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「自分にはわかった」と思った瞬間から、その人の「堕落」は始まっていく

先月末から書き始めた、道元の現成公案げんじょうこうあんについての解説本ですが、一昨日くらいに最後まで書き終わっていました。

ただ、ここ数日で、認識が大きく書き換わったので、それに合わせて頭からリライト作業をおこないました。

前は「悟り」という「完成形」を示すような傾向が強く、どこか「答え」を提示するような感じだったのですが、今はむしろ「『本当の答え』というのはよくわからないんだよ」とあえて主張し、「答えの痕跡」を消していくように書いています。

結局のところ、「自分は『答え』を理解した」という認識こそが、「罠」なのでしょう。

実際、「『謎』が解けた」「自分は『全て』を理解した」と思った瞬間、その人の心と身体は閉じていってしまいます。

別に他人のことを言っているのではありません。

私自身のことを言っているのです。

そもそも、私は約二か月前にこのブログを開設した当初、「自分は『真理』を悟った覚者なのだ」という意識を持っていました。

確かに、私は探求の果てに「自由とは何か」を理解しましたが、それは「何らかの情報」ではなく、あくまでも「感覚的な納得」でした。

要は、「何にも束縛されていない時って、こういう身体実感が伴うんだな」と理解したわけです。

でも、私はその理解を「自分と他人を分けるもの」のように考えて、「悟った自分」と「まだ悟っていない他人」とを区別し始めました。

その結果、私自身は「覚者らしく在らねばならない」という囚われによって自分のことを束縛し始め、同時に、読者の中には「この人の語る『真理』を理解するまで、自分は決して『ゴール』することはできないのだ」という固定観念を植えつけてしまいました。

そして、約一か月前に、私は自分が知らず知らずのうちに、そうやって自分と読者を束縛していることに気づき、方向転換をすることになりました。

つまり、自分を「覚者」として位置づけることをやめ、あくまでも「ただの人」として語るようになったのです。

「覚者らしさ」というイメージをゴミ箱に放り込んで、私は自分の思ったままを語るようになりました。

そして、「自分はもう悟ったから、これ以上学ぶことはない」とは考えず、「毎日、毎瞬間、新たに悟り続ける」という生き方にシフトしたのです。

同時に、読者に語りかけるときも、「絶対に『悟り』という『ゴール』に到達しなければならない」とは語らなくなりました。

そうして代わりに、「『悟り』は既にあなたの中に在り、あなたはただそれを生きればいいだけなんだよ」と語り始めたのです。

こんな具合で、自分自身に対しても「悟り」という名の「ゴール」を消し、読者に対しても、「『ゴール』のことは忘れてただ『自分の生』を生きるんだ」と語るようになっていったわけです。

その結果として、たぶん私に対して「覚者」のイメージを持っていた硬派な人たちは離れていっただろうと思いますし、「真理の探求」について何も知らない層の人々が新たに流入してきたかもしれません。

ともあれ、一か月前にそういった「新陳代謝」が起こったのです。

しかし、この一ヶ月で、私はまたしても「同じ罠」にハマってしまいました。

「悟り」という「ゴール」は消したのですが、私は今度は「天」という概念を導入し、これに全ての「決定権」を委ねるようになってしまったのです。

まず私は、かつて探求の果てに理解した「自由の感覚」というものに、ある種の「法則性」があることに気づきました。

たとえば、心と身体が「自由」である時、そこには「深い呼吸」があり、「重心」も自然と下がって安定します。

おそらく、心と身体から「囚われ」がなくなることで、「息」や「重さ」の通りがよくなるからでしょう。

それで、自然と呼吸が深くなって重心が落ち、身体的に安定するのです。

そして、この状態になると、そこには「こころよい解放感」があります。

これは、「自我」が「こうでないといけない」「こうなったらおしまいだ」という観念を一切手放すことで、心と身体を束縛しなくなった結果、自然発生する感覚です。

つまり、当人が観念によって自分を縛っていない時、そこには「快の感覚」があるのです。

実際、「深い呼吸」、「安定した重心」、「快い解放感」という三つが揃っているならば、その時、心と身体は「自由」であり、当人は何にも束縛されていません。

それゆえ、そこに「苦しみ」が生まれる余地はなく、当人は伸び伸びと生きていくことができるのです。

ただ、このような「自由な状態」になると、一緒に「生命力の増大」も引き起こされます。

当人は前よりも活き活きするようになり、以前だったら到底不可能だったようなことを易々やすやすとおこなえるようになるのです。

「え、別になにも悪いことなくない?」と思うかもしれませんが、これはこれで「危険」なのです。

確かに、このような場合の「生命力の増大」は、単なる思い込みや自己暗示によるものではなくて、もっと深くて、安定したものです。

実際私は、「かなり筆の速いプロのライターでも一日一万文字~二万文字が限界」と言われている中で、「二か月間、一日も休まずに毎日平均一万八千文字」という「狂ったペース」で文章を書き続けていました。

