前回の記事で私は、「意識(本当の自分)」とはどういうものかについて、読者の方に考えてみてもらいました。
そして、「意識(本当の自分)」と「自分ではないもの(名前、肩書、人格、身体など)」とを同一視すると、そこから束縛が生まれることを説明したのでした。
【第7回】世界はなぜ「この自分」からしか見えないのか?「意識」の謎について
しかし、「意識とは何か?」ということは、なかなか頭で考えるだけだと納得することが難しかったりもします。
特に、年を取って大人になると、「あなたの人格や身体は『あなた自身』とは別物なんだよ」と言われても、ほとんどの人はまるで納得できないと思います。
ですので、それを自分自身の実感を伴った形で深く納得するためには、「瞑想」の実践が必要になったりするわけです。
そこで今回は、「瞑想」の実践について「最終的な目的地」を示し、その「ゴール」に至るまでの全体像を描き出そうと思います。
では、始めていきましょう。
◎「瞑想」の実践における四つの段階
瞑想の実践は、大きく分けると四つの段階に分けられます。
そして、四つそれぞれの段階における「中心テーマ」と、「具体的な実践内容」は以下の通りです。
・第一段階
中心テーマ:「自我」を強化し、思考に勝利すること
実践内容 :集中する瞑想
・第二段階
中心テーマ:「自我」から「無意識」へと瞑想を委ねていくこと
実践内容 :集中しない瞑想
・第三段階
中心テーマ:「自我」と「自分(=意識)」との同一化を打ち破ること
実践内容 :瞑想的な日常生活
・第四段階
中心テーマ:「自我」の解体と「自由」の実現
実践内容 :「私は在る」という感覚に留まること
以上のようになっています。
ただ、これらについて、今回の記事だけで全て詳しく説明すると、ボリュームがとんでもないことになってしまいます。
ですので、今回は全体をザっと流すだけにして、次回以降の記事で、一つずつじっくり説明していこうと思います。
では、まず一つ目の段階から行きましょう。
◎第一段階:「自我」を強化し、思考に勝利する
「瞑想」の実践における第一段階は、「集中する瞑想」をおこなうことで、思考に勝利することを目指していきます。
これは何らかの瞑想技法を実践したことのある人には、お馴染みの話なんじゃないかと思います。
私たちは普段、非常に多くのことを考えています。
そういった思考は無自覚なもので、私たちは普段、いつの間にか何かを考えてしまっているものです。
それゆえ、世の中の人の多くの頭の中というのは、無数の思考が入り乱れて行き交う「スクランブル交差点」みたいになっているんじゃないでしょうか?
ですが、このままだと、「意識(本当の自分)」とは何かということは、理解することが難しくなります。
というのも、あまりにも思考がたくさん湧いてくるので、どれが思考でどれが「本当の自分」だか、わからなくなってしまうからです。
そこで、そんな風に思考に取り込まれないようにするために古来より開発されてきたのが、数々の「瞑想技法」なのです。
基本的に、「瞑想技法」を実践する場合には、何らかの対象に集中することになります。
たとえば、眉間に集中したりですとか、息をする時のお腹の動きに集中したりですとか、何に集中するかは技法によってさまざまですが、「集中する」ということは変わりません。
なぜそんなに「集中する」ということが重視されるかというと、集中することによって、思考を静かにすることができるからです。
あなたにも経験がないでしょうか?
