先日、活動の方針を変更する旨の記事を書きました。
【重要なお知らせ】今後の活動方針の変更について|「覚悟」のある人にだけ「本質的な情報」を共有します
記事の主旨としては、「深層心理に触れる可能性がある情報はクローズド(非公開)にする」というものでした。
なぜそのような方針変更をおこなおうと思ったかというと、まだ準備のできていない人の心の蓋を不用意に開けてしまうのを防ぎたかったからです。
そもそも、心身を深く変容する技法を実践すると、時には心の蓋が開いて長年抑圧してきた感情や過去のトラウマが噴き出してくることがあります。
そうなった時、人によってはビックリして実践から逃げ出してしまい、中途半端に心の蓋が開いたことで、余計に当人の苦しみを深くしてしまうことがあるのです。
「そういった事態を避けよう」というのが、方針変更の目的でした。
ですが、その後しばらく考えてみて、この方針変更には課題が二つあるように思いました。
一つは、情報公開のレイヤー(階層)の設計が極端すぎる点。
もう一つは、「自分には他人の運命をコントロールできるはず」という無意識の思い上がりが、私の中にあった点です。
以下、一つずつ書いていってみます。
一つ目の課題|情報発信をおこなう階層の二極化
まず、「レイヤーの設計が極端すぎる」という点についてです。
前回の記事では、「今後、自己の変容にかかわる深い内容は全てクローズドにする」という書き方をしました。
ですが、これだと「一般向け(当たり障りのない内容)」と「私と誓約を結んだ人向け(ナマの真実をありのままに提示)」との間に全くグラデーションがなく、情報の質が二極化してしまいます。
すると、「一般向けの内容」は多くの人にとって「物足りないもの・意味の薄いもの」になってしまうでしょうし、「誓約を結んだ人向けの内容」はハードルが高すぎて、ほとんどの人が二の足を踏んでしまうはずです。
そもそも私自身は、自分の中でこれまで情報にいくつかのレイヤーを設けていました。
「この情報は瞑想をほとんど知らない人向け」
「この情報は少し瞑想を知っている人向け」
「こっちは探求に興味を持ち始めた人向け」
「これについては本気で探求をしている人向け」
などなど…
どの層に届けたいか、その時々でかなり「深度のバリエーション」があったのです。
しかし、今の制度設計では、情報の深度が「一般向け」か「固く誓約を結んだ人向け」かの二つしかありません。
そうなると、「行き場をなくす情報」が沢山出てきてしまうことに気づきました。
実際、「一般向け」だけに限定すると、私はほとんど何も言えなくなってしまいます。
ですが、私としてはもっと届けたい言葉がありますし、そうした言葉は実際にどこかで誰かの役に立つかもしれません。
もちろん、時には私の言葉が誤解や曲解され、伝えた技法が乱用されたり誤用されたりする可能性もあるでしょう。
私の言葉が誰の元に届き、どのように解釈され、どんな形で使われるかは、もともと私のコントロールの範囲外なのです。
私にコントロールできるのは、自分が何を語り、何を語らないかを選ぶところまでです。
そこから先のことについては、私には完璧にコントロールすることなどできません。
ですが、どうも私は、それをコントロールできると思っていた節があります。
それが、先日新たに設定した活動方針が抱えている二つ目の課題につながります。
すなわち、「自分には他人の運命をコントロールできる」という私の側の思い上がりです。
二つ目の課題|「他人の運命はコントロールできない」という事実を受け入れることの必要性
言うまでもありませんが、私は全知全能の存在ではありませんので、他人の行動や意思をコントロールすることなどできません。
私の言葉をどのように受け止めるかは、あくまで相手の側が決めることです。
そもそも、全ての「気づき」には「古い自分が破壊される痛み」が伴います。
その痛みから逃げようとする人は、たとえどれほど多くの言葉に触れても耳を塞ぎ続けるでしょう。
過去の私がそうだったので、その気持ちはよくわかります。
でも、そんな人もいつかはどこかで人生が行き詰って、自分と向き合うしかなくなったりします。
その時、「痛み」は避けがたくやってくるものです。
その「痛み」を取り除いてくれる人はどこにもいませんし、他人には肩代わりすることができません。
誰もが自分自身で「痛み」を通り抜けねばならないのです。
そのような「痛みを伴った気づき」が、いつどこで起こるかは「ご縁」次第です。
私との出会いも、相手の人にとっては「ご縁」の一つかもしれません。
時には、私と出会ってしまったばっかりに、相手の人は「自分の痛み」を自覚して、深く苦しむこともあると思います。
ですが、内側に「向き合うべき痛み」が潜在している人は、私と出会おうとが出会うまいが、遅かれ早かれそれと向き合う必要があります。
