【最終回】「世界の実在性」が崩壊する時|「世界」という最後の束縛からの自由について

前回の記事では、「チット(意識)」と「アーナンダ(純粋な喜び)」の関連性について書きました。

【第13回】どちらか一つの理解では足りない|「意識」と「純粋な喜び」の関連性について

「真理」を探求していくと、人は「チット」か「アーナンダ」のどちらかについて先に理解します。

両方を同時に悟ることは非常に難しいため、どうしても片方ずつ理解していくことになるのです。

しかし、一方だけの理解では、当人はバランスを取ることができません。

たとえば、「チット(意識)」だけを先に悟ると、当人は人生全体が虚しく感じられてしまう可能性があります。

「チット」を悟る過程で、「『自我』は結局のところ『虚構』に過ぎない」とだけ理解しても、「それがわかったところで、いったい何になるんだ?」という疑問に取り憑かれてしまうからです。

【第12回】「瞑想」の第四段階《理論と実践》|「自我」は「虚構」に過ぎないと理解する

逆に、「アーナンダ(至福)」についてだけ先に悟ると、「自我」が暴走してしまう可能性があります。

当人の中で「『自我』は『虚構』に過ぎない」という理解がまだ起こっていないため、自分の心や「自我」に振り回されてしまい、「アーナンダ」に留まることが難しい場合が多いでしょう。

時には、「アーナンダ」がもたらす至福感を利用して、社会的な成功や他者からの称賛を求めるようになっていくかもしれません。

このように、「チット(意識)」と「アーナンダ(至福)」の片方だけだと、当人はまだアンバランスです。

「チット」だけの理解からもたらされる「生の無意味感」は、「アーナンダ」の至福感によって満たされる必要があり、また一方で、「アーナンダ」のみの理解による起こる「自我」の暴走は、「チット」についての理解によって静められる必要があります。

「チット」と「アーナンダ」は車の両輪のようなものであり、お互いがお互いを補い合うような関係にあります。

なので、たとえどちらか一方を理解しても「そこで終わり」というわけではなく、両方を理解することができて、初めて「一区切り」と言えるものなのです。

では、「チット」と「アーナンダ」について悟ったら、探求の旅は終わりなのでしょうか?