スポーツをやったことのある人は、ひょっとするとわかりやすいかもしれません。
たとえば、身体を動かす中で、極度の集中状態に入ると、自分の内側が急に静かになって、何の思考も湧いてこなくなることがあります。
いわゆる「ゾーンに入る」というやつですね。
このように、「集中状態」は私たちの思考を閉め出す作用があり、結果的に「無思考の状態」を作り出します。
このような「無思考の状態」に入ると、「本当の自分」についても見えやすくなってきます。
これはいわば「思考」と「自分」との同化が解けた状態と言ってもいいでしょう。
実際、「考え事」に夢中になっていると、私たちは「自分」のことを、「思考そのもの」であるかのように感じ始めます。
思考と同化してしまっているわけです。
そこで、ひとまずこの「思考との同化」を打ち破るのが、この第一段階の目標となります。
◎第二段階:「自我」から「無意識」に瞑想を委ねる
次に第二段階に移ります。
第一段階では、意図的に何らかの対象に集中することで思考を閉め出し、「無思考の状態」を作り出すことを目指していました。
ですが、実は「意図的な集中」を実践し続けると、「自我(エゴ)」の働きが強化されます。
なぜなら、「集中する」という行為そのものが、「自我」によって遂行されるものだからです。
「自我」というのは、本来ただ存在しているだけの「意識(本当の自分)」に対して、何らかの方向性を与える役割を担っています。
そしてだからこそ、私たちは「自我」の働きによって社会生活を送ることができています。
もしも「自我」が「意識」に方向性を与えてくれなかったら、おそらく私たちは生活することができません。
たとえば、仕事の時間が迫ってきた時に、「早く準備しなくっちゃ!」と思ってテキパキと準備したりできるのは、「自我」が「早く準備すること」へと「意識」を方向付けてくれているからです。
そういう意味で、「自我」は私たちの日々の生活になくてはならないものと言えます。
そして、第一段階の「集中する瞑想」を実践していくと、この「自我」の機能が強化されていきます。
つまり、絶えず「意識」に方向を与えることで、当人は準備をするべき時にはテキパキ準備をするようになるでしょうし、作業に集中するべき時はわき目も振らずにその作業を遂行するようになっていくわけです。
「それって良いことなんじゃないの?」とあなたは思うかもしれません。
もちろん、社会生活を送る上では、それは有効な場合もあるでしょう。
実際、大企業の経営者などが、私の言う第一段階に当たる「集中する瞑想」を実践する理由はここにあります。
彼らの目的は、「集中する瞑想」を実践することによって「自我」を強め、コントロール感覚を強化することです。
「自分で意識的に物事にあたり、効率的にそれを処理する能力」を高めるために、大企業の経営者は「集中する瞑想」を実践するのです。
もちろん、それは決して「悪いこと」ではありません。
集中力が鍛えられれば、仕事の能率も上がるでしょうし、結果的により大きな成果を上げることもできるかもしれません。
ですが、私が上のほうで書いたように、私の言う意味での「瞑想」の目的は、「仕事で成功すること」ではなく、「『本当の自分』とは何か」について体験的に理解することです。
そして、残念ながら、「自我」というのは「本当の自分(意識)」ではありません。
それゆえ、「自我」があまりにも自分の中で強くなって「支配者」のように全てをコントロールし出すと、「意識」について悟ることは非常に難しくなります。
そこで、この第二段階では、「瞑想」の実践を「自我中心」から「無意識中心」に徐々にシフトしていきます。
具体的なやり方は、また後日お伝えしようと思いますが、要するに「瞑想」についてコントロールすることをやめる練習を積みます。
たとえばあなたは、普段歩く時に意識的に歩き方をコントールしているでしょうか?
毎回足を踏み出すたびに、「このくらいの強さで地面を蹴って、この角度で足を上げて、このくらいの距離に足を下ろして…」なんてことを考えているでしょうか?
まさかそんな人はいないはずです。
誰しも「無意識」に歩いているでしょう。
でも、それにもかかわらず、転んでしまうということはないはずです。
それは私たちの「無意識」が、私たちの「自我」に代わって、歩くことを遂行してくれているからです。
しかも、「無意識」は「自我」よりもずっと上手くやります。
実際、歩く動作を全部自分で自覚的にコントロールしようと思ったら、私たちの歩き方は急にぎこちなくなってしまいます。
私たちが普段、何の苦労も感じず滑らかに歩くことができるのは、それだけ「無意識」が優秀だからなのです。
◎第三段階:「瞑想的な日常生活」を送る
次に第三段階に移ります。
この段階では、「無意識」を中心に実践できるようになった「瞑想」を、日常生活の中に持ち込んでいきます。
つまり、起きてから寝るまでずっと「瞑想」をする感じになります。
「げげ、そんなの大変過ぎるでしょ!」と思う人もいるかもしれません。
ですが、このために、第二段階で「無意識に任せる瞑想」を実践していたのです。
たとえばあなたは、起きてから寝るまでどころか、眠っている間さえも呼吸をし続けていますが、それを「大変だ」と感じたことがあるでしょうか?