そうでないと、その人は自分が死ぬときに「これまでの人生」に納得して逝くことができないでしょう。
「解決すべき課題」を解決しなかった。
「向き合うべき問題」から逃げ続けた。
そのような人生は、当人の中に深い後悔や不完全燃焼の感覚を生じさせます。
そして、その人は「自分の人生」に納得することができないまま、この世を去らねばならなくなるのです。
私は自分が今生で出会ってかかわった人には、なるべくそうなってほしくないので、たとえ「痛み」が伴っても「真実」は伝えたほうがいいと思っています。
もちろん、いくら「真実」を伝えても耳を塞ぐ人はいますが、それはたまたま「そういう時期」だというだけのことだと思います。
いつ「自分の真実」と向き合うかは、相手が自分で決めることであって、私のほうで管理しようとしてもできません。
相手の中で「真実を受け入れる器」ができていくペースを見つつ告げていくことならできますが、それ以上のことは私のコントロール範囲外なのです。
「気づき」は起こるべくして起こります。
それを私には止めようがないし、だからこそ「価値」があるのです。
もし私がスイッチのようなものを押すだけで他人の中に「気づき」を起こせるなら、話は非常に簡単でしょう。
ですが、それでは、相手は単なる「ロボット」になってしまいます。
私は誰のことも「ロボット」にしたくはありませんし、誰かの言う通りに動くだけの「ロボット」になって満足する人も一人もいません。
誰もが自分自身で気づきます。
別に、私が「気づき」を起こすわけではありません。
そして、だからこそ、その「気づき」にはその人自身の「誇り」が宿るのです。
自分自身で「痛み」と向き合い、我が身でもってそれを通り抜けたという事実が、自分は「ロボット」ではなく「人間」であるという証です。
逆に、「自分の痛み」から逃げ続ける人は、「ロボット」のように生きて死にます。
なぜなら、その人は「痛み」を前にすると、毎回必ず自動的に「逃げること」を選ぶからです。
その時、当人は「痛みを前にしたら必ず逃げる」というプラグラムの通りに動くだけの「ロボット」になってしまっています。
そして、そのような人生を生きることで満足できる人はいないので、当人は死ぬときに後悔することになるわけです。
それでも、そのような人生をずっと歩み続ける人はいますし、私にはそういった人たち全てを助ける力はありません。
だからこそ、私は「ご縁」というものを大事にしたいと思っています。
何の因果か、今生でたまたま私と出会った人には、私は少しでも「気づき」を持って生きてほしいのです。
それゆえ、時には「痛み」が伴おうとも、「気づき」を促すような言葉を届けたいと私は思っています。
私は私なりに「気づき」を促す言葉を送り、たまたま「ご縁」のあった人が、それに触れて自分自身で気づく。
それは「神の遊び(リーラ)」のようなものです。
「神」が戯れに人と人とを出会わせて、「気づき」を紡ぎ出しているのです。
そこにおいては、私も相手も、舞台上でそれぞれ「自分の踊り」を踊っているだけの役者に過ぎません。
私はその舞台の脚本家ではないし、舞台全体をコントロールする立場にもありません。
そうであるならば、「他人の痛みや気づきを自分が管理しなければ」などとあまり深刻に考えず、「与えられた役割」を精一杯演じればそれでいいのではないかと、改めて思った次第です。
終わりに
以上、とりとめなく書いてきましたが、あまり深刻になり過ぎないようにしようと思いました。
本質的な情報を完全に閉ざして「無菌室」を作り出すと、ほとんど誰の「気づき」も促せないですから、情報の公開をあまり極端には制限せず、グラデーションを設けて発信していくつもりです。
そのうえで、「他人の気づき」をコントロールしようとしないことも、大事なことではないかと思います。
なぜなら、「他人の気づき」をコントロールしようとするのは、結局のところ、相手をこちらの思い通りに動く「ロボット」に変えようとする、私自身の支配欲求の表れだろうと思うからです。
そして、人間が他人を支配したいと考えるのは、だいたいにおいて内側に「恐怖」がある時です。
つまり、私が「相手をなるべく傷つけたくない」と思うのは、私の中に「相手を傷つけてしまうことを通して自分自身が傷つきたくない」という「恐れ」があるからだと思うのです。
なので、まず私は、自分自身の内側にある「恐れ」と向き合おうと思います。
そのうえで、「ご縁」のあった人々が「気づき」を得るきっかけとなるような言葉を、これからも届けていきたいです。
活動の方針が二転三転して申し訳ありませんが、必要な微調整をしていこうと思います。
また具体的にどうするか決まったらご報告いたしますので、ご理解いただけますと幸いです。
今後とも、どうぞよろしくお願いいたします。

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