しかもその間に、三週間ほどの短期間で六冊の本を出版し、今、七冊目と八冊目の執筆をしています。

一年とか二年かけて一冊の本を必死に書いている人からしたら、「意味のわからないスピード」だと思います。

でも、私はそんな自分のことを、「ゆっくり書いている人間」だと認識していました。

なぜなら、主観的には「頑張っている感覚」がまるでなかったからです。

私はいつも、インスピレーションが来るまで何も書かないことにしているのですが、もしも何かが「降りて」くると、猛然と書き続けます。

その際、私は頭の中ではほとんど何も考えていなくて、ただ自動的に浮かんでくる言葉を、消えないうちに文字にしていっているだけです。

そのため、「自力で書いている実感」が全くなく、「何か大きなものに書かされている感覚」があったのです。

そして、私はこういった「何か大きなもの」に対して、「天」という言葉を付与しました。

この「天」という言葉は、日本人にとって古くから馴染みのあるものです。

実際、今でも「天命」とか「天の配剤」とかいった言葉は使われています。

それで私は、「『深い呼吸』『安定した重心』『快い解放感』が伴っている時、人は『天』とつながって生きており、『為すべきこと』を為しているのだ」と考え始めました。

そして、「自由の感覚」に留まると「生命力」が増大するのも、「それが『天の意思』に適っているためだろう」と考えたのです。

そうして私は、「『深い呼吸』ができているなら、その人は『天の意思』を代行しており、その行為や選択は何も間違っていない」という、ある種の「運命論」を展開し始めました。

そして、これが「余計な一歩」だったんです。

確かに、「自由」を生きている時には、その人の「呼吸」は深くなり、「生命力」が増大します。

そして、それまでだったら不可能だったはずのことを、容易に成し遂げられるようになるわけです。

でも、それが一体何なのでしょうか?

たとえ「大いなる存在」とつながって、「圧倒的な創造性」を発揮できたとしても、それによって当人が「人間」でなくなるわけではありません。

私もまた、あいかわらず「ただの人」に過ぎなかったわけです。

しかし、私は心のどこかで、「自分は『天』が定めた法則に従っている『特別な存在』だ」と思い始めていました。

つまり、一か月前に乗り越えたはずの「自分を特別視する罠」に、私は再びハマってしまっていたのです。

そうして私は、自分でも気づかないうちに、「呼吸の深い自分」を「正しい存在」と考え、「呼吸の浅い人々」を「『間違った生き方』をしている存在」と考えるようになっていきました。

つまり、私は自分に「天の代行者」という役割を与えて、人々を無意識に「断罪」し出したのです。

最初は、小さな違和感でした。

でも、それは次第に大きくなり、私の心は叫び出しました。

「止まれ!」と。

しかし、私の頭は「呼吸」と「天の意思」を結び付けて「運命論」を語る「パズル」にすっかり夢中になっていました。

つまり、「自分は『真理』を理解した」「自分は『正しいこと』を語っている」と私は思い込んでしまっていたのです。

最終的に、頭よりも心が勝ちました。

私は「なんかオレ、言ってることが間違ってないか?」と感じ始め、自分の内側を改めて総点検することにしたのです。

その結果、私は自分がいつの間にか「天」という言葉に寄りかかって他人の「罪」を判定する「裁判官」になってしまっていたことを発見しました。

私は、「あーあ、またやっちまった」と思いましたが、「やっちまった」ものは仕方ありません。

なので、数日前に方向転換をしました。

私「天」という概念を利用して事象を説明することを捨てて、呼吸が浅かろうが深かろうが、それを気にしないようにしたのです。

そうして「天」を手放すことで、たとえ「天とのつながり」が切れてしまい、「湧き上がる生命力」や「圧倒的な創造性」を失うことになろうとも、「それならそれで別に構わない」と私は思いました。

むしろ私は、「『天』から切り離されて苦しむほうが、『現に呼吸が浅くなって苦しんでいる人たち』のことを、上から目線で『断罪』するよりずっとマシだ」と思ったわけです。

