思考における「三つの層」|瞑想をすると、本当に考えることができなくなるのか?

瞑想の実践を始めたばかりの頃には、「瞑想をすると思考が無くなると言うけど、本当だろうか?」と疑問に思う人がいるかもしれません。

もちろん、それは本当のことです。

でも、私がそのように答えると、「じゃあ、瞑想をするとものを考えることができなくなってしまうということ?」と不安になる人もいるでしょう。

今回の記事では、「瞑想を続けていくと、本当にものを考えることができなくなるのか?」ということについて書いてみたいと思います。

果たして、瞑想の実践は「思考力」を奪うのか?
それとも、瞑想の実践によって「思考力」はむしろ磨かれるのか?

少し深掘りして考えてみましょう。

◎思考における「三つの層」とは?

先に結論を書いておきます。

瞑想を実践しても、「思考力」がなくなることはありません。

むしろ、より明晰な思考が可能になると言ってもいいと思います。

でも、それはいったいどうしてでしょう?

これについては、そもそも「考える」ということがどういうことなのかを、わかっている必要があります。

私たちがものを考える時、実のところそこには「三つの層」があります。

それは「マインドの層」「自我の層」「知性の層」の三つです。

以下、一つずつ説明してみましょう。

◎【マインドの層】無秩序な思考と感情に翻弄される

まず最も表層にある「マインドの層」から説明します。

「マインド」というのは何かというと、要するに私たち自身の「心」のことです。

たとえば、私たちは日常的に様々なことを考えています。

道を歩いていて、たまたまケーキ屋さんのショーウインドウが目に入ると、当人の中には最近食べた誕生日ケーキの記憶が蘇ってくるかもしれません。

そしてそこから、誕生日パーティーで知人に言われたショッキングな一言を思い出し、再び動揺したりもします。

このように、私たちの「マインド」は外界から入ってくる刺激に対して、内側で様々な反応を起こします。

それらの反応は全て自動的に生起する性質を持っており、それゆえに当人にはコントロールできないものでもあります。

実際、「こんなこと、もう考えたくないのに!」と思っているのに、ついつい「過去の嫌な思い出」や「未来の不安なビジョン」について、グルグルと考え続けてしまうことはもはや「あるある」なんじゃないかと思います。

それゆえ、「マインド(心)」は信頼できないものだと感じている人も多いです。

たとえば、昨日までは「こうだ」と思っていても、今日にはそれが簡単にひっくり返ってしまったります。

このように、「マインド(心)」は多くの自己矛盾を抱えており、あっちこっちに跳び回るのです。

それゆえ、「マインド」には実体のようなものはありません。

それはいわば、「思考と感情の束」みたいなものです。

様々な思考と感情が行き交っている「スクランブル交差点」みたいなものをイメージしてもらうといいかもしれません。

そこには無数の通行人(思考や感情)が行き交っていますが、彼らに統一感はありません。

あちらこちらですれ違い、それぞれに別々の方向を目指しています。

それゆえ、この「マインドの層」において思考しようとすると、それは「まとまり」を欠いたものになりやすいです。

言っていることがチグハグだったり、その場の気分や思い付きで言うことがコロコロ変わってしまったりします。

そして、基本的に、瞑想の修行を始める前の段階にいる人は、この「マインドの層」で思考しているものです。

この段階にいる間、当人は日常的に様々な思考によって取り巻かれており、統一感を持って冷静に考えるということがうまくできません。

だからこそ、瞑想法を実践する際には、何度も無自覚な思考に巻き込まれて我を失うことになるのです。

しかし、瞑想の実践を続けていくと、次第にこうした無自覚な思考に巻き込まれにくくなっていきます。

さらに実践を続けていけば、どこかの段階で「思考が一切ない状態」に達するはずです。

さっきの「スクランブル交差点」の例で言えば、道路に「通行人(思考や感情)」が一人もいなくなった状態ですね。

でも、そうして「通行人」がいなくなった後も、まだ居残っている人がいます。

それが「自我」です。

ここから、思考は次の階層である「自我の層」に入っていくことになります。

◎【自我の層】「これこそが『私の考え』なのだ」という感覚

そもそも、「スクランブル交差点」からどうして「通行人」がいなくなったのかと言うと、「交通整理する人」がいたからです。

「あなたはこっちに行きなさい、あなたはそっちへ帰りなさい」と言って、「スクランブル交差点」から思考や感情を追い出した張本人がいるのです。

この「交通整理人」こそが、「自我」そのものです。

「自我」は瞑想の実践の中で、思考や感情を閉め出していきます。

たとえば、「自我」は呼吸に集中することで思考や感情を追い出します。

当人の中には「呼吸への集中」しかなくなり、思考や感情が湧いてくる余地がなくなっていきます。

そして、このような「呼吸への集中」こそが、「自我」の仕事とするところなのです。

【第9回】「瞑想」の第一段階《理論編》|なぜいったん「自我」を強化するのか?

