私はこのブログで文章を書き始めてまだ二か月ほどなのですが、それより前にも、いろいろなプラットフォームで文章を書いていた経験があります。
最初に書いていたのはアメーバブログで、その頃の私はまだ二十五歳でした。
その後も、noteで書いていた時期がありますし、自分でホームページを立ち上げて情報発信していたこともあります。
数か月にわたって書かなかった時期もありますが、私はどうしても書かないでいることができず、しばらく休んだ後には、いつも決まって新たな文章を書き始めていました。
今の私は四十一歳なので、合計で約十六年にわたって書き続けてきたことになります。
なかなかの年月です。
これだけの期間にわたって同じことを続けているということは、やはり私という人間は書くように創られているのかもしれません。
ただ、この十六年間に、私は何度も「失踪」しています。
いつもだいたい二~三年くらい書くと、突然、書くことが怖くなってしまっていたのです。
その状態になると、「自分の書いた文章が他人からどう思われているか」ということが非常に気にかかってしまい、いつも言葉が出てこなくなってしまっていました。
要は、「自意識」が働き過ぎて、思考に蓋をされてしまっていたのですね。
心が何かを感じても、「こんなことを表に出して笑われたらどうしよう…」とか、「こんなことを書いたら批判されてしまうかもしれない…」とかいったことを考えて、私はそれを表現できなくなりました。
また同時に、過去に自分が書いた文章が、「重り」のように私に覆いかぶさってきました。
たとえば、日々の生活を送っていると、ふとした瞬間に過去に自分が書いた文章が思い出されてきて、私の言動を咎めました。
「お前は以前、そういうことをしたらいけないとブログに書いていたじゃないか?」と、頭の中で声がするのです。
実際、私は過去に「こういう場合は、こうしないといけない」とか、「このようなケースでは、こうするべきである」とかいったことを書いては、「それを守らない人間は間違っている」と主張していたのです。
にもかかわらず、私は自分の言ったことに反するような言動をしている自分自身を発見してしまい、自己矛盾に苦しみました。
「かつて他人に向けた刃」が、自分自身に返ってきたわけですね。
こうして私は、書くことが怖くなるのと同時に、過去の文章からも責め立てられて、精神的に不安定になっていきました。
その結果、自分がそれまで何十時間、何百時間とかけて書き上げた文章たちを全て削除し、ブログやホームページも消して行方をくらましたのでした。
他人から責められることも、自分自身から責め立てられることも、当時の私には耐えられなかったので、徹底的に引きこもることで自己防衛を図ったわけです。
つまり、当時の私は、そうでもしないと生きていけなかったということです。
そうして、「書く➔苦しくなる➔全部消して逃げる」ということを、過去の私は繰り返していました。
でも、新たに書き始める度に、私は少しずつ「過去の失敗」から学び、徐々に「逃げるまでの時間」が伸びていきました。
「完全に逃げない」ということは、なかなかできなかったんですけどね。
それでも、過去の私はちょっとずつ成長して、「書き続ける」という在り方にしがみついていたのです。
「もう諦めればいいのに」と、時には思いもしたのですが、なぜか私は「書くこと」をやめられませんでした。
ほとんど誰にも評価されず、自分自身でも自分の文章を信じられなかったのですが、何年も何年もかけて、何百時間、何千時間と書き続け、私は前に進んできました。
だからだと思うのですが、私にとっては「他人に評価されること」より、「自分自身に負けないこと」のほうが、大事なんです。
「他人に評価されるかどうか?」という軸で私は自分のことをあんまり評価してなくて、むしろ、「自分の弱さに負けてないか?」という軸で、私は自分を評価するようになっています。
昔はもっと「他人に自分のことを認めさせてやる!」と息巻いていたのですが、どこかの段階で、「そういう風に他人からの評価に固執するのも、自分のことを信じられないからなのかもな」と思うようになりました。
実際、もしも私が自分自身を信じてやることができるなら、他人が私をどう思おうが、関係ないはずです。
それなのに、他人に自分を認めさせなければ気が済まないとするならば、それは「自信の無さの裏返し」であり、「他人に寄りかかろうとすること」であるように思いました。
そして、いつからか、「そういうことをしなくても平気なくらい、強くなろう」と思うようになっていったのです。
とはいえ、今の私が「強い」のかどうかはよくわかりません。