実は、もう一歩だけ、探求の旅は残っています。

ある意味でそれは、「最も大きな一歩」かもしれません。

今回はこの、「探求の旅における最後の一歩」について書いていきます。


話を始める前に、お断りしておきたいことがあります。

実のところ、今回の記事で書く内容については、私はごく最近になってようやく理解できるようになったことです。

そのため、正直に言ってまだ表現もこなれていませんし、今後また理解が深まれば説明がバージョンアップしていく可能性もあります。

ですので、今回の記事の内容は、あくまでも「バージョン1.0」という風にお考えください。

いえ、本当のところを言うと、まだ「バージョン0.8」くらいかもしれません。

というのも、私自身もまだ自分が気づいたことに関して、面食らっているくらいだからです。

いずれにせよ、今の私には「完璧な説明」はできません。

もしも今回の記事で書き損なった部分があったとしたら、今後、ブログの記事を更新していく中で補完していきたいと思っています。

以上の点だけ、あらかじめご了承いただきたいと思います。

では、話を始めていきましょう。

◎「真理」の三つの側面、「サット」「チット」「アーナンダ」について

前回の記事で、「インド哲学の不二一元論では『意識』のことは『チット』と呼ばれていて、『純粋な喜び』のことは『アーナンダ』と呼ばれているのだ」と私は書きました。

しかし、不二一元論についてご存じの方は、「あれ、大事なのが一個足りなくない?」と思ったのではないかと思います。

そう、「チット」と「アーナンダ」の二つだけでは、足りないのです。

ここに欠けているのが「サット(存在)」です。

そもそも、不二一元論では「真理」を三つの側面に分けています。

それが「サット(存在)」「チット(意識)」「アーナンダ(至福)」です。

三つを一つなぎにして「サッチターナンダ」ということもありますが、これなら聞いたことのある人も多いかもしれません。

先ほども書きましたように、「サット」「チット」「アーナンダ」は「真理」の三つの側面であり、つまりは同じ一つのものを別々の角度から表現したものです。

ちなみに、「真理」というのは、「アートマン(真我)」のことです。

アートマンとは、私たち自身の存在の根源である「本当の自分」のことを意味します。

つまり、「本当の自分(真我)」というのは、「サット(存在)」「チット(意識)」「アーナンダ(至福)」の三つの角度から表現できるということです。

たとえば、「チット」として「真我」を表現するなら、私たちの根源は「有形/無形の一切を観照する主体」であるということになります。

身体や「自我」といったものは「本当の自分(真我)」ではなく、それらはあくまでも「真我」によって観照される対象に過ぎません。

「真我」は「純粋な意識」であり、主体として「観ること」はあっても、対象として「観られること」はないものなのです。

また、「アーナンダ」として「真我」を表現することもできます。

たとえば、もしも「自我」による支配から解放されるなら、当人は胸のあたりに「穏やかな解放感(ハートの感覚)」を感じるでしょう。

それは、「存在しているだけで無条件に感じられる喜び」であり、その他の全ての感情と区別されます。

そして、もしも当人が「アーナンダ(至福)」に留まり続けるならば、その人は「自分という存在の本質は『至福』なのだ」とやがて理解するようになるはずです。

つまり、「至福」とは「存在すること」にそもそも最初から備わっている「質」であると理解されるようになるわけです。

「真理=真我」とは「至福」そのものである。

これが「アーナンダ」についての理解です。

では、最後の一つ、「サット(存在)」についてはどうなるでしょうか?

これが今回の記事のメインテーマです。

「サット(存在)」「チット(意識)」「アーナンダ(至福)」の三つのうち、「チット」と「アーナンダ」についての理解は、自覚的に努力して目指すことができます。

ですが、「サット」についての理解だけは、意図して目指すということができません。

「サット」についての理解というのは、探求者が「チット」と「アーナンダ」の両方を理解した後に、ただひたすら「静寂」の中に留まることで結果として訪れるものなのです。

なぜ私がこれまで「チット」と「アーナンダ」を理解する方法についてだけしか語らなかったかと言うと、「サット」についてはそもそも直接目指すということができないからです。

私たちにできることは、あくまで「チット」と「アーナンダ」を理解することまでであり、そこから先、「サット」の理解が成就するかどうかは、「神のみぞ知る」です。

実際、「サット」についての理解は、「神の恩寵」なくしては不可能とも言われています。

人間というのは無力なものです。

「サット(存在)」についての理解というのは、作り出すことができません。

私たちにできることは、ただ「チット」と「アーナンダ」についての理解を携えて、「神の恩寵」を待つことだけなのです。

では、「チット」と「アーナンダ」を理解した後、「静寂」の中に留まり続けることでいったい何が起こるのか?

まずはここから説明していきましょう。

◎「サット」についての理解は最初、感覚的なレベルで起こる

なお、ここから先は、連載最後の記事ということもあって専門用語がバンバン出てきます。

もしも意味が分からない単語が出てきたら、用語集を参照してください。

用語集

では、行きましょう。


「チット(意識)」について理解すると、当人は「私は在る」に留まることができるようになっていきます。

「私は在る」というのは、「自我」が沈黙して「意識そのもの」に留まっている状態です。

この時、当人は「在る」という存在の感覚を強く感じます。

そして、「チット」について悟った後は、この「在る」という感覚に留まり続けることが重要です。

なぜなら、「在る」という感覚に留まることで、「自我」による支配の解体が進行するからです。

また、「アーナンダ」について理解した後は、胸のあたりに生じる「穏やかな解放感」を感じ続けることが大事になります。

なぜなら、この「無条件に与えられる至福感」に留まることで、それまで当人が抱えてきた「執着」が破壊されていくからです。

なお、説明の便宜上、この「胸に感じられる無条件の至福感」のことを、これ以降は「ハートの感覚」と呼ぶことにします。

「チット(意識)」と「アーナンダ(至福)」の両方について理解した後は、これら「私は在る」と「ハートの感覚」が徐々に一つに重なっていきます。

つまり、「私は在る」が持つ「存在の感覚」と、「ハートの感覚」が持つ「穏やかな解放感」が、「同じ一つのものの別な現れである」と理解されるようになっていくのです。

これについては、頭で理解するというよりも、感覚的なレベルで徐々に確信されるようになっていくのではないかと思います。

私の場合、「チット」と「アーナンダ」の両方について理解してから、このことを確信できるようになるまで、確か半年くらいかかったと思います。

とにかく、日ごろの生活の中で、絶えず「私は在る」と「ハートの感覚」を想起し、その中に留まることによって、ある時不意に「『私は在る』と『ハートの感覚』は一つのものだったのだ」と気づきます。

