【第9回】「瞑想」の第一段階《理論編》|なぜいったん「自我」を強化するのか?

前回の記事では、「意識(本当の自分)」について理解するための「瞑想」の実践について、その全体像を示しました。

【第8回】「瞑想」の実践の全体像|四つの段階のロードマップ

「瞑想」の実践は、全部で以下の四つの段階に分かれています。

1,「自我」を強化して思考を静める段階
2,「自我」から「無意識」へ瞑想を委ねる段階
3,「自我」と「意識(本当の自分)」との同一化を打ち破る段階
4,「自我」を解体し、「自由」を実現する段階

これら四つの段階を経ることで、「意識(本当の自分)」とは何かについて理解することができます。

そして、各段階で「瞑想」をどのように実践していくかが異なるわけですが、今回はまず最初の段階である「『自我』を強化し、思考を静める段階」の瞑想について説明していこうと思います。

この記事では、この第一段階の理論的な背景をもう少し踏み込んで解説し、次回の記事で具体的な実践方法について書いていければと考えています。

では、始めていきましょう。

◎「瞑想」によって「自我」は死なない?「支配者」から「使用人」へのシフト

第一段階の中心テーマは、先ほども書きましたように「『自我』を強化することによって思考を静めること」です。

こう聞くと、「いや、ちょっと待ってよ」と言いたくなる人がいるかもしれません。

「思考を静めるというのはわかるけど、なんで『自我』を強化しないといけないの?」と疑問に感じるわけです。

それはきっと、「瞑想というのは、むしろ『自我』をなくすためのものだ」という風に考えているからですね。

確かに、「瞑想」の実践の最終段階においては、「自我」が解体されていきます。

ですが、だからといって「自我」がなくなってしまうわけではありません。

よく瞑想の世界でも「あなたの『自我』を殺しなさい」とか言ったりしますが、「瞑想」の実践を続けていっても、別に「自我」は死んだりしません。

ただ、「自我」に支配されなくなるだけです。

それはちょうど、人生の主導権が「自我」から「意識(本当の自分)」にシフトしていくようなものです。

「瞑想」の実践を始める前は、基本的に「自我」が私たちの主導権を握っています。

「自我」は私たちをコントロールする強い力を持っていて、「あっちに行きなさい」「こっちに行ってこれをしなさい」と巧みに私たちのことを誘導します。

たとえば、「もっとお金をたくさん稼げば他人から称賛してもらえるぞ」と「自我」は私たちをそそのかし、私たちのことをそっちに向かわせようとします。

その結果、当人は名誉や金銭に「執着」するようになり、それらを求めてどこまでも走り続けることになります。

あるいは、「人とのつながりを失って独りきりになったら、惨めな想いをして苦しむことになるぞ」と言って、「自我」は私たちを恐れさせます。

「自我」は「孤独」に対する恐れを私たちの中に生み出し、私たちはしばしばこの恐れに負けて、自分を傷つけるような他者(たとえば、DVをする恋人や自分を支配してくる親など)から逃げられなくなってしまうのです。

このように、「自我」は絶えず私たちをコントロールしていて、「あっちに行け」「そっちには行くな」と命令し続けています。

ですが、「瞑想」の実践が進んでいくと、最終的にこういった「自我」のコントロール力はなくなります。

「自我」は「支配者」ではなくなり、「使用人」のようなものになります。

別に、「自我」そのものがなくなるわけじゃありません。

そうではなくて、「自我」が自分の役割をきちんとわきまえるようになるのです。

そもそも、この人間社会で生きていくためには、「自我」の働きがどうしても必要になります。

たとえば、「意識(本当の自分)」には、考えることも物事を決定することもできません。

「意識」は、ただ全てを観ているだけの「主観」であり、物事を決定したり、判断を下したり、他者とコミュニケーションを取ったりする能力を持っていません。

それゆえ、たとえ「意識」について悟っても、生きていくための様々な活動には「自我」の働きが必要不可欠なのです。

ただ、あくまでも「意識」が「主人」で、「自我」は「使用人」という関係性になっていきます。

「意識」が「自我」の言うことを聞いて右往左往することはなくなり、その結果、当人の中で「自我によって束縛されている」という感覚はなくなっていくことになるのです。

◎「集中する瞑想」の目的は「思考でいっぱいのパーティ会場」を無人にすること

このように、たとえ「瞑想」の実践が進んでも「無自我」にはなりません。

「自我」から「意識」へと、当人の軸足がシフトしていくだけです。

「じゃあ、なんで最初に『自我』を強化するのか?」という話ですが、それは、とにかくまず内側の「無秩序な思考」を静める必要があるからです。

何らかの「瞑想技法」を実践したことがある人は、おそらくこのことが経験的によくわかっているだろうと思います。

実際、私たちは絶えず無自覚に考え事をし続けています。

思考はどこまでも湧き続け、決して収まることがないのです。

ただ、思考の量にはかなりの個人差があります。

ですので、一つここでテストをしてみましょう。


今から坐って目を閉じて、1分間、何も考えないようにしてください。

一切何も考えてはいけませんよ?

タイマーをセットして…、ではスタートです。


…どうでしたか?

