私は、「日常の幸福を丁寧に味わうこと」を基本的に推奨しています。
たとえば、「ご飯を食べて美味しい」とか、「のんびり散歩して気持ちいい」だとかいったような、「何でもない幸せ」を大事にすることをオススメしているのです。
それは、こういった「何でもない幸せ」を味わう中で、「あるがままの幸福感」が徐々に育っていくからです。
実際、日常の中でホッとする瞬間、当人の中では「ゴール」が消えています。
その人は、何かを成し遂げるために走っておらず、むしろ「手ぶら」であることを楽しんでいるのです。
このような「手ぶらであることの中で生じる喜び」こそが、本当の意味で私たちの心を満たすものです。
「ただ在る」ということの中で感じられる喜びと言ったらいいでしょうか。
そういった喜びは、世界の存在に依存していません。
つまりその人は、世界が自分の望み通りになったから嬉しいわけではなく、なんでかわからないけれど「ただ嬉しい」のです。
たとえば、目的地も制限時間も決めず、のんびりと散歩をしていると、不意に喜びが溢れてくることがあります。
「歩く」という動作の中で、周りの景色が輝いて見え始め、動いている身体の感覚が快く感じられ始めます。
そうして、「あぁ、なんて心地いいんだろう」と主観的には感じるわけです。
ですが、その時に当人は、ただ歩いているだけに過ぎません。
何も生産していませんし、何かに貢献しているわけでもありません。
それにもかかわらず、自分が存在していることそのものに、その人は喜びを感じているわけです。
こういった喜びは、他人や社会に依存しておらず、その人自身の内側に根を持っています。
それゆえ、当人は、外側の他人からの称賛や愛情を求める必要がなくなり、「ただ生きている」というだけで、喜びを感じられるようになるのです。
しかし、多くの場合、こういった「純粋な喜び」は多くのものによって塞がれていて、うまく感じることができなくなっています。
先ほど例に挙げた散歩の場合であっても、おそらくほとんどの人は、ゆったりしたペースで歩いていると、イライラしてきてしまうはずです。
それは、「常に生産的でなければならない」「もっと速く、効率的に物事を処理しなければならない」という価値観が、人々の心身の奥深くまで染み込んでしまっているためです。
そのため、多くの人は「非生産的な時間」に何の価値も見出すことができません。
時間というのは、いつも「何かのため」でなければならず、世の中の人にとって「何のためでもない時間」というものは、退屈で耐えがたいものとなっています。
そしてまた、社会からいつも「速くしろ!」と命令されてきたことで、ほとんどの人の「内的なリズム」はすっかり掻き乱されているものです。
心と身体は「本当はもっとゆっくり動きたい」と思っているのに、当人は無意識に速く動いてしまい、ちっとものんびりすることができません。
仮に、のんびりできる時間がやってきたとしても、高速で走っていた車が急には止まれないようなもので、当人はのんびりすることができずに走り続けます。
実のところ、多くの人が、余暇の時間についついスマホでゲームをしたり動画を観たりして過ごしてしまうのも、このためです。
ここにおいて、当人の脳は「大量の情報を高速度で受け取るモード」になっていて、「低刺激環境でゆっくりする」ということができなくなっています。
神経は常に刺激され続けていて、その人の脳はそういった強度と速度に慣れ切っているため、「何もしない」ということに苦痛を覚えてしまうのです。
このため、「何もしない喜び」に達することが、多くの人には難しくなっています。
本当は、ただブラブラと散歩をするだけでも、「深い幸福感」を体験することができるのに、世の中のほとんどの人は、むしろ「何もせずブラブラしていること」を苦痛に感じてしまうわけです。
こういった「内的なリズムの乱れ」を落ち着けて、「本来のリズム」にチューニングするためには、「何でもない幸福感」を味わうことが有効だと、私自身は思っています。
何でもいいので、日常の中にある「ほっこりした瞬間」を見つけて、それを意識的に味わうのです。
そうすると、少なくとも、その瞬間だけは「ゴール」が消え、その人は「走ること」をやめることができます。
もちろん、ずっと走っていた車は急には止まれないので、慣性で走る続けようとするでしょう。
ですが、「何気ない幸福を味わう」ということを続けるなら、車は徐々に静止していきます。
逆に、「目標志向」になって、絶えず「ゴール」を目指してせかせかと動き回ることによって、人は「自分の車」のアクセルを踏み込むことになってしまいます。
問題は、その車に「ブレーキ」というものがついていないことです。
それゆえ、もしも走り続けてきた車を止めようと思ったら、「アクセルを踏まないでいる時間を増やす」という以外に、手はないのです。
ゴータマ・ブッダは、旅の途中で弟子のアーナンダに「水を汲んできてほしい」と言いました。
「さっき通りかかった水たまりに戻って、飲むための水を汲んできなさい」と告げたのです。
しかし、アーナンダが水たまりに戻ってみると、荷馬車が通った直後だったのか、水は泥で濁っており、とても飲み水に使うことはできそうにありませんでした。
それで、アーナンダはゴータマの元に戻り、「水は濁っていて飲み水としては使えません」と報告しました。
するとゴータマは、そこで話を終わりにはせず、「もう一度行ってきなさい」とアーナンダに言ったのです。
アーナンダは「そんなことをしても無駄なのではないか?」と内心で思いつつも、もう一度、水たまりの元に戻ってみました。
すると、水たまりの中に漂っていた泥は底に沈んでしまっており、水たまりは元の綺麗な状態に戻っていたのです。
アーナンダは水を汲んで喜びながらゴータマの元へと戻って、こう言いました。
「あなたは不思議な教え方をされる」
「全ては自然と落ち着くべきところに落ち着き、物事は自ずから収まるのですね」
私たちの「内的なリズム」というのは、「ブレーキを踏んで無理やり落ち着かせる」ということができません。
それは、水たまりの中に舞い上がった泥を無理やりなくすことができないのと同じです。
もし、泥をなくそうと思って水たまりに手を突っ込んでかき回せば、むしろ泥が余計に舞い上がって水が濁ってしまうでしょう。
私たちにできることは、水の中の泥が自然と底に沈むまで、辛抱強く待つことだけです。
しかしそれは、逆から言うと、私たちは別に何もしなくていいということでもあります。
もしリラックスするために絶えず何かをし続ける必要があるのなら、私たちはどこかで疲れてしまうことでしょう。
ですが実際には、もしも何もしないことの中でくつろげるなら、その時、心の中で舞い上がっていた「泥」は自ずから全て沈んで消え、後には「まっさらな喜び」だけが残るのです。
私たちのマインドというのは、「ブレーキのついていない車」です。
それを静止させるためには、「アクセルを踏まずにいること」だけが役に立ちます。
そうすれば、やがて車は止まっていき、マインドの動きは静止します。
その時、「マインドの奥に在ったもの」が現れるでしょう。
それは、私たちの中に眠る「無垢」であり、存在することそのものの中に宿る「喜び」です。
そして、それを思い出すためには、「ゴールの無さ」の中で感じられる「ささやかな幸福感」を味わうことが役に立ちます。
実際、「あぁ、幸せだなぁ」と思って安らぐ時、私たちは安心して「アクセル」から足をどけていられるようになります。
「アクセルを踏むこと」ばかりが求められる現代社会の中にあっては、そのような「何でもない時間」を楽しむことが、「内側の喜び」に至るための「修行」となると、私自身は思っています。

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