ある方とメールでやり取りしていて思ったのですが、「頭で瞑想する」のと「心身で瞑想する」のとを分けて捉えるのはけっこう大事かもしれません。
そもそも、「瞑想」というと、私たちは「頭を使ってするものだ」と思い込みがちです。
実際、科学的な研究でも、「瞑想中の脳の状態」とかを調べるものが多いです。
また、瞑想については、「理想的な状態についての概念」がたくさんあります。
たとえば、「今に留まる」ということを、禅では「即今」と言ったり、「芋づる式に考えを広げないこと」を「二念を継がない」とか言ったりします。
確かにその通りではあるのです。
実際、瞑想状態にある時、「過去」と「未来」は消滅します。
また、瞑想状態の中では思考もクリアになるため、「思考そのものについて思考する」ということが起こりにくくなります。
たとえば、「あー、腹減った」と思っても、そこから「瞑想中に何考えてんだ」とか思ったりしなくなり、「そう言えば、昨日食いに行ったうどんは旨かった。ほんなら、今日も行こかいな」とか思ったりもしなくなっていきます。
ただ、そういったことは「結果的に起こること」であって、意図的に目指すことはできません。
たとえば、「今に留まろう」と思っていると、その「今に留まろう」という意識が頭の中で木霊し続けてしまい、「ただ在る」という状態になることが妨げられます。
「過去と未来が消える」ということを、多くの人は「今に留まることによって実現できる」と思っていますが、実際には、「過去と未来が消える」と、「時間」という観念そのものが消えてしまいます。
つまり、その時には「自分は『今』に留まっている」とさえ言えなくなるのです。
なぜなら、そもそも「今」という観念が、「過去」と「未来」という観念に依存しているものだからです。
◎「今」が存在できるのは、「過去」と「未来」が在るおかげ
そもそも、私たちが「今」というものを意識できるのは、それが「過去」や「未来」と並べて想像できる時です。
時間が「過去」から「未来」に流れるのを想像できる時、「その中の特別な一点」として「今」を意識できるわけです。
しかし、瞑想状態が深まると、これができなくなります。
あまりにも「今この瞬間」に定まってしまうので、「今に居る」とは感じず、ただ「在る」としか感じることができなくなるのです。
あなたにも経験がありませんか?
面白い本を夢中になって読んでいる時や、新発売のゲームを徹夜でプレイしている時などには、あまりにも「今」に定まってしまっているので、夢中になっている間は、「時間」というものが存在しなくなります。
それで、後になって気づいた時には、「え、もうこんな時間!?」とびっくりしたりします。
そんな風に我に返ることによって、「過去」と「未来」と「今」が存在する、「時間の流れ」の中に戻って来るわけです。
このように、本当に深く「今」に定まると、「今」という観念も含めて「時間」は溶解します。
そして、瞑想状態の中で、当人はこの「時間が存在せず、自分だけが存在する状態」を感覚することになるのです。
でも、その状態は頭で考えて作り出すことができません。
なぜなら、頭は常に「時間」という観念を作り出そうとするからです。
実際、頭が「今に留まるんだ」と思えば思うほど、「今」と一緒に「過去」や「未来」も存在感を増していきます。
そうして当人は「在る」という感覚に留まることができず、「自分は『今』に留まっている」という観念に囚われていってしまいます。
ですが、「在る」というのは「観念」ではなく「感覚」です。
それゆえ、瞑想状態というのは「頭で考えるもの」ではなくて、あくまで「心と身体を入り口にして感じるしかないもの」なのです。
◎私が「在る」という感覚を初めて知った時のこと
私がこの「在る」という感覚を初めて体験したのは、即興舞踊をしていた時でした。
瞑想法や呼吸法の実践を続けていく中で、当時の私は「ただ呼吸する」とか、「ただ腕を上げ下げする」とかいったことの中に、「心地よさ」を感じるようになっていました。
それで、「こんな単純な動作で心地よさを感じられるなら、踊ったらもっと面白いんじゃないか」と思ったのです。
ちなみに、私はもっと昔にダンスをかなり集中的に稽古していたことがあったのですが、その当時は、出来合いのテクニックをただなぞることしかできず、結局それに飽きてやめてしまっていたのでした。
しかし、瞑想法や呼吸法を実践したことで、私は「ただ腕を回す」とか、「ただ飛び跳ねる」とかいった「シンプルな動き」の中に、えも言われぬ「快さ」を感じることができるようになっていました。