たぶんほとんどの人は、何らかの思考が浮んできてしまったのではないかと思います。

逆に、もしも今の時点で1分間何も考えないでいられた人は、この第一段階の実践は全部飛ばしていいです。

すぐに第二段階の「無意識に任せる瞑想」へ移行してください。

なぜなら、もし自然と考えないでいることができるなら、第一段階にはあまり長く留まらないほうがいいためです。

これから私が説明していく「第一段階の瞑想」は、「集中する瞑想」です。

これは、そもそも元から思考の量が多くて、「瞑想」することができない人のためのものです。

ここで言う「瞑想」とは、「内側を静かな状態に保つこと」という風に理解しておいていただいたら大丈夫です。

そして、思考があまりにも多い人の場合、「内側を静かに保つ」ということがそもそもできません。

むしろ、内側は常に「大人数が詰めかけたパーティ会場」みたいな大騒ぎになっています。

この「パーティ会場」から、「参加者(思考)」に一人ずつお帰りいただくのが、第一段階の「集中する瞑想」の目的なのです。

◎「自我」を強化し過ぎると、それが「自由」への障害となる

前回の記事でも少し書きましたが、私たちの集中状態が深まると、思考は自然と減っていきます。

これは、集中することにエネルギーが使われることで、思考の生成にエネルギーが向かわなくなるからです。

つまり、エネルギーの使い道を思考から集中に無理やり変えてしまうわけですね。

これによって、内側には徐々に「静かな状態」が生じてきます。

慣れてくれば、ちょっと集中するだけで、思考がサッとどこかへ行ってしまうようにもなるでしょう。

ただし、注意しなければならないのは、集中する時にはどうしても「自我」を使わざるを得ないという点です。

確かに、第一段階の「集中する瞑想」では、徐々に「自我」を強化していきますが、それは、「自我」による自己コントロール力を強化しないと、そもそも思考を静めることができないからです。

ですから、「自我の強化」はあくまでも「余計な副産物」であって、本当の目的は「思考を静かにすること」のほうです。

別に「自我を強化すること」が目的なわけではないのです。

ただ、少し前にビジネスマンの間で「瞑想」が流行った時は、むしろこの「自我を強化すること」のほうが目的だったのではないかと思います。

集中力と自己コントロール感覚を高め、能率的に仕事をバリバリとこなすために、多くのビジネスマンたちが「集中する瞑想」をしていたわけです。

しかし、私たちは別に「有能なビジネスマン」になるために「瞑想」をするわけではないはずです。

そうではなくて私たちは、あくまでも「自分で自分を束縛することをやめるため」に、これから「瞑想」を実践していくのです。

そして、先ほども書きましたように、「自我」というのは絶えず私たちの生き方をコントロールしようとしてきます。

不思議なもので、「自我」が強化されると当人は自己コントロール感覚が強まるように主観的には感じるのですが、そうして「自我」が強まると、知らない間に「自我」による支配も強化されてしまいます。

つまり、主観的には「コントロール感覚が強まった」という風に感じながら、実際には「自我」によってより強くコントロールされてしまうのです。

自分が「支配者」になったように感じながら、より深く「自我」により支配されてしまうわけですね。

なので、「自我の強化」は、行き過ぎるとかえって「瞑想(自由への道)」の障害になります。

こういった理由から、「集中する瞑想」はあくまで思考を最低限抑えるための通過点と考え、どこまでも「自己コントロール感覚」を追い求めないほうが良いでしょう。

◎第一段階の目標は、「1分間、無思考でいられること」

ということで、第一段階の目標は、あまり高く設定しません。

とりあえず、1分間何も考えないでいられたら、それでOKとします。

こんなことを言うと「瞑想」をいくらか続けてきた経験のある人は、「へ、そんなのでいいの?」と思ってビックリするかもしれません。

はい、「そんなの」でいいです。

「思考がない」という状態が体験的に理解できたら、第二段階に進んでもおそらく問題ないと私は考えています。

というのも、第二段階ではこの「思考がない時の感覚」が実践の拠り所になってくるからです。

そもそも、第一段階では実践する時に主体的に「やること」がありますが、第二段階には特に「やること」がありません。

第二段階の実践内容については、また後で詳しく述べますが、第二段階では「何もしないこと」のうちに留まり続けることになります。

「自我」によって集中することをあえてやめて、「何にも集中しないでただ坐る」ということをします。

そうすることによって、「自我によって『瞑想=思考のない状態』を起こす」という方向性から、「無意識に任せて『瞑想=思考のない状態』を定着させる」という方向へ進んでいくわけです。

ただその時に、「思考がない感覚」を体験したことが全くないと、場合によっては「どこに向かっていったら正解なのか」が当人の中でわからなくなる可能性があります。

結果的に、「言われた通り、何もしないでいるけど、これで本当に合ってるのかな?」と疑心暗鬼になってしまい、当人は第二段階の実践を続ける意味がわからなくなるかもしれません。

それを避けるためにも、第一段階でまず「『思考がない』というのは、どういう状態か」について、体験的に理解しておくことは、助けになるのではないかと思っています。

「無思考の状態」というものがどういう「質」を持ったものなのかを感覚的に理解していれば、それが第二段階の実践をする時の羅針盤として機能するはずです。

そして、このように「思考がない状態」について自分である程度体験出来れば十分であるからこそ、「第一段階のゴール」についても私は高く設定しません。

とりあえず、1分間「無思考」でいられたら、第一段階は「ゴール」です。

ひとまずそこまで頑張りましょう。


ということで、理論的な話はこんなところにして、具体的な実践方法については、また次回解説しようと思います。

次回は数ある「瞑想技法」の中でも最もベーシックな、「呼吸に集中する瞑想」のやり方について、解説していくつもりです。

実践するのに事前準備は何も必要ありません。

他人に邪魔されず、静かに坐れる1畳ほどのスペースがあれば大丈夫です。

では、また次回。

⇓⇓次回の記事です⇓⇓

【第9.5回】「瞑想」の第一段階《実践編》|「無思考の味わい」を知るための呼吸瞑想