「自分探し」という言葉が、一昔前に流行りました。
いえ、もう二昔くらい前の話かもしれませんね。
いずれにせよ、かなり多くの若者たちが、「自分」というものを探していたわけです。
しかしそれは、探求者が「自己(セルフ)」について探求するのと、何か違っているのでしょうか?
ひょっとして、「自分探し」をしていた若者たちは、実際のところ、自分でも気づかないうちに「真理」を探求していたのでしょうか?
今回は、この「自分探し」という言葉を深掘りして、世間一般で言われている「自分」と、探求の世界における「自己」との違いを書いていってみたいと思います。
では、始めていきましょう。
◎「自分探し」が「仕事探し」と重なりがちな理由について
多くの場合、若者たちが「自分探し」をする時には、「仕事」というものを中心的なテーマに据えているのではないかと思います。
つまり、「自分は何をして生きていくべきなのだろうか?」と彼らは問うわけですね。
実際、人には向き不向きというものがあるので、「どんな仕事でもできる」という人はほとんどいないでしょう。
私だって営業とか接客とかは全然できません。
いわゆる「コミュニケーション能力」というのが低いのです。
ただ、どうして「自分探し」をする若者たちは、それほどまでに「自分に向いている仕事」を知ろうとするのでしょうか?
それはきっと、「自分にジャストフィットする仕事が見つかれば、幸せに生きていけるに違いない」と彼らが考えているからではないかと思います。
実際、もしも「自分に合った仕事」を見つけることができれば、働くことも楽しいでしょうし、「充実感」や「生き甲斐」も感じられるはずです。
そして、「そのような『充実感』や『生き甲斐』を感じられる人生は、きっと素晴らしいものに違いない」と彼らは思うわけです。
あるいは、もっと切実に、「自分はこのままでいいのだろうか?」と言ったような、ある種「実存的な問い」を抱えて苦しんでいる若者もいるかもしれません。
単に「先の長い人生を幸福に生きたいから」というよりも、自分が抱えている「虚無感」や「欠乏感」から、「このままでいいはずがない」と感じて、「自分にとっての答え」を探し出そうとするわけです。
ですが、いずれの場合も、探されている「自分」というのは、当人の人格や個性や特性が入り混じったものになっています。
「自分は何が好きなのか?」
「自分の中で得意なことは何なのか?」
「自分にとって大事な価値観は何であるか?」
こういったことを、「自分探し」をする若者たちは探究します。
自問自答してみたり、試しにいろんな仕事をやってみたりすることで、「自分」について知ろうとするのです。
◎世間における「自己理解」は、実際のところ「自我理解」である
「自己理解プログラム」というものを開発した八木仁平という人がいます。
八木氏によると、「好きなこと」と「得意なこと」と「大事なこと」の三つが重なるところに、本人にとっての「やりたいこと」があるのだそうです。
確かに、「好きなこと×得意なこと×大事なこと」が重なる領域には、当人の活力の源になるような「やりたいこと」があるでしょう。
ですが、それはあくまでも「何をする時に自分は一番充実感を感じるか?」ということの答えであって、探求の世界において求められている「自己理解」とは異なります。
探求の世界における「自己理解」とは、「たとえ何もしなくても、たとえ何者にもならなくても、『自己(セルフ)』というのは常に『至福』そのものだ」ということを理解することです。
その「至福」というのは、「無根拠な自己充足感」のことであり、決して強烈ではありませんが、穏やかに当人を満たしてくれるものです。
それに対して、八木氏は「自己理解」によって「やりたいこと」がわかると説いているわけですが、探求者は別に「やりたいこと」を求めているわけではありません。