それまで別々のものであるかのように実践してきた「私は在る」と「ハートの感覚」が、「同じものである」と理解されることで、日々の実践は非常にシンプルになっていきます。

つまり、「ただ『自分自身』に留まればいいだけだ」と当人は感じるようになっていくのです。

「自分自身」に留まっていれば、そこには当然「私は在る」という感覚があり、同時に「ハートの感覚」も存在しています。

そして、「私は在る=ハートの感覚」に留まり続けることによって、どこかのタイミングで、「最後の理解」が訪れるのです。

それが「サット(存在)」の理解です。

ただ、私はいったい自分がいつ「サット」について理解したのか、はっきりとは自覚していません。

ある時、気づいてみたら、既に「サット」についての理解が存在していたのです。

なぜそういうことが起こるかと言うと、「サット」についての最初の理解が、「知的なもの」というよりも、「感覚的なもの」だからです。

これから私は「サット」について論理的に説明していきますが、それらはあくまで全部「後付け」です。

最初の理解そのものは感覚的なレベルで起きたのであり、私はそれについて理論的なことはよくわかっていませんでした。

つまり、ここから先の説明というのは、私の中で最初の理解が起こった後に、「思い返してみれば、こういうことだったのかもな」と振り返って考えたものに過ぎないわけです。

なお、その「理論的な理解」の構築に際して、私は「悟り」について扱っている書物や、自身の師である山家直生さんの教えを再確認するということをおこないました。

すると、以前はさっぱりわからなかった「悟り」についての記述が、スルスルと理解できるようになっていることを、私は発見したのです。

なので、今回の記事でおこなう説明は、そういった先人たちの智慧に大いに影響を受けたものであることを明言しておこうと思います。

つまり、決して「私オリジナルの新説」を唱えているつもりはないということです。

いずれにせよ、もしも「サット」についての最初の理解が「知的なもの」であるならば、私は「自分が何を理解したか」についてすぐに自覚できていたでしょう。

「なるほど、そういうことだったのか」と思って、すぐに納得がいったはずです。

しかし、「サット」に関する最初の理解は、感覚的なレベルで起こります。

それはちょうど、少しずつ背が伸びていって視点が高くなっていくことを、当人が自覚しにくいのと似ています。

成長期には、一年前と今とで視点の高さはずいぶん違うはずですが、そのことに当人は気づきません。

いつの間にか「前と違った視点」から世界を観ているのに、それは後になって振り返ってみないとなかな気づくことができないのです。

それと同様、「サット」についての理解も、当人が自覚しないうちに定着していることがあります。

少なくとも、私の場合はそうでした。

ある時に気づいてみたら、既にその理解は起こっていたのです。

どんな理解かと言うと、「世界は実在しない」という理解です。

ここから本題に入ります。

では、説明していきましょう。

◎「本当の瞑想」の中において、「時間」と「空間」は溶解する

「世界は実在しない」などと言うと、「いったい何を言っているんだ?」と思われるのは私も重々承知しています。

実際、世の中の誰もが、「世界の実在」を疑ってはいないでしょう。

ですが、「私は在る」と「ハートの感覚」に長期間にわたって留まり続けていると、「世界の実在性への確信」がどこかの段階で崩壊してしまいます。

それはちょうど、「世界」のほうから「私は在る=ハートの感覚」の側へと、「存在の確信」がシフトしていくようなものです。

つまり、「向こう側」に在った存在の実感が、「こちら側」に向かって引き戻されてくるのです。

実際、「私は在る」と「ハートの感覚」にずっと留まっていると、「この世で唯一のリアリティ(実在)は『真我』だけなのではないか?」と感じられるようになっていきます。

そこにはあまりにもはっきりとした「存在の感覚」があり、「世界」のほうがむしろ「虚構(フィクション)」のように感じられてきてしまうほどです。

そして、実際にそれは本当のことです。

「私は在る=ハートの感覚」に留まり続けていると、「世界」の化けの皮がはがれてきます。

つまり、「世界の実在」には根拠がなく、「真我」のほうがよほどはっきりとした実在であるということが理解できるようになるのです。