ただ、「他人の評価」はほとんど気にしなくなりました。
もちろん、アクセス解析とかを見て、訪れるユーザーが増えているのを確認すると「おぉ、たくさん見てくれてるじゃん!」と思って、嬉しくなったりしますけど、たとえユーザー数が減っていても、「まぁ、そういう時もあるわいな」と思ってスルーしています。
むしろ、そういう時は、「ユーザー数が減っていることに動じなくなった自分」に対して、ハナマルをあげたいところです。
「昔はこういうことでいつも辛くなっていたもんな」と思い出しつつ、過去の自分にも「よく頑張ったな」と言ってやりたいと思います。
ただ、私は別に「成長すること」に意味があるとも思っていません。
なぜなら、「どこまでも果てしなく成長すること」を価値だと考えてしまうと、私はなんだか息が詰まってしまうからです。
「成長しなければならない」ではなく、「自分はどうしても成長したい」と思う時にこそ、人は深い息とともに成長していきます。
逆に、「自己成長」が義務になってしまうなら、それは当人にとって「重荷」となり、その人の息を浅くしてしまうことでしょう。
私たちはただ、瞬間瞬間を深く生きればいいのだと思います。
好きな音楽を聴いて、美味しいご飯をお腹いっぱい食べて、くだらないコントや漫画でゲラゲラ笑って、心地よい疲れとともに眠りにつく。
その中に、「呼吸を浅くするもの」は存在しません。
逆に、もしも「苦しみ」の中にあって、「深い息」ができなかったとしても、その人はその「苦しみ」を生きています。
「自分の苦しみ」を、現に深く生きているのです。
そこにおいては、「深く呼吸しなければならない」という考えさえも、「当人を縛る呪い」に成り得ます。
大事なことは、「どんな時も深く呼吸すること」ではなく、「浅い呼吸」の中に在っても、その人が現に生きているということそれ自体です。
しかし、私たちは様々な「呪い」を抱えて生きています。
「生産的でなければならない」
「成長し続けなければならない」
「常に貢献しなければならない」
「いつも深く息し続けなければならない」
これらは全て「呪い」です。
こういった「呪い」を他人に投げかけると、それはいつか自分自身に返ってきて、自分の首を絞めることになります。
そして、私たちは知らず知らずこうした「呪い」をお互いに投げかけ合って、「苦しみ」を助長してしまいます。
それゆえ人は、学校や職場で成績が芳しくないと自分を責め、学校や仕事に行っていないと「自分には価値がない」と感じ、「自己成長を続ける人」を見ては「それに比べて自分は…」と落ち込んでしまいます。
そういった考えを持つは「呪い」の結果です。
でも、多くの人は、こういった「呪い」をあたかも「絶対的な真理」のように考えています。
「人は生産的でなければならない」と思い込み、「貢献し続けなければ生きている価値がない」と信じ、「自己成長できない人間は欠陥品だ」と考えています。
「世の中の誰もがそう考えているし、自分もそう考えるべきなんだ」と思っているのです。
でも、少なくとも、私はそうは思いません。
生産的である必要はないし、貢献しなくても構わないし、「常に成長し続ける」という在り方のほうが、むしろどこかおかしいと思います。
私たちは生産や貢献のために作られた「ロボット」ではありませんし、時には成長のことなんて考えないでボケーっとするのも肩の力が抜けてよいものです。
あなたの心は、今、何をしたがっていますか?
それは、「自分の好きな動物と触れ合うこと」かもしれませんし、「趣味に没頭すること」かもしれません。
お腹の空いている人は、「食べたいもの」が浮かんで来るかもしれませんし、何もかも放り出してグースカ寝たいかもしれません。
もしも「心の声」が聞こえたら、「世間の人々が言うこと」なんか忘れて、心のままに、それをしてみましょう。
他の誰でもない、あなた自身の心が望む仕方で、それを楽しんでみてください。
また、もし何か事情があって、どうしても「したいこと」ができない状況ならば、せめて呼吸を味わってみてください。
「深く呼吸をしよう」と考えなくてもいいんです。
深くても浅くても、ただ、今ここで起こっている呼吸に静かに寄り添ってみてください。
「自分は生きている」ということを、深く感じられるように。
かつて、文章を通して人を呪った「過去の私」も、生きていました。
「こうでなければ意味がない」
「こう生きなければ間違っている」
そうやって、他人を呪い、自分を苦しめ、私は這いつくばって生きていました。
今はただ、そういう過去の自分自身を、呪わないでいてあげたいです。

コメント