むしろ探求者たちは、あらゆる「やりたいこと」を追い求めることに飽き飽きしており、「人生のパターン」に心底うんざりしているものです。
そういう人に対して、「好きなこと×得意なこと×大事なことを理解したら、人生がもっと充実するよ」と言っても意味がありません。
なぜなら、探求者はそういった「人生のパターン」そのものから抜け出すことを求めているものだからです。
私自身の言葉の定義で言えば、八木氏の言う「自己理解」は、実際のところ「自我理解」です。
私にとって「自我」とは、人格や性格、個性や特性、さらには自由意志などが組み合わさってできた構築物です。
そして、世間のほとんど全ての人は、この「自我」のことを、「本当の自分」だと思っています。
それゆえ、「自分探し」をする若者たちも、「どうすれば自分の人格や個性にフィットする仕事が見つかるだろうか?」と問うわけです。
そこで探されているのは、あくまでも「自我の満足」です。
もちろん、もしも「自我」が満足するような仕事を見つけられれば、当人は「充実感」や「生き甲斐」を感じることができるでしょう。
ですが、それはあくまでも一時的なものです。
たとえどんなに「やりたいこと」であっても、ずっと続けていれば人はだんだん飽きてしまいます。
そして、飽きてしまった物事は、どんなに努力しても継続することができません。
もしも無理して続けようとすると、当人はそれを苦痛に感じることでしょう。
また、もし運よく飽きずに長く続けられたとしても、当人は「やりたいこと」から降りることができなくなってしまいます。
なぜなら、「やりたいこと」をやめてしまったら、「充実感」や「生き甲斐」を感じることができなくなるからです。
これはまさに「ワーカホリック(仕事中毒)」のメカニズムそのものです。
当人は仕事をすることによって「充実感」や「生き甲斐」を感じることができます。
しかし、当人は徐々にそれらに依存していってしまいます。
仕事によって得られる「充実感」や「生き甲斐」無しには、当人は生きていけません。
その結果、家庭や自身の健康を犠牲にしてでも、ハードワークにのめり込んでいってしまうのです。
◎「自我」から自由にならない限り、人は「すること」に束縛される
「自分探し」や「やりたいこと探し」の限界はここにあります。
探している当のものが「自我」に関するものであるため、当人は「自我」による支配から抜け出せなくなるのです。
「自我」というものには、そもそも最初から「欠乏感」が組み込まれています。
このため「自我」は絶えず何かを求め続け、一時的に満足したとしても、すぐにまた「次の目標」に向かって走り始めるのです。
こういった「自我」による支配から抜け出すために必要なのは、「自我理解」ではなくて、本来の意味での「自己理解」です。
それはつまり、「『自己』とは『自我』のことではない」という理解です。
この理解ができて初めて、人は「自我」から自由になれます。
もちろん、それでも「自我」はささやき続けるかもしれません。
「もっと何かを成し遂げ続けろ」
「この世界で一目置かれる『特別な個人』を目指すのだ」
そう言って、当人を「何かをすること」へと誘い出そうとするかもしれません。
ですが、「真の自己」を理解している人は、「何もしないこと」の中に既に「至福」が存在していることを知っています。
何もせずとも、ただ存在するだけで「幸福」であることができると、当人は知っているのです。
しかし、だからといって、彼/彼女は「何もしないこと」にも執着していません。
当人は、もし「したいこと」があればそれをするでしょうし、「したいこと」が何もなければ、黙って内側の「至福」に留まっていることでしょう。
つまり、「やりたいこと」によって束縛されていないからこそ、その人は「すること」からも「しないこと」からも自由なのです。
でも、それってある意味で、ものすごく「当たり前のこと」ではないでしょうか?
