当ブログの文章と筆者の著作物は全て著作権フリーですので、どうぞご自由にお使いください。

実践の方法論

ブログ記事

「至福」と「エクスタシー」の違いは何か?「エクスタシー」という名の「悟りの一瞥」について

世の中では、「薬物を使用することによって、『悟り』と同じ精神状態を作り出すことができる」と言われることがあります。私自身はドラッグなどを使った経験はありませんが、「強烈な歓喜」のような激しい感情を味わうことで、一時的に解放感を感じることがで...
ブログ記事

「倫理的」とはどういうことか?哲学者と探求者それぞれの「倫理」に関する向き合い方

かつて、池田晶子さんという哲学者がいました。もう亡くなられてしまったのですが、彼女は「哲学エッセイ」というジャンルを作った草分け的存在と言われています。そんな池田さんは、ある著書の中で「道徳」と「倫理」という言葉について、自分の中で明確に使...
ブログ記事

いつになったら「悟った」と判断していいのか?探求の過程で陥りがちなピット・フォール五選

前回の記事で、「覚者というのは独善的なのか?」ということについて論じました。覚者は「独善的な人間」なのか?「歪められた自己認知」と「徹底した自己観察」を対比する論考覚者は誰か他人から「悟り」を承認してもらうわけではなく、自分自身で「悟った」...
ブログ記事

覚者は「独善的な人間」なのか?「歪められた自己認知」と「徹底した自己観察」を対比する論考

前回と前々回で、「覚者とはいったいどんな人間なのか?」ということを書いてきました。「覚者」を見分ける二つの基準|「雄弁な無知者」と「口ごもる知者」のパラドクス悟ることができるのは「傑出した人物」だけなのか?探求とは「究極の平凡さ」へ向かう旅...
ブログ記事

「覚者」を見分ける二つの基準|「雄弁な無知者」と「口ごもる知者」のパラドクス

「真理」を悟るということを、「賢くなること」だと思っている人はいませんか?つまり、「『真理』を悟ると、常人には計り知れない叡智をその身に宿すようになるに違いない」とイメージするわけです。でも、本当のところはどうなんでしょうか?実のところ、「...
ブログ記事

人々が探している「自分」とは何か?「自分探し」と「自己理解」が、真理の探求とすれ違う時

「自分探し」という言葉が、一昔前に流行りました。いえ、もう二昔くらい前の話かもしれませんね。いずれにせよ、かなり多くの若者たちが、「自分」というものを探していたわけです。しかしそれは、探求者が「自己(セルフ)」について探求するのと、何か違っ...
ブログ記事

「怒り」は探求のための燃料になる|「怒り」を罪悪視せず、「自己理解の力」へと変える方法論

「この怒りっぽい性格をなんとかしたい」そんな風に思っている人はいませんか?いつもなんとなくイライラしていて、他人のちょっとした言動につい腹が立ってしまう。それで、時には相手にきつく当たってしまうこともあり、後で一人で自己嫌悪に陥る…。「怒り...
ブログ記事

「真理」を理解するのに努力は必要なのか?努力が意味を持つ人と、努力が障害になってしまう人

あなたは、努力することに意味を感じる人ですか?それとも、「努力しよう」という意志やモチベーションがあまり湧かない人でしょうか?今回の記事では、「真理を理解するのに技法の実践は必要なのか?」ということを考えたいと思います。かく言う私自身は、合...
ブログ記事

感覚の深化は身体との同化を強めるのか?|「生きている実感」こそが「本当の理解」をもたらす

最近、「身体的な感受性」を育てる技法について、いくつか記事を書きました。【自分の呼吸を感じられない人へ】感覚を深め、感情を解放する二つのステップ「身体的な快楽」に依存しないために|「目」を通じて内側へと潜る「内観法」これらの記事中で私は、身...
ブログ記事

【注意喚起・再び】「技法の森」の中で迷子にならないために|技法はしょせん「道具」と心得る

◎「ある教え」と「別の教え」の間で引き裂かれた経験連載記事以外の単発記事もいくらか数がそろってきたので、そろそろ注意喚起も兼ねて記事を書いておこうと思います。連載記事の中でも一度書きましたが、私の記事はあんまりたくさん読み過ぎないほうがよい...