【第6回】「純粋な喜び」に留まる際のジレンマ|「執着」と「自由」の選択について

前回の記事で私は、「純粋な喜び」に至るための具体的な方法について書きました。

【第5回】「苦しみ」を味わうための具体的な方法について

その方法とは、「苦しみを味わうこと」であり、ポイントは三つありました。

1,「苦しみ」について思考しないこと。
2,「苦しみの感覚」に意識を向けること。
3,日常の「小さな苦しみ」から始めること。

この三つです。

これらのポイントをしっかりおさえながら実践を続けていくことで、当人の中に蓄積していた「古い感情の層」は取り除かれ、最終的に一番奥に在った「純粋な喜び」に至りつくことができるのです。

では、実際に「純粋な喜び」に到達できると、その人にはどんな変化が起こるのでしょうか?

今回はそれについて書いていってみたいと思います。

なお、先に断っておこうと思いますが、あなたの期待はたぶん外れます。

では、いってみましょう。

◎「純粋な喜び」は決して「強烈な快感」ではない

実践を続けていくことで「純粋な喜び」に初めて至りつくことができると、当人は「どこか懐かしい感覚」がしてきます。

それは、「初めて発見したもの」であるはずなのに、「既に知っていたもの」であるように当人には感じられるのです。

おそらく、私たちはみんな、生まれた時にはこの「純粋な喜び」に留まっていたのだと思います。

そして、そこから数年して「自我」が芽生え始めた時も、おそらくほとんどの子どもたちはまだこの「純粋な喜び」に留まっていたはずです。

しかし、遅かれ早かれ、子どもたちは「純粋な喜び」を失い始めます。

なぜなら、この世には「純粋な喜び」よりもっと心地よい感情が溢れていることを、子どもたちは自身の経験から学習していくからです。

これまで私の書いた記事を読んできた人の中には、私の言う「純粋な喜び」というものについて、「きっとそれは恍惚とするような素晴らしい感覚なのだろう」と想像している人がいるかもしれません。

むしろ、そういった人のほうが多いのではないかとさえ思います。

ですが、「純粋な喜び」というのは、決してそのような「強烈な快感」ではありません。

それは、私自身の感覚で言うと、「全くの無感覚」を0とし、「恍惚とするようなエクスタシー」を10とした、10段階評価で表した場合、だいたい「3~3.5」くらいの強さです。

