみ続けるはずです。
だからこそ、あなたが「内側に抱えている荷物」を降ろすことを、私としては手伝いたいと思うのです。
◎「レクチャー記事」と「思想的な記事」の具体的な例
とはいえ、この記事の冒頭でも書きましたように、「探求の実践方法に関する記事」については、「真偽の点検」を優先してほしかったりします。
たとえば、技法のやり方のレクチャーをしている記事などですね。
例を挙げると、こんな記事が該当します。
【レクチャー記事】
「自分の恐れ」を恐れない|「確認できること」と「確認できないこと」を区別する瞑想的観察法
いつになったら「悟った」と判断していいのか?探求の過程で陥りがちなピット・フォール五選
「身体的な快楽」に依存しないために|「目」を通じて内側へと潜る「内観法」
【自分の呼吸を感じられない人へ】感覚を深め、感情を解放する二つのステップ
【瞑想の実践における壁】思考や「自我」を切り分ける、「識別(ヴィヴェーカ)」の段階的成長
これらの記事は、「技法の具体的なやり方」や「実践する上で注意すべきポイント」についてまとめたものです。
こういった記事の場合、ひとまず私の言っている通りに実践を進めてもらう必要があります。
その上で、自分にそれぞれの技法が合うか合わないかを判断し、取捨選択をしてほしいです。
これに対し、「思想的な色が濃い記事」は以下のようなものです。
【思想的な記事】
「戒律」を守らないと悟れないのか?「自律」は、「観察」と「理解」に根差している
「倫理的」とはどういうことか?哲学者と探求者それぞれの「倫理」に関する向き合い方
人々が探している「自分」とは何か?「自分探し」と「自己理解」が、真理の探求とすれ違う時
「孤独」は避けるべきものなのか?「孤独」と「孤立」の違いについて
『老子』の「太上」に学ぶ教育論|「親しまれ称賛される教師」が陥るピット・フォール
これらの記事の特徴は、最終的な結論が私の「個人的な見解」である点と、記事の目的が「読者を導くこと」ではなく、「読者の価値観を揺さぶること」にある点です。
技法のレクチャーについても、確かに私個人の経験を元にした意見が入ってはいますが、「結論」よりもむしろ「途中の手順」を読者が正確に理解できるように書いているつもりです。
そして、これが最大の違いですが、「レクチャー記事」は道に迷っている人に「地図」を与えるのが目的なのに対して、「思想的な記事」は当人が無意識にしがみついている「地図」をあえて手放させることを目指して書かれています。
つまり、「地図」を与えるのと「地図」を放棄させるのとで、両者の目的は全く逆になっているわけです。
◎「相対的な真実」に囚われることなく、「解放感」を大事にする
ただ、このあたりの切り分けは、人によってはけっこう難しいかもしれません。
なので、「あえて説明すると混乱させてしまうかもしれない」と思い、今までは黙っていました。
ただ、記事の数も増えてきているので、人によっては「あっちの記事で言っていることと、こっちの記事で書いてることが矛盾してる!どっちを信じたらいいんだー!」という風に思っている可能性もあります。
実際、私の言っていることにはたぶん「矛盾」がいっぱいあると思います。
それは、私の目的が「首尾一貫した思想体系を構築すること」にはなくて、あくまで「読んだ人に『自由』を感じ取ってもらうこと」にあるからです。
そもそも、私はいつも記事によって読者として想定している対象を変えています。
なので、「こういうことで困っている人には、この方向性で行こう」とか、「こんなケースでつまづいている人には、こっちのアプローチを取ろう」とかいった具合に、ロジックも使い分けているのです。
なので、私の言っていることは、全体としてあまり「一貫性」がないと思います。
ですが、もしも読んだ人が「自由」を感じられるのであれば、「首尾一貫性」は別になくてもいいと私は思っています。
読んだ人も、私の言っていることの「首尾一貫性」にこだわって束縛されるくらいなら、私の言ったことは全部忘れてもらって、読む中で感じた「解放感」をこそ、日常の中で育てていってもらいたいです。
その代わり、「レクチャー記事」については、なるべく「私が言っている通り」に実践してみてください。
その上で「どうもこれは違うな」と感じたら、それは捨てて別な技法に移って行ったらよいでしょう。
技法の実践については、「決められた手順」を守らないと安全上のリスクがあるので、なるべく自己流でアレンジはしないほうがいいです。
逆に、「私はこういう風に思っています」という「思想的な記事」については、「私が言ったこと」をいちいち憶えている必要はありません。
むしろ、私の「個人的な見解」を憶えていることによって「束縛感」を感じるようであれば、それはさっさと忘れてください。
繰り返しますが、私は「真理」ならわかりますが、「唯一絶対の真実」については何も知りません。
なぜなら、私が語っているのはあくまでも「相対的な真実」であり、それは誰にでも当てはまるものではないからです。
◎終わりに
こういった事情があるため、あなたも私の「思想的な記事」を読む時は、決してそれを鵜呑みにはしないでください。
全部そのまま受け取る必要はありません。
「そういう考え方もあるんだな」というくらいに受け止めて、あくまでも「記事を読むことで自分の中の固定観念が破壊された時の解放感」のほうを大事にしてください。
その「解放感」こそが、あなたにとっての「羅針盤」になります。
それは私に依存するものではなく、あなたの中に元からずっと在ったものです。
だからこそ、もしもあなたが握りしめている拳を開いたならば、「解放感」はいつでも訪れることでしょう。
大事なことは、「私の思想」を大事に握りしめておくことではなく、「自分が無意識にしがみついているもの」が何であるかを、知ることです。
そして、私はただ、あなたがそれを理解するための手助けがしたいだけなのです。

コメント