「したいこと」があればそれをして、「したいこと」がないなら、何もしないでくつろいでいる。
それは本来、別に難しいことではありません。
それが難しくなってしまうのは、人々が「自分には何か『やるべきこと』があるはずだ」と深く思い込んでいるからです。
つまり、「何か『やるべきこと』があるはずだ」と思っているからこそ、「我が家」でのんびりくつろいでいることができず、どこまでも走り続けてしまうわけなのです。
◎「人生のパターン」に飽き飽きした人だけが、真に探求へと向かう
多くの人は、心の中に潜在的な「満たされなさ」を抱えており、「もしも『自分の人生でやるべきこと』を見つけられたら、きっと、この『満たされなさ』は埋まるはずだ」と考えています。
ですが、そうして仕事や何らかの活動によって「満たされなさ」を埋めたとしても、満足できるのはわずかな間だけです。
ずっと目標にしてきたことも、一度達成したら「過去のもの」になってしまいます。
ずっと求め続けていたものも、実際に手に入ってしまうと陳腐に感じ始め、魅力がなくなってしまいます。
また、どんなに楽しかったことであっても、同じことの繰り返しでは飽きてしまうので、飽きずに続けていくためには、当人は次々新しいことをやり続けなければなりません。
「そういうのはもう疲れたよ」と言う人が出てくるのも、とても自然なことだと思います。
そして、そんな風に人生にうんざりしてしまった人たちだけが、本当の意味で「真理」を探求しようとするものなのです。
ですから、もしもあなたが人生に飽き飽きしているのであれば、それは「神の恩寵」です。
なぜなら、人生に心底うんざりしている人だけが、本気で「真理」を探求しようとするからです。
もちろん、今現に「やりたかった仕事」と巡り合えていて、毎日が「充実感」と「生き甲斐」でいっぱいの人を、否定するつもりはありません。
私は別に「人生を楽しむこと」を否定するつもりはないからです。
ただ、「人生のパターン」を理解してしまった人というのは、だんだんと「楽しむ」ということが難しくなっていきます。
そういう人が自身の「苦しみ」から本当に解放されるためには、「やりたいこと」を探すのではなく、「真理」を探求するしかありません。
それは、「どっちが正しい」という話ではなく、「求めているものが違う」というだけの話なのです。
◎「自我」を本当に救うのは、私たち自身の「自我」からの解放である
いかがでしたでしょうか?
世間一般に言われている「自分探し」というのは、私が使っている言葉の定義で言うと、「自我を一時的に満足させる方法探し」です。
そこにおいては、あくまでも「自我の満足」が中心テーマに据えられており、「自我による支配からどうやって抜け出すか?」という問いそのものが、そもそも存在していません。
それゆえ多くの場合、今の社会で「自己理解」と言われているものは、実態としては「自我理解」であり、それは探求者にとって重要な「自己理解」と同じものではないのです。
こういった事情があるため、「真理」を現に求めている人は、世間一般の「自己理解」を実践してみても、あまり得るものはないかもしれません。
むしろ、「自我」を「自己」と同一視する錯覚が強まってしまい、余計に「自我」によって束縛されることになる可能性もあります。
なお、「自我」と「自己」との同一視を打ち破る方法については、連載記事の第三部で詳しく述べていますので、気になる方はそちらを参照してください。
いずれにせよ、「自分探し」は「自己の探求」ではありません。
「自己の探求」とは、むしろ「これこそが自分だ」と思っている私たち自身の固定観念をどんどん破壊していくことを意味しています。
そもそも、「真の自己」というのは決して探して見つけるものではありません。
そうではなくて、あらゆる「私」を除外していった後に、最後まで残っているものこそが「自己」なのです。
「思考は『私』ではない」
「感情も『私』ではない」
「身体でさえも『私』ではない」
そうやって、「自分でないもの」をどこまでも除外していって、最後の最後で、「もうここには何も残っていない」と言っている「自我自身」までもが沈黙して消える時、「本当の自己」は輝き出します。
それは思考にも、感情にも、身体にも限定されていません。
そして、「自我」による支配からも自由です。
この「自由であること」の解放感が、当人に深い安らぎと幸福感をもたらします。
そして、もしそこで「自我」が何か一言語るなら、きっとこう言うのではないかと思います。
「全てこれで良い」と。