「バカを言うな!」と言われても仕方ないかもしれません。

なぜなら、世の中のほとんどの人は、「世界の実在性」を深く信じているからです。

いえ、「信じている」というレベルではなく、「知っている」とまで思っているでしょう。

それは証明さえ不要な「事実」であり、あらゆる物事の前提である、と。

しかし、それは本当のことでしょうか?

実のところ、多くの人が「世界の実在性」を信じて疑わないのは、人々が「記憶」に依存し過ぎているからです。

たとえば、あなたがいつも行く病院は、今この瞬間も存在しているでしょうか?

「そりゃあ、存在しているでしょ」と、普通は答えるのではないかと思います。

しかし、その病院はひょっとすると局所的な天変地異で地下に没し去っているかもしれません。

あるいは、急な閉院が決まって、既に解体工事が始まっているかもしれません。

それは、実際に病院まで足を運んでみないと確かめることができません。

たとえどれだけ強く「病院の実在」を確信していたとしても、それは実際にはもう存在しないかもしれないのです。

ただ、こう言うとある人は「リアルタイムで病院の映像を見れば確かめられるよ」と答えるかもしれません。

しかし、その映像が絶対に「フェイク」でないということは、究極的には証明できません。

その時に当人にわかることは、「とりあえずこのディスプレイには病院の姿が映っているように自分の目には見えている」ということだけなのです。

このように、「いつも行く病院」が今この瞬間も存在しているかどうかについては、はっきりとした根拠がありません。

にもかかわらず、私たちはその存在を疑うことなく確信しています。

何故かと言うと、当人の中に、過去に病院に行った時の「記憶」があるからです。

当人には、病院までの道のりを思い出すことができ、受付で事務員さんと話したときの「記憶」があり、待合室の風景や、診察室での主治医の話についての「記憶」があります。

そして、私たちは成長していく過程で、「これらの『記憶による裏付け』がある物事については、基本的に存在していると考えて問題ない」という風に学習していきます。

そして、それは社会生活を送る上では、非常に理に適ったことでもあります。

と言うのも、たとえば、もし子どもの頃にこの学習に失敗してしまうと、「今日はもう学校が存在しないかもしれない…」と戦々恐々しながら、毎日登校しなければならなくなるからです。

このような前提で考えるようになってしまうと、ありとあらゆる物の存在が不確実になり、当人は怖くて生活することができないでしょう。

でも、だからと言って、あらゆる事物の存在について「完璧な証明」を求めるわけにもいきません。

というよりも、そんなことはそもそも不可能です。

先ほどの「病院」の例と同じように、その存在を確実に証明するためには、いちいちその場所まで確かめに行かねばなりません。

ですが、そんなことをいちいちしていたらキリがないので、私たちは「特に存在を疑う積極的な理由がないなら、それはまだ存在していると前提する」という風に考えることにしているのです。

そうして、「記憶に残っているものは、今も存在していると考えて問題ない」という仕方で自動処理することによって、私たちは「存在の根本的な無根拠性」に対して、基本的には目をつぶって生きています。

しかし、もしも「私は在る」と「ハートの感覚」に留まり続けるならば、存在の根拠として利用されている「記憶」というものの重要性が、徐々に低下していきます。

なぜなら、「私は在る」や「ハートの感覚」の中では、「時間」と「空間」といった観念が消失するからです。

そもそも「私は在る」や「ハートの感覚」に留まる時、当人の中では「今ここ」という感覚が際立ってきます。

「自分がまさに『今』『ここ』において存在している」ということに対する、強い確信が芽生えるのです。

しかし、そのように考えることができるのは、実のところ、「私は在る」や「ハートの感覚」が去った後になってからのことです。

実際、「私は在る=ハートの感覚」に現に留まっている間は、当人は「今」とも「ここ」とも考えてはいません。

そうではなくて、当人はただ「在る」としか感じていないのです。

というのも、この瞬間のことを「今」と言うためには「過去」と「未来」が必要であり、自分の存在を「ここ」に結び付けるためには「そこ」や「あそこ」が必要になるからです。