「無感覚」ではもちろんないですが、決して「強い快感」でもありません。

それはなんとなく胸のあたりに感じられ、「穏やかな心地よさ」と「清々しい解放感」として感じられます。

と、こう書くと、「なんだかそんなに気持ちよくなさそう…」と感じる人もいるかもしれません。

そうです。

「純粋な喜び」というのはあくまで「途切れることのない微弱な心地よさ」のようなものであって、人生には「もっと面白いこと」がたくさん存在しています。

たとえば、「純粋な喜び」は「とても美味しい料理を食べる喜び」だとか、「大好きな映画を見まくる楽しさ」とかには勝てません。

それゆえ、「人生を精いっぱい楽しみたい!」と思っている人は、「純粋な喜び」を感じたとしても、そこに大した価値を見出さないのではないかと思います。

◎「執着」が「感情の層」を生むメカニズム

そして、だからこそ、ほとんど全ての子どもたちが、「純粋な喜び」を失っていってしまうことにもなります。

たとえば、ある子どもが、5歳か6歳くらいの年になった時、ボール遊びが好きになったとしてみます。

ボールで遊んでいると、その子は楽しくて仕方ありません。

その時に当人が感じる「楽しさ」は、「純粋な喜び」よりも強いように感じられるはずです(なんと言っても「純粋な喜び」は3~3.5の強さしかないので)。

このため、その子は「純粋な喜び」に何もせず留まっているよりは、「ボール遊びをすること」を選ぶようになっていきます。

ですが、これが「執着」の始まりとなります。

なぜなら、その子はもう「ボール遊び」でなければ満足できなくなってしまうからです。

かつてはたとえ何もしなくても、「純粋な喜び」を感じて満足することができていました。

でも、一度「ボール遊びの楽しさ」を知ってしまうと、その子は「ボール遊び」に「執着」せずにはいられません。

たとえば、もしも天気が悪くていつもボール遊びをしている公園に行くことができなくなると、その子は「苦しみ」を感じ始めます。

なぜなら、天気が悪いせいで、「ボール遊びの楽しさ」が得られないからです。

その子の中では「ボール遊びをする」という行為と、「楽しさを感じる」という感情が、原因と結果という関係で結びついています。

それゆえ、原因(ボール遊びをする)がなければ、当然、結果(楽しさを感じる)もないわけです。

その子はもう「他の何か」では満足できません。

「あの楽しさをもう一度味わいたい!」という想いによって囚われてしまっています。

その結果、その子の中には「ボール遊びができなかった苦しみ」が、「未解決の感情」として残り続けます。

そして、そうした「未解決の感情」は、繰り返し蓄積することで「感情の層」となって積み重なっていき、当人の「純粋な喜び」を覆い隠してしまうのです。

◎「執着」をするのは人間にとって自然なこと

このように、人が何かに「執着」すると、それはやがてどこかの段階で「苦しみ」を生み出すことになり、その「苦しみ」が、当人の中に「感情の層」を作り出します。

だからこそ、大人になってからもう一度「純粋な喜び」に戻っていく時には、「未解決の感情」を全て味わって溶かし去り、積み重なっていた「感情の層」を取り除く必要がありました。

そうすることで、当人は「かつて自分が留まっていた場所」に帰っていくことができたわけです。

このため、前回私が書いた方法を実践し、「純粋な喜び」に至りついた人は、「あ、この感覚、なんだか覚えがあるぞ」という風に思うはずです。

実際、全ての人がかつてはそれを感じていたことがあるはずです。

でも、多くのことに「執着」し、自分で自分を束縛し続けていたために、見えなくなっていただけなのです。

そしてこの問題は、大人になってから改めて「純粋な喜び」に戻ってくることのできた人にも、ついて回ります。

つまり、もし仮に「純粋な喜び」に戻ってくることができたとしても、当人がまた何かに対して強く「執着」をしたりすると、再び「感情の層」が積み重なって、「純粋な喜び」は覆い隠されてしまうのです。