【第9.5回】「瞑想」の第一段階《実践編》|「無思考の味わい」を知るための呼吸瞑想

そうして「自我」が思考や感情を閉め出すことで、「スクランブル交差点」は空っぽになります。

これは「マインド(心)」が静まっている状態です。

この状態に至ると、当人は自分の中のバラバラな思考によって混乱することなく、自覚的に考えを組み立てられるようになっていきます。

そこには「マインドの層」における思考の際にあったような、「コントロールできない」という感覚はありません。

むしろ、「自我」によって自分の思考を明確にコントロールしている感覚が強く出てくるでしょう。

おそらく、世の中の思想家とかコメンテーターといった人々は、基本的にこの「自我の層」で思考しているのではないかと思います。

なぜなら彼らは、「マインド」に現れる無秩序な思考に混乱させられることなく、「自分の意見」を主張することができるからです。

「自我の層」における思考の最大の特徴は、「これが自分の考えである」という感覚が極めて強くなることです。

実際、当人は「マインドの層」で思考していた時と違って、無秩序な思考によって振り回されることがなくなるため、「自分は主体的に自分の思考をコントロールできている」という風に感じているものです。

そのため、そうして考えて出た結論を、「これは自分の考えである」と当人は感じやすいのです。

彼らはだいたい何に対しても明確な「一家言」を持っています。

彼らは無秩序な「マインド」によって思考がブレることが少ないので、そこにはある種の一貫性と説得力がある場合も多いです。

そういった人たちは「自分の主張」「自分の意見」というものを強く持っていて、それと自分自身とを同一視してもいます。

つまり、「自分の考え」と「自分自身」とが、当人の中では一体化しているわけです。

それゆえ、「自分の意見」を肯定されると喜ぶし、否定されると憤慨します。

彼らは「これこそが自分自身の思考だ」という風に絶えず「クレジット」を打っているがゆえに、それらの思考へ「執着」してしまいやすいわけです。

このように、瞑想の実践を続けていくと、まず「マインドの層」が静かになります。

「スクランブル交差点」からは「通行人」がいなくなり、「自我」が一人で残されます。

それはいわば「自我の一人天下」です。

反論する人は内側にいませんし、あたかも思考を自分が征服したかのように「自我」は感じ始めます。

「この交差点はオレのものだ」というわけですね。

でも、もはや「通行人(思考や感情)」がいなくなっているのであれば、「交通整理人」である「自我」も必要ないのではないでしょうか?