多くの人は、「時間」や「空間」というもののことを、絶対的に存在するものだと思っています。

しかし、「時間」や「空間」というのは、あくまでも相対的なものに過ぎません。

たとえば、「今」というものが存在するためには、必ず「過去」と「未来」がなければなりません。

と言うのも、そもそも「今」というものの定義が、「過去」でも「未来」でもない瞬間のことだからです。

そういう意味で、「今」というものはそれ単独で存在することができず、「過去」から「未来」に向かって流れる「相対的な時の流れ」の中にしか存立できないのです。

また、「ここ」という観念も、それだけでは当人の中で存立できません。

「ここ」が「ここ」であるのは、あくまでも「そこ」や「あそこ」ではないからであり、「ここ」だけが存在するのであれば、それはもう「ここ」とは呼ぶことができません。

その場合において当人に言えることは、ただ「私は在る」ということだけなのです。

よく、「瞑想は『今ここ』に焦点を当てることだ」と言われることがありますが、私からするとその表現は不正確です。

なぜなら、本当の意味での瞑想とは、「今ここ」という観念を溶解させて、「ただ在ること」の内に留まることだからです。

本当の瞑想、つまり「私は在る=ハートの感覚」の中においては、「時間」も「空間」も存在しません。

そこに存在しているのは、ただ純粋な「私」のみなのです。

◎「世界」という名の「最後の束縛」

しかし、私たちは当たり前のように「今」を生きて「ここ」に居ると感じています。

なぜかというと、それも先ほど説明した「世界の実在性の話」と同じで、私たちが「記憶」に依存しているからです。

たとえば、「今」を「今」だと感じることができるのは、「過去の記憶」があるからであり、そうした「記憶」を元にして未来をシミュレーションできるからです。

また、「ここ」を「ここ」だと感じることができるのも、「そこにいた時の記憶」や「あそこにいた時の記憶」があるからだと言えます。

つまり、私たちに「記憶」があるからこそ、「時間」や「空間」が存在しているように感じられるわけです。

ですが、先ほども言いましたように、「私は在る」と「ハートの感覚」に留まっていると、徐々に「記憶」の重要性が低下してきます。

なぜなら、「私は在る」と「ハートの感覚」の中では、「記憶」によって機能している「自我」が消え始めるからです。

これまでにも、「私は在る」や「ハートの感覚」の中で「自我」が弱まっていくことは、何度か指摘してきました。

そして、それは同時に、「記憶」による影響が弱くなるということでもあります。

と言うのも、「自我」というのは常に「記憶」を参照して行為や判断をおこなうからです。

このように、「自我」と「記憶」は密接に関連し合っており、「自我」による支配が弱まると、自然と私たちの「記憶」への依存も弱くなっていきます。

そして、その結果として「時間」と「空間」の観念が当人の中から消失していきます。

もはや「過去」も「未来」も実在性を失い、「そこ」や「あそこ」はリアリティを持って想起できなくなっていきます。

そして、このような状態に長く留まり続けることで、当然ながら「世界の実在性」に対しても確信が持てなくなっていくわけです。

その時、当人に確信できるのは「自分自身(真我)」の実在性のほうであり、「世界」のほうは「記憶」の助けを借りて存在しているかのように見せかけているだけの、一種の「虚構(フィクション)」として見えてきます。

このことが理解できた時、「サット(存在)」についての悟りが起こるのです。

これが探求の旅における「最後の一歩」です。

それは、「世界は実在しない」という理解であり、束縛からの「完全な自由」を意味します。

そもそもなぜ私たちが束縛されているかと言うと、「自分の外側に世界が存在する」という風に思い込んでいるからです。

「世界という巨大なものが外側に在って、自分はその中で『特別な個人』を目指して生きている一人の人間に過ぎない」という考えが、あまりにも深く染み込んでしまっていたために、私たちは「世界」によって束縛されていただけなのです。