呼吸は基本的に「無意識」によっておこなわれており、あなたは別に何の苦労も感じることなく、生まれてから死ぬまで呼吸し続けることができます。
これと同じようなことが、「瞑想」でも可能だと言ったら信じますか?
もちろん、実践し始めてすぐに呼吸と同じくらい自然に「瞑想」できるようにはなりません。
ですが、「瞑想」の中心が「自我」から「無意識」に十分シフトしているのであれば、それを日常生活の中に持ち込むことは可能なのです。
なぜ日常生活の中に「瞑想」を持ち込むかと言えば、単純に「瞑想時間」を大量に確保するためです。
たとえば、第一段階と第二段階では、だいたい家で時間のある時などに一回30分~1時間だけ実践します。
つまり、時間を区切って30分とか1時間とかだけ限定で、「瞑想」を実践するわけです。
しかし、このやり方だと、仮に毎日1時間実践を積んでも、1年で365時間しか実践できません。
それに対して、「瞑想」を日常生活の中に持ち込むと、実質1日に10時間とか12時間くらい実践を積むことができます。
こうなると、「瞑想時間」の蓄積に雲泥の差が出てくることは明白です。
そもそも「意識」について悟るためには、圧倒的な「瞑想時間」が必要になります。
それを全部、「家で坐ってする瞑想」でまかなおうとしたら、とんでもない月日がかかってしまいます。
そうならないように、「瞑想」を日常生活の中に持ち込んで、徐々に呼吸と同じような「自然なもの」にしていきます。
これが第三段階です。
◎第四段階:「自我」の解体と「自由」の実現
最後に第四段階ですが、この段階については、今の時点で理解するのは非常に難しいと思いますので、サラッと流すくらいに読んでおいてください。
第三段階では「瞑想」を日常生活の中に持ち込んだわけですが、そうして「瞑想的な日常生活」を送っていると、どこかの段階で「『自我』は『自分(=意識)』ではない」という気づきが起こります。
これは、決定的なターニングポイントです。
そもそも、「瞑想的な日常生活」を送っていると、「内側が静かな状態」が日常におけるベースとなっていきます。
何の思考も感情もなく、シーンとした世界にいるのを感じることも増えていくでしょう。
そして、そのような「静寂」の中で、ある時不意に「自我」が「そうだ、晩御飯の買い物に行かなきゃ」と思ったりすることがあります。
何気ない場面です。
「瞑想的な日常生活」を送っていれば、こういう場面はよくあります。
しかし、実践を続けることで「内側の静けさ」が十分に深まってくると、ここである時、「決定的な気づき」が起こります。
それは「『意識』が『自我』に気づいてしまう」という気づきです。
たとえば、シーンと静まり返った「静寂」の中で、「自我」が突然、「そうだ、晩御飯の買い物に行かなきゃ」と言おうとしたとします。
すると、「自我」が「そうだ、ばんごは…」と言ったくらいのタイミングで、「あれ?なんか今、一瞬だけ変な感じしなかった?」と当人は感じます。
その「感じ」とは、「『自我』が『意識』によって対象として客体化されてしまう感覚」です。
それまでは、あくまでも「自我」は対象を見る側でした。
たとえば、「自我」は自分の思考を観察し、感情が湧けばそれに気づきます。
あくまでも、「自我」は「見る側」であって、「見られる側」ではなかったのです。
しかし、ある時唐突に、「自我」が「意識によって見られる側」になってしまいます。
「自我」が「気づく主体」だったはずのところから、「意識によって気づかれる対象」として客体化されてしまうのです。
そして、このことに気づくと、「自我」と「意識」とを同一視することは、徐々に難しくなっていきます。
もちろん、たとえこの気づきが起こっても、「自我」はあいかわらず働き続けます。
たとえば、散歩中に分かれ道でどっちに進むかとか、仕事でA案とB案のどっちを採用するかとか、そういう時には「自我」が表に出て働く必要があります。
だから、たとえ「瞑想的な日常生活」を実践し続けたとしても、「自我」がなくなることはありません。
実際、もしも「自我」が完全になくなってしまったら、そもそも社会生活が継続できなくなってしまいます。
それゆえ、「自我」は「瞑想的な日常生活」の中でも存続し続け、当人の社会生活を支えるために機能し続けるのです。
そして、だからこそ、世の中の多く人たちは「自我」と「意識」を同一視して混同しています。
というより、「自我」と一体化していない人がどこにいるでしょうか?