腕を動かすと、皮膚が空気に触れる感触に粟立ち、手のひらの重みが床に向かって滴る感覚に、私は思わず微笑みました。
そうして踊っていると、思考が徐々に静まっていき、全く無思考になりました。
その時、私は「在る」という感覚を知ったのです。
それは「今に留まろう」という意識さえもなく、「目の前の世界」をただそのまま感覚している状態でした。
腕に生じる感覚も、足裏に感じる身体の重さも、目に映る部屋の景色も、みんな自覚はしているのですが、「時間の流れ」は存在しなくなっていました。
これはつまり、さっき例を挙げた「夢中になって本を読んでいる」とか、「徹夜で新作ゲームをプレイしている」とかいった状態を、自覚を保ったまま体験しているような感じでした。
「頭」も「時間」も消えていて、そこには「在る」という感覚しか残っていません。
もちろん、最初のうちはその状態はすぐに解除されてしまいました。
踊っていても集中が深まった時しかなかなか「そこ」には入れませんでしたし、当時の私は、踊りを通してしか「在る」という感覚を感じられなかったのです。
ですが、その後、真理の探求をするようになり、日常生活の中で瞑想をするようになってから、特に身体を動かさなくても、自然と「在る」という感覚に入れるようになっていきました。
それは、「時間」は消えているけれど、「自覚」は保っている状態です。
そこでは、「今、自分は在る」という思考さえありません。
本当に、そこには「感覚」しかないのです。
◎「極意」は忘れ、「技法」はあくまで「補助輪」に過ぎないと心得る
こういったわけで、瞑想を深める時は「感覚」こそが鍵になります。
逆に、感覚を軽視して頭で「今に留まろう」と思っていると、「時間」が落ちることはありません。
もし瞑想を意図的にコントロールしようとしてしまうと、「自分は『今』に留まっている」という観念を頭の中だけで生み出し続けてしまい、瞑想状態になっていないにもかかわらず、当人は「瞑想ができている気分」になってしまいます。
おそらく、一般的な書籍などを参考にして瞑想を実践している人は、こういった状態に陥りやすはずです。
というのも、多くの瞑想についての本は、「概念的な説明」が多く、「それはどんな感覚なのか?」という説明が少ない傾向があるからです。
また、瞑想についての書物や仏典などを読んで、「瞑想についての概念」をたくさん頭に入れている人も、「頭の中だけで瞑想する」ということが起こりやすいでしょう。
なまじっか色々な概念を所有してしまっているために、瞑想中も「自分は即今(今に留まった状態)を維持できているだろうか?」ということを、頭によって問いかけながら実践してしまうのです。
「あれができているだろうか?」
「これはちゃんとクリアできているだろうか?」
瞑想についての知識が多い人は、そんな風にチェック項目をたくさん抱えてしまっています。
それゆえ、実践中もそれらが気になってしまい、「感覚そのもの」の中に「非言語的な仕方」で入っていくことができなくなってしまうのです。
そう言えば、私の合氣道の師匠の師匠は、「初心者が武道についての伝書を読むこと」を嫌っていました。
なぜなら、そういったことをしてしまうと、頭の中に「理想的な状態についての言葉」だけをインストールすることになってしまうからです。
そうしてその人は、「それがいったいどういう感覚なのか」ということについて無知なまま、言葉だけを巧みに操るようになっていきます。
これを、私の師の師は「極意にかぶれる」と言っていました。
そして、瞑想でもこういったことはよく起こります。
実際、私たちは、調べようと思えば、「瞑想についての極意書」をいくらでも読むことができます。
もちろん、それらは「実践の目標地点」を示してはくれるでしょう。
しかし、問題は、こと「瞑想」に限っては「ゴールを目指す」ということが、そもそも不可能であるということなのです。
むしろ、瞑想の実践においては、「目標意識」があることによって、「在る」という感覚に入ることが絶えず妨げられてしまいます。
そもそも、「在る」という状態は、「何らかの感覚」に徹底的に集中した時、「結果的に起こるもの」であり、それ自体を直接目指すことができません。
もちろん、「二念を継がず(芋づる式に考えない)」とかいった教えが、実践の過程では「一つの方便」にはなります。
でも、最後には「二念を継がないように注意しよう」という意志そのものを落とす必要があります。