こうした深い「思い込み」の結果として、人によっては世界を変えようとするかもしれませんし、また他のある人は、世界に合わせて自分を変えようとするかもしれません。

ですが、それらはどちらも「世界によって束縛されている」という意味では同じことです。

ここにおいて、「世界」と「自分」の間には絶えず摩擦と対立が生じ、当人は深い「分離感」を感じます。

「世界」と「自分」との間で綱引きが発生し、あたかも引き裂かれているかのような感覚を当人は抱くのです。

実のところ、私たちが苦しむのはひとえにこのためです。

つまり、私たちは自分の中にある何らかの理想を「世界」に向かって投影し、その理想の実現のために「世界」と戦い続けるのです。

ですが、もしも「『世界』とは一種の『虚構』である」と理解すると、当人はこういった戦いから進んで降りることができます。

つまり、「理想を求めて『世界』や『自分』を変える必要はない」ということが理解されるようになるのです。

この時、当人は本当の意味で「自由」になります。

「自我」による束縛から自由になり、「世界」による束縛からも自由になるのです。

この理解に到達することで、探求の旅は終わりを迎えます。

「真理」の三つの側面である、「サット(存在)」「チット(意識)」「アーナンダ(至福)」についての全面的な理解が成就し、束縛からの自由を得るのです。

◎「人生」という名の映画にのめり込まないために

いかがでしたでしょうか?

たぶん「頭ではなんとなくわかるけど、どうも感覚的に納得できない…」と思った人が大半なのではないかと思います。

私自身も、昔はそうでした。

確かに、こうして言葉で説明されれば、「頭で理解するだけ」なら可能でしょう。

でも、それを感覚的な納得にまで深めるには、長い期間の実践が不可欠です。

実際に自分自身で「私は在る」と「ハートの感覚」に留まり続けることによって、次第に「感覚的な確信」は育っていきます。

そして、どこかの段階で、「世界」に対する確信を、「真我」に対する確信が上回ってしまいます。

その時、「世界の実在性」は崩壊し、当人は「世界による束縛」から自由になるのです。

もちろん、だからと言って世捨て人のようになるわけではありません。

ただ、「『世界』というのは一種の『フィクション』だ」と自覚しながら生きるようになるだけです。

それはちょうど、映画を観ている時に、「これは作り話だ」と自覚しながら観るのと似ています。

人によっては「人生という映画」にあまりにもリアリティがあるために、それにのめり込んでしまうことがあります。

ですが、「『人生』というのは一種の『フィクション』だ」ということが理解できていれば、我を忘れて「人生という名の映画」にのめり込むこともなくなります。

きっと私たちは深刻過ぎるのだと思います。

それゆえ、人によっては自分の人生が耐えがたいほどの重荷となり、時としてそれに耐えられなくなって、私たちは潰れてしまうのです。

「自分自身の人生」から自由になることができて初めて、私たちは「苦しみの円環」から抜け出すことができます。

あなたがいつかそのような自由に辿り着けることを、私は祈っています。

◎この連載の最後に

以上をもって、本連載を終わろうと思います。

ここまでお付き合いいただき、誠にありがとうございました。

書き始めた当初はこんなに「長い話」になるとは想像していなかったのですが、結果的には、書いて良かったと思っています。

おかげで、私自身の辿ってきた道を整理することもできましたし、こうして道を整理しておけば、いつかきっと誰かの役に立つ日も来るのではないかと思います。

なお、今後の投稿については、「連載」という形ではなく、単発で記事を書いていく予定です。

そうすることで、本連載で扱いきれなかった論点を補ったり、日々の生活の中で気づいたことなどを形にしていければと思っています。

それから、私自身の目指す方向性としては、あくまでも「論理的で具体的な探求の道を示すこと」です。

そもそも真理の探求においては、説明があまりにも個人的な感覚に依拠しすぎていたり、スピリチュアルでフワフワとした言葉づかいで語られていたりすることが多いものです。

ですが、私自身はそういった言葉に満足することができなかった人間なので、過去に私自身が求めていたような「論理的で具体的な実践の手引き」というものを、できれば提供したいと考えています。

もしも、あなたがそんな私の語る言葉に興味を持ってくださったなら、またお付き合いいただけますと幸いです。

それでは、またお会いしましょう。

本当に、ありがとうございました。

⇓⇓連載についての「あとがき」の記事を書きました⇓⇓

【あとがき】「わかる」は楽しいが、「わかったつもり」では人はなかなか変われない