実のところ、「真理」を悟った覚者であっても、別に「自我」との一体化がなくなっているわけではありません。
ただ、覚者は「『自我』は『自分(意識)』ではない」ということを、はっきりと自覚しています。
そこが、普通の人と違うところです。
覚者もそれ以外の人も、「自我と一体化している」という点は同じです。
ただ、覚者は「実のところ、『自我』と『私=意識』は同じではない」と知っており、普通の人はそのことに気づいていないのです。
そして、この「『自我』と『私』は同じではない」という気づきの「最初の一瞥(いちべつ)」が起こった時、「瞑想」の実践は第三段階から第四段階にシフトします。
なお、第四段階に移行しても、「瞑想的な日常生活」は継続します。
ただ、その目的が変わります。
第三段階の目的は、今しがた書いたように、「『自我』は『自分』ではない」という気づきの「最初の一瞥」を経験することです。
この気づきが起こると、自然と「瞑想」の実践は第四段階に移行します。
それはすなわち、「自我」の解体です。
第三段階の最後のおいて、当人は「『自我』は『自分』ではない」という気づきを得るわけですが、この気づきを一度体験すると、さまざまな認識の変化が起こり始めます。
たとえば、他人からの評価が当人はだんだん気にならなくなっていきます。
なぜなら、他人に褒められて喜ぶのは、「自分」ではなく「自我」のほうだと理解できるようになるからです。
また、他人から否定されたり攻撃されたりすることも恐れなくなっていきます。
なぜなら、他人から否定や攻撃をされることによって傷つくのは、「自分」ではなく「自我」だけだからです。
私たちが他人からの評価を求め、他人から否定されることを恐れるのは、私たちが「自我」と一体化しているからです。
つまり、「自我」のことを「自分そのもの」だと思い込んでいるのです。
それゆえ、「自我」が褒められると、「自分」まで嬉しくなるように勘違いしてしまい、「自我」が否定されて傷つくと、「自分」まで否定されて傷つくかのように、ほとんどの人は思い込んでいます。
しかし、「『自我』は『自分』ではない」という気づきが起こると、こういった「勘違い」がどんどん破壊されていきます。
たとえば、社会的な成功を追い求めているのは「自我」であり、広い家に住んで自慢したいのも「自我」であり、魅力的な恋人を手に入れて満たされたいのも「自我」であるということが、当人にはだんだんとわかってきます。
そして、たとえそういったものを手に入れなくても、「自分」は別に困らないということが、当人には徐々に自覚されてくるのです。
言い方を換えれば、「自我」と「自分」との間の同一化が解けることによって、当人の中にあった「執着」が、徐々に解体されていくとも言えます。
そして、当人は自分を縛っていた「思い込み」から解放され、次第に「自由」になっていくのです。
このような「自由」を実現するのが、第四段階の目的、つまり「瞑想」の実践全体の「ゴール」となります。
ということで、今回は「瞑想」の実践の全体像をお示ししました。
なかなか「大変そうな道」に感じたかもしれません。
ですが、もしも「束縛からどうしても自由になりたい!」と本気で望んでいるのであれば、試す価値は十分にあると私は思っています。
では、次回はまず「瞑想」の実践の第一段階である「集中する瞑想」について、もう少し詳しく見ていこうと思います。
まずは理論的な解説をじっくりして、余裕があったら、具体的な技法の実践法にも触れたいと思っています。
では、また次回。
⇓⇓次回の記事です⇓⇓