それはあくまで「補助輪」であり、意識しなくても「二念」が生じなくなったら、もう忘れてしまっていい教えなのです。
そういう意味で、「即今(今に留まること)」は、「理想的な瞑想の状態を示した概念」であり、「二念を継がず(芋づる式に考えない)」というのは、「瞑想状態に至ることを助けるための補助輪」のような関係にあります。
このため、「ゴール」を意味する「即今」などのような「極意系の言葉」については、「ふーん、瞑想ってそういうもんなんだ」というくらいに考えて、実践中は忘れたほうがいいです。
そして、「二念を継がず」などのような「補助輪的な方便」については、実践中に適度に利用しつつも、「これもいつかは捨てるものだ」ということを覚えておくことが大事だと思います。
◎「真面目さ」がかえって「瞑想状態」を遠ざける
私がこのブログで書いている瞑想の技法も、結局は全て「方便」です。
それゆえ、最終的にはそれらも捨てることになります。
実際、「在る」という感覚が自分で識別できるようになったら、その人はもう「特定の技法や行法」によって束縛されなくなります。
その時には、起きている間、行住坐臥の全てが瞑想の実践になっていきます。
もちろん、坐禅をしている時のような「完璧な無」を保ったまま生活することは誰にもできませんが、別にそんなことをする必要はありません。
大事なことは、「時間が存在すると思うのは錯覚なのだ」という自覚を保ったまま、折に触れて「在る」という「時間が消失した感覚」を想起することです。
別に「無」に留まる必要はありませんし、「自我」を殺す必要もありません。
ただ、「自我」に使われることがなくなり、反対に、自分のほうが「自我」を使うような状態になっていることが大事なのです。
「じゃあ、結局何をしたらいいの?」という話になりますが、ここでも鍵は「感覚」です。
できれば、日常生活の中で「快い感覚」を探してみてください。
たとえば、好きなものを食べている時とか、ペットの猫を撫でている時とか、好きな音楽を聴いている時とか、そういう「自分の心が動いている時の感覚」を、丁寧に味わってみてください。
ただし、その時に「自分は瞑想を実践しているのだ」と思う必要はありません。
むしろ、そういう「真面目な態度」で実践してしまうと、「味わう」ということがうまくできなります。
私も過去に経験があります。
私はある時に「食べる瞑想」を実践していたのですが、その時は頭で絶えず「食べ方」をコントロールしていました。
「口に入れたら何回以上噛まないといけない」とか、「口の中に入れたものを飲み込むまで次のものを口に入れないようにしないといけない」とか、「絶えず味を感じ続けないといけない」とかいったことを、その時の私はずっと考えていました。
確かに、「よく噛むこと」も「次々に口へ食べ物を入れないこと」も味わう上では大事です。
でも、それらは、「もしも深く食事を味わったら、結果的に自然と起こること」であって、「無理に強制すること」ではありません。
実際、食べているものがあまりにも美味しいと、「結果的に」噛む回数が増えるかもしれませんし、「結果的に」口の中が空になるまで味わってから次の一口に移るかもしれません。
でも、それらは「深く味わった結果」として自然と起こることであって、形式として自分に課してしまうと、かえって「味わうこと」が阻害されます。
そのため、過去の私も、「食べてても全然美味しくない」と思っていました。
時には、思いのままに丼をかっこみたい時だってあります。
でも、そういう時に、「いや、ダメだ。それじゃちゃんと味わうことができなくなる」なんて考えて自分の心身を束縛すると、かえって味がわからなくなります。
そして、そこでは「頭」が全てを管理しており、「瞑想を実践する」ということに向かって心と身体を無理やり統御しているのです。
これが「頭の中で瞑想する」という言葉で私が表現したいことです。
その人は、「一生懸命に瞑想を実践している」という意識はあるのですが、実際には、あまりに一生懸命過ぎて、「味」がわからなくなっています。
それゆえ、「在る」という感覚に入っていくこともできず、ご飯を楽しむことさえできずに、精神的にも消耗していってしまうのです。
◎「ただ遊ぶこと」の中で、「快い感覚」に耽溺する
「でも、ご飯を楽しんでいたら、瞑想の修行にならないし…」と、あなたは思うかもしれません。
しかし、それは誤解です。
むしろ、「とことん楽しむこと」の中で瞑想というのは育つのです。