その結果、私は数か月ぶりに「苦しみ」をたっぷり味わうことになりました。

私はだいたい30分くらいの間、ジッとしたまま「胸の痛み」や「自己否定的な思考」を眺めていたのですが、それらはやがて消えていきました。

そうして、あとには「スッキリした感覚」だけが残っていたのです。


結局のところ、「本当の自由」というのは、「全ての答え」を手放した時にしか、生きることのできないものなのでしょう。

どんなに整合性のある理論でも、どれほど一貫性のある思想でも、それにしがみついて「正しさ」を主張し始めた瞬間、その人の世界は「正」と「誤」に分割されてしまいます。

その時、当人は「トータルな仕方」で自分の人生を生きることができなくなり、自分の手でもって「自分の生」をバラバラに分解してしまうことになります。

そこから「分離感」が生まれてくるわけですが、当人はこの「分離感」から目を逸らすために、ますます「正しい思想」や「完全無欠の理論」にしがみつき、それを「盾」として構えて閉じこもっていってしまうのです。

詩人の茨木のり子さんは、こんな詩を書いています。

初々しさが大切なの
人に対しても世の中に対しても
人を人とも思わなくなったとき
堕落が始まるのね 堕ちてゆくのを
隠そうとしても 隠せなくなった人を何人も見ました

茨木のり子、『言の葉』「汲む」、ちくま文庫

茨木さんは、Yさんという方がこのように語るのを聞いて、「どきん」としたそうです。

自分を鍛え、「強く」なり、知識や技術を身に着けて「武装」する時、その人は「初々しさ」を失います。

そしてそこから、「堕落」が始まっていくのです。

ちなみに、茨木さんはYさんの言葉を聞いた後、こんな風に思ったそうです。

大人になってもどぎまぎしたっていいんだな
ぎこちない挨拶 醜く赤くなる
失語症 なめらかでないしぐさ
子供の悪態にさえ傷ついてしまう
頼りない生牡蠣なまがきのような感受性
それらを鍛える必要は少しもなかったのだな

前掲書

「初々しさ」こそが大事なんです。

でも、私たちはそれを何か「悪いもの」であるかのように考えて、なんとかしてこれを捨てようとします。

そうして、たくさんの知識を頭に詰め込んで、多くの技術を身に着けては、その上にあぐらをかいて、「無感覚」になっていってしまいます。

年老いても咲きたての薔薇 柔らかく
外にむかってひらかれるのこそ難しい
あらゆる仕事
すべてのいい仕事の核には
震える弱いアンテナが隠されている きっと…

前掲書

何かを感じようとする時、私たちの心と身体は柔らかく開いていきます。

しかしそこには、「不条理」で「理解不能」な世界が待っています。

それゆえ、そういった「人生の途方もなさ」から目を逸らしたくなる時、私たちは「わかった気」になろうとして、自分の周りに「理論や思想の城塞」を築き上げ、自分を守ろうとするのです。

しかし、そうやって自分のアンテナを「鍛えて」しまうと、本当の意味での「いい仕事」はできません。

なぜなら、その時、当人は「城塞」の中に閉じこもることで、「固く閉じていって」しまうからです。

「自由」というのは、閉じ込めた瞬間に死んでしまいます。

それを捕まえることは誰にもできません。

私たちにできることは、それをただ「生きること」だけです。

逆に、もしも「自由」を「固定化」したり「定式化」したりした場合、その人は「生の途方もなさ」に愕然としなくて済むかもしれませんが、同時に「生きること」ができなくなってしまいます。

なぜなら、「生」というのはもともと「不可解なもの」であり、「永遠に解けない謎」だからです。

でも、別にそれでいいんじゃないでしょうか?

「わからないもの」について、わからないまま、「自由」に踊ればいいんじゃないでしょうか?

「自分には人生というものがわかった」と思った瞬間から、「堕落」は始まります。

そうして、その人は人を人とも思わなくなり、自分と他人を束縛し始めるのです。

私は「自由」でありたいし、人々にも「自由」であってほしいと願っています。

だから、「初々しさ」を大切にしましょう。

「心を鍛えて強くなろう」と思うことも、実際には「弱さの裏返し」です。

なぜなら、「現に弱い人」だけが、その「弱さ」を捨ててしまおうと考えるからです。

「弱さ」と共に生きること。

それが、柔らかく開いて生きることです。

あなたには、何も付け加える必要はありません。

あなたの中に「初々しさ」は完璧な形で埋まっています。

あとは、そこについている手垢を落とし、「無垢な状態」を取り戻してやればいいだけです。

他の誰でもない、あなただけにしかできない仕方で、「無垢」を表現すればいいだけです。

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