実際私も、「純粋な喜び」に初めて戻ってきた時は、最初の数日間こそ良かったものの、だんだん退屈してきました。

なぜならそれは、10段階評価で言うと、あくまで「3~3.5」くらいの感覚だったからです。

私は「もっと強い刺激」を求めるようになり、「あれをやってみたい」「もっとこれが欲しい」とジタバタし始めました。

すると、あんなに簡単に留まることができた「純粋な喜び」はどこかに消えていってしまい、私はまた「苦しみ」と直面することになったのです。

たとえば、「美味しい料理を食べる喜び」に対して「執着」すると、当人は「また同じものを食べたい」と考えるようになります。

でも、そのためには高級なレストランで高い料金を払わねばならないかもしれず、もし払うお金がない場合、当人は「苦しみ」を感じることになります。

あるいは逆に「もっともっと美味しい料理を食べたい」と考え、次から次に高級レストランを渡り歩くことになってしまうかもしれません。

これが「執着の構造」です。

当人はある特定の「行為」とその結果としての「感情」に因果関係を見出しており、「自分にとって望ましい感情」を得るために、「行為」を手放せなくなってしまいます。

それゆえ、当人は自分で自分のことを束縛し始めてしまい、解放感を感じられません。

言い換えれば、「常にどこか不自由な状態」に縛り付けられてしまうと表現してもいいでしょう。

そして、こうした「執着の構造」それ自体をはっきりと自分で見抜かない限り、当人は自分で無自覚に「束縛」を増やし続けます。

それが、ほとんどの人にとっての人生と言ってもいいと思います。

なぜなら、「執着すること」それ自体は、人間にとって「とても自然なこと」だからです。

◎「執着し続ける生き方」と「純粋な喜びに留まる生き方」のメリットとデメリット

私たちが生まれて生きていく中で、何か「執着」してしまうのは「自然な成り行き」です。

このため、もしも「純粋な喜び」に留まろうと思ったら、この「自然な成り行き」にあえて逆らわねばなりません。

つまり、「3~3.5」の感覚よりも「もっと強い刺激」を求めたくなるのは人として当然なのですが、そこでわざわざ「純粋な喜び」に留まることを自分自身で選ぶわけです。

これは、「純粋な喜び」に初めて戻ってきたばかりの頃には、たぶん難しいでしょう。

なぜなら、どうしたって「もっと強い刺激」が欲しくなってしまうからです。

ですが、よくよく自身のやっていることを観察するなら、当人はやがて理解するようになります。

選択肢は二つしかありません。

これからも生きている限り「執着」することを繰り返し、「苦しみ」を再生産し続けるのか、あるいは、「執着」を手放して「純粋な喜び」を優先するのか、二つに一つです。

どちらの選択肢にもメリットとデメリットがあります。

まず、「執着し続ける人生」を選んだ場合、少なくとも当人は自分の退屈を誤魔化し続けることができます。

人生の中で経験する「楽しいこと」や「面白いこと」を増やし続け、それらで「自分の満たされなさ」をある程度までは埋めることが可能です。

しかし、同時にデメリットもあります。

それは、もしも「執着したもの」が得られないと、必ず「苦しみ」が発生することになるということです。

これまでにも何度か書いてきましたように、それ自体で何の原因も持たない「純粋な喜び」と違って、他の全ての感情には原因が必要です。

「行為(原因)」と「望ましい感情(結果)」の間には因果関係があり、せっかく頑張って「行為」をしても、「望ましい感情」が得られないと「苦しみ」は避けることができません。