実際、本当に明晰に思考するためには、「自我」は消えている必要があります。

「通行人」だけでなく、「交通整理人」である「自我」さえもがいなくなった時、そこには「無人の交差点」だけが残ります。

これが最後の階層である「知性の層」です。

◎【知性の層】「考え」は天からの贈り物である

瞑想の実践がさらに進んでいくと、「自我」がちょくちょく沈黙するようになっていきます。

そして、そうした「沈黙」の中で突然、「『自我』は『自分』ではない」という気づきが起こります。

【第11回】「瞑想」の第三段階《理論と実践》|「自分は観察者だ」という錯覚に気づく方法

【第12回】「瞑想」の第四段階《理論と実践》|「自我」は「虚構」に過ぎないと理解する

この気づきが起こると、「自我」と「自分」を同一視することはなくなっていきます。

「自分の人格」とか、「自分の個性」とかいったものは、「本当の自分」とは関係がなかったのだということが理解されるようになっていくのです。

すると、思考に関しても変化が起こり始めます。

それまでは、「これが自分の思考だ」と言って「執着」していたところから、「自分の」という部分が取れて、「純粋な思考そのもの」が働くようになっていくのです。

それまでは、常に「自我」が思考をコントロールしていました。

それゆえ、自分にとって好ましい思考だけが通行を許されて、自分にとって都合の悪い思考は「交差点」に入ることができませんでした。

実際、「自我の層」において思考する人の考えというのは、しばしば恣意的に歪曲されていることがあります。

彼らは、自分にとって都合のいいことだけ強調し、自分にとって都合の悪い部分については無視して語らないのです。

ですが、瞑想によって「自我」との一体化が打破されると、「自我の都合」を気にする必要がなくなります。

「自我」にとって好ましい思考を優遇する必要がなくなり、「自我」を傷つけるような思考を抑え込む必要もなくなります。

そのため、「知性の層」で思考する人は、プライドを守るために他人を論破しようとしなくなりますし、自分に非があることが分かれば進んで認めるようになるのです。

このような状態に至ると、思考が「自我」によって歪曲されることがなくなります。

結果、物事を歪めることなく、ありのままに認知するような思考が可能になります。

ちなみに、古典的なヨーガの哲学では、このような「知性」のことを「ブッディ」と呼んでいます。

それは、事実をありのままに映し出す「鏡」です。

この「鏡」は、前を通るものをそのままの姿で映し出します。

それゆえ、この「知性(ブッディ)の層」まで到達した人は、「個人的な意見」という枠を超えて「普遍的な真実」について語ることがあります。

実際、歴史上の賢者や偉大な科学者たちというのは、みんなこの「知性(ブッディ)の層」で思考していたのではないかと、私自身は思っています。

なぜなら、そういった人々は、「自分の意見」という領域に留まらず、もっと広くて深い領域まで「真実」を見通すことができたはずだからです。

この段階に到達すると、「私が考えている」という感覚は消失していきます。

「私」という主体が考えをコントロールしているわけではなく、「非人称的な知性」が半自動的に思考を湧き上がらせてくるようになります。

当人の主観としては、「考えが降りてくる」という表現が感覚的に近いです。

「自分が考えている」というよりも「考えそのものが考えている」と言ったほうが、実感には即しているでしょう。

それゆえ、だいたいこの「知性(ブッディ)の層」で思考する人というのは、謙虚であることが多いです。

なぜなら、「私が自分でこれを考えたのだ」という風には、彼らは思っていないからです。

実際、往々にして彼らは「自分に浮かんだ考え」に固執しません。

彼らは他人を「同じ考え」に従わせようとしませんし、「浮かんできた考え」を利用して利益を独占しようともしません。

むしろ、「なぜか自分に降りてきた考え」を他人に向かって公開し、人々に価値を提供しようとします。

なぜなら、彼らは時として「『天』や『神』から『深遠な智慧』を贈与された」と、主観的には感じていることがあるからです。

「知性(ブッディ)の層」で思考する人が一般に謙虚であるのは、このためでもあります。

「自分に湧いてきた考え」について自分に所有権があると、彼らはそもそも思っていないのです。

◎【まとめ】「マインド」と「自我」を通り抜けよ!

以上が、瞑想の実践における「三つの思考の層」です。

多くの人が最初にいるのは「マインド(心)の層」にあたります。

この階層に留まっている限り、当人は常に無秩序な思考や感情の波に翻弄されてしまうため、自分の考えを自分でも信じることができません。

ですが、瞑想の実践を続けていくと、どこかのタイミングで思考や感情が静まります。

その時、大いに仕事をするのが「自我」です。

思考や感情は静まって、当人は自覚的に「自分の思考」をコントロールできるようになっていきます。

ですが、この段階だと「自我」と「自分」との同一化がまだ解けていないので、当人は「自我」に奉仕するための思考を優先するようになります。

「自我」にとって好ましい思考だけを歓迎し、「自我」が否定されるような思考は抑圧されます。

結果、思考は恣意的で歪曲されたものとなりやすく、「他者の意見」との衝突も避けられません。

ですが、さらに瞑想の実践が進むと、「自我」は少しずつ消失していきます。

そしてそこには、「非人称的な知性」だけが残り、事実をあるがままに認知する明晰な思考が可能になるのです。

◎終わりに

いかがでしたでしょうか?

「瞑想の実践を続けていくと、思考することができなくなってしまうのではないか?」と不安に思う人もいるかもしれませんが、そういうことにはなりませんので、ご安心ください。

むしろ、瞑想の実践によって初めて人は明晰に思考できるようになるとも言えます。

ですがそのためには、まず「マインドの層」にある思考の雲を振り切って、その後に残る「自我」とも決別する必要があります。

そして、もしも「自我」が沈黙するようになったなら、その時当人は自分の中にある「知性という鏡」を発見することになるでしょう。


⇓⇓真理の探求についての連載記事へはこちらから⇓⇓