上のほうでも言いましたように、夢中になって本を読む時も、徹夜で新作ゲームをプレイする時も、「時間」という観念は溶解します。
つまり、「楽しむ」ということは、「瞑想状態」への入り口として使えるのです。
このため、私は基本的に「感覚への耽溺」を推奨しています。
たとえば、ご飯を食べる時は、なるべくその時の自分が「食べたい」と感じるものを用意した上で、食事そのものを楽しみます。
その辺にある「出来合いの物」で間に合わせずに、ちょっと手間やお金がかかっても、心と身体が「食べたい」と言うものを食べるのです。
すると、自然と「味わう」ということは起こるはずです。
「瞑想をしなきゃ」という「義務感」からではなく、心と身体の中に存在する「能動的な動機」から、その人は自発的に味わうようになるでしょう。
そこでは、「もっと味わわなきゃ」ではなく、「もっと味わいたい」という意識になっているはずです。
この「味わわなきゃ」なのか、「味わいたい」なのかという違いこそが、非常に大事です。
この時、もしも「義務感」から実践していると、どうしてもその体験の中に深く入っていくことは難しくなります。
しかし、それに対して、「自発的」に取り組んでいる人というのは、自然と体験の中へ深く入っていくことができるのです。
そして、なぜ自発的になれるかと言うと、「それが自分にとって快だから」です。
そこに「快」があるからこそ、人は自分からそれをもっと楽しもうとするのです。
「修行」と言うと、「不快でも我慢してするもの」と思っている人もいますが、私に言わせてもらえば、それは真逆です。
むしろ、「修行」というのは「快」をどこまでも深めていくことです。
過去の賢者たちも、坐禅をしていると呼吸が深まって気持ち良かったからこそ、坐り続けていたはずです。
逆に、もし苦しいのに我慢して坐っていたら、その人は自分の心身と敵対することになってしまい、「全体」と一つになることができなくなります。
なので、いつも言っていることですが、「遊び」ましょう。
「ゴール」のことは忘れて、ただ楽しめばいいのです。
そこに「快」があるなら求めましょう。
そうすれば、「瞑想状態」は結果的に起こり始めます。
そして、そうした「自然な成り行き」こそが、結果的にはその人を「ゴールの向こう側」へと流し去っていくことになるのです。
◎体験の「量」ではなくて「質」を求める
ただし、もしも感覚に耽溺する場合は、「快の質」にはとことんこだわってください。
さっきも言いましたが、何かを楽しむ時は、「出来合いのもの」で間に合わせないようにしてください。
たとえば、食べることを楽しむ時は、本当に「食べたい」と感じるものを食べ、音楽を楽しむ時は、本当に「聴きたい」と感じる曲を聴き、読書を楽しむ時も、本当に「読みたい」と感じる本だけ読んでください。
逆に「何でもいいから『量』だけ摂取する」ということは避けたほうがいいです。
なぜなら、「量」だけを増やし続けると、感覚がかえって鈍麻するからです。
「量」によって「快」を得ようとしてしまうと、その人はかえって心身を損なうでしょう。
実際、人は「ジャンクフード」をひたすら胃に詰め込んで身体を壊し、「興味のない流行の曲」をひたすら聞き流しては感性を死なせてしまいます。
逆に、「体験の質」にこだわるようになれば、その人の感受性はどんどん育っていきます。
その結果、実践すればするほど、当人は「自分の心と身体が何を求めているか」をより敏感に感じ取れるようになり、「心から欲しているもの」をさらに楽しむことができるようになっていくでしょう。
そして、そのような「楽しみ」の中に自覚的に飛び込み続けることで、その人の中には「在る」という「瞑想的な感覚」が、徐々に「核」として定着していくのです。
それゆえ、日常生活の中でも、「どうすればもっと自分の心と身体は深く満足するだろうか?」とアンテナを張ってください。
たとえば、あなたの身体はどんな肌触りの服を着たがっていますか?
頭は、「こういうファッションが流行っているから」と言って「見た目」だけ気にするかもしれませんが、身体にとっては「肌触り」とか「着心地」とかのほうが大事です。
食べたいものは何なのか?
聴きたい曲はどれなのか?
そういったことを丁寧に感じようとしてみてください。
その「自分から感じようとする姿勢」が、「あなたの瞑想」を育てていきます。
そうしてあなたはやがて、「遊び」こそが「極上の瞑想」であると知るでしょう。

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