そして、もしこの「苦しみ」と直面することを避けようとするなら、「望ましい感情」をもたらしてくれる「行為」をどこまでも追求し続けるしかなくなります。

たとえば、ある人は最初のうち年収300万を稼ぐことで満足していても、やがてはそれに満足できなくなるかもしれません。

人によっては、年収1億を達成できても満足できず、今度はお金以外の物を求め始める可能性もあります。

このように、「執着」というのは手放さないとどこまでも大きくなっていきます。

そして、この「執着」を手放すための方法こそ、「苦しみを飽きるまで味わうこと」だったのです。

自身の抱える「苦しみ」を飽きるまで味わい続けると、当人は自分のしていることの「バカバカしさ」がはっきり理解できるようになります。

実際、「執着」して求めるからこそ、「苦しみ」は生まれます。

そういう意味で、「苦しみの創造主」は私たち自身です。

私たちは、「執着」することによって自分で自分を束縛し、「苦しみ」を再生産し続けているのです。

それに対して、この「終わりない苦しみの再生産」から降りるのが、「純粋な喜び」のほうを選ぶ道です。

こちらのメリットは、はっきりしています。

もしも「純粋な喜び」に留まることを選ぶなら、当人は次第に何かに「執着」することが減っていくでしょう。

なぜなら、そんなことをすると、「純粋な喜び」が再び見えなくなってしまうということが、当人には徐々にわかってくるためです。

そして、もし「純粋な喜び」に留まることを優先するなら、自分自身を満たすのに何の代価も払う必要がなくなります。

なぜなら、「純粋な喜び」はそれを感じるために、いかなる「原因」も必要としないからです。

そもそも、「純粋な喜び」以外の全ての感情が「執着」に繋がるのは、それらの感情に「原因」が必要だからです。

たとえば、「ボール遊びが好きな子」は、自分にとって望ましい感情である「楽しさ」を感じるために、「ボール遊びをする」という「原因」を必要とします。

だからこそ、「ボール遊び(原因)」ができないと「苦しみ(結果)」を感じることにもなるわけです。

それに対して、「純粋な喜び」を優先する生き方を選ぶなら、「原因のない喜び」を感じ続けることができます。

それを感じるために、特に何かをする必要はありません。

いかなるコストを払う必要もなく、何の努力も要りません。

ただ、「自分自身」に留まっていればいいだけです。

ですから、「執着し続ける人生」を選ぶのか、「純粋な喜びに留まる人生」を選ぶのかは、人によります。

おそらく、自分で自分を欺くことが上手い人は、「前者の人生」をかなり長い間にわたって続けることができます。

反対に、自分で自分を欺くことが苦手な人(言い換えると、自己理解力が高い人)は、遅かれ早かれ「後者の生き方」を選ぶことになるのではないかと思います。

なぜなら、自己理解力の高い人は、「今まで自分のやってきたことの全ては、結局同じことの繰り返しに過ぎなかった」ということが、直観的に理解できてしまうからです。

◎私にとって「純粋な喜び」は「不変の本質」

私自身は、何度か「純粋な喜び」を見失った後、最終的に諦めて「後者の生き方」、つまり、「純粋な喜びに留まる生き方」を選びました。

なぜなら、「自分がしてきたこと」の全てに、その時の私は既にうんざりしていたからです。

それまでの人生で、私は自分自身では「もっと幸せになりたい」と思って努力してきたはずなのに、努力すればするほど、かえって「虚しさ」ばかり募ってしまいました。

「求めるもの」はいつも得られるとは限らず、仮に得られたとしても、どうせそのうち飽きてしまいます。

そこには「求める➔得られない➔苦しみ」か、「求める➔得る➔飽きる➔退屈」という、たった二つのパターンしかありませんでした。

このことに気づいた時、私は「執着を続ける人生」から自分の意志で降りました。

「これ以上同じことを続けていても、自分はきっと幸せにはなれない」と思ったからです。

その結果、「純粋な喜び」に留まることは、徐々に容易になっていきました。

今では、「純粋な喜び」を見失うことはほとんどありません。

もちろん、生きていれば、私にもなにかしらの感情は発生し続けます。

もしも強い感情が発生すれば、それに覆われて「純粋な喜び」が感じられなくなることもあります。

ですが、そういう時も私は、その感情を深く味わうことによって溶かし去り、すぐに再び「純粋な喜び」に戻っていくことができるようになりました。

今では、起きている間の90~95%くらいは、「純粋な喜び」に留まっていられます。

私はそれを感じるために何の代価を支払う必要もなく、またそれだけ感じ続けても、「純粋な喜び」に飽きることはありません。

それはもはや私にとって「不変のもの」であり、「自分の存在の本質」そのものでもあるのです。

◎終わりに

ということで、今回は、実際に「純粋な喜び」に到達した人の身に、いったい何が起こるのかについて書いてみました。

「純粋な喜び」のことを、何か「超越的なすごい感覚」のように想像していた人は、がっかりしたかもしれません。

ですが、事実ですので、仕方がありません。

もちろん、「純粋な喜び」は「代価を必要としない」「飽きることがない」という二つの大きなメリットがあるわけですが、「執着し続ける人生がもたらす興奮」のほうが好きな人は、たとえこれらのメリットを知っても、そこに魅力を感じないと思います。

逆に、自分の人生が虚しくて仕方ない人ですとか、同じことの繰り返しにうんざりしてしまった人にとっては、「純粋な喜び」は唯一の救いとなるかもしれません。


これでひとまず、「純粋な喜び」についての解説はいったん終わります。

次回からは視点を変えまして、「意識」について話していこうと思います。

「意識」というのは、私たちにとって「真の自己」であり、それに定まることは大きな意味を持ちます。

そして、これまで述べてきた「純粋な喜び」に至る道は、この「意識」に関する理解なくして完成しません。

というのも、「意識を悟るための道」と、「純粋な喜びに留まるための道」は、お互いに支え合っており、どちらが欠けても不完全なものとなってしまうからです。

ということで、次回から「意識」について見ていくことで、「二つの道」を結び合わせたいと思っています。

では、また次回。

【追記】
この記事を書いた後に、補足してお伝えしておいた方がよいことを思い出しました。

ですので、次回はまだ「意識」についての話には入らず、「第6.5回」と銘打って、「純粋な喜び」についての補講とします。

⇓⇓次回の記事です⇓⇓

【第6.5回】「純粋な喜び」に執着する必要はないことについての解説