【第2回】「自分」というものの本質は何か?

◎夢の中でさえ変わらない「自分」という感覚

前回は初めての投稿ということで、「私たちが『本当の自分』を理解したほうがいい理由」について書きました。

【第1回】満たすべき「自分」はどこにいるのか?

多くの人は「自分でないもの」を「自分」だと思い込み、それを満たそうとします。

それゆえ、いつまで経っても満たされません。

それもそのはずで、「自分でないもの」をいくら満たしたところで、「本当の自分」が満たされることはないからです。

では、「本当の自分」とはどこにいるのか?

ある人は自分の肩書のことを「自分自身」だと思うかもしれません。

また別のある人は、自分の人格のことを「自分自身」だと思うかもしれません。

でも、そういったものはどれも「本当の自分」ではありません。

するとあなたは、「なら、この五感を感じる身体が『自分自身』なんじゃないか?」と思うかもしれませんが、実のところ、それも違います。

たとえば、あなたが眠りの中で夢を見るとき、あなたは身体を感じるでしょうか?

身体は眠りの中にあり、起きている時のようには自覚的に自分の身体を感じることができません。

それにもかかわらず、「夢を見ている自分」は確かに存在しています。

だって、現に夢というものを「自分自身」で見ているのですから。

「本当の自分」というのは、この「夢や現実を観ている者」です。

このことは誰しもなんとなく感じたことがあるかもしれません。

たとえば夢の中だと、起きている時とは自分の年齢や体格が全然違っていることがあります。

性別が違うこともあるかもしれませんし、場合によっては、動物になる夢を見ることだってあるでしょう。

でも、そんな風にあらゆることが変化していても、「これが自分である」という感覚を感じるはずです。

そうであるならば、あなたがあなたであることの本質は、姿かたちや年齢、性別、さらには人か動物かにかかわらず「不変」だということではないでしょうか?

また、もしもあなたが仮に記憶喪失になってしまい、過去の記憶を一切失ってしまったとします。

しかし、その場合でも、やっぱりあなたはあいかわらず「自分」なのであり、そこには確かに「自分」という感覚があるはずです(まあ、「記憶が無くなったら、もうそんなのは別人だよ!」と感じる人も多いでしょうけれど)。

ということは、「あなた」という存在は、記憶にも依存していないということになります。

姿かたちが変わっても、記憶がすっかり入れ替わっても、あなたはやっぱり「自分」なのです。

ですが、私たちは多くの場合、このような「自分」を自覚してはいません。

ほとんどの人は、もっと別の物を「自分」だと思い込んでいます。

だから、「昇進して肩書が変われば自分は満たされるはずだ」と考えたり、「整形してキレイになったら自分は満たされるはずだ」と考えたりします。

でも、「本当の自分」からすると、そういったことは、実のところ「どうでもいいこと」です。

むしろ、そうやって「自分」というものの本質とは関係ないことについて理想を追求し続けることで、当人はますます「本当の自分」に気づきにくくなっていきます。

そして、ますます「自分でないもの」を満たすために、あっちへこっちへと奔走することになってしまうのです。

◎「自我」を満たすことには終わりがない

私は前に、「自分ではないもの」を満たそうとするから、いつまで経っても「自分自身」が満たされないのだと書きました。

そして、世の中の人のほぼ全てが「これこそが自分自身だ」と勘違いしているものがあります。

それは「自我(エゴ)」です。

「自我」はたとえば、「他人よりもっと有名になりたい」と思ったりします。

そうすれば「自我」が「他人に対する優越」を感じて満たされるからです。

あるいはまた、「もっと金を稼いで尊敬されたい」という風に思うかもしれません。

たくさんお金を稼ぐことで「自我」は「自我自身」を満たそうとします。

または逆に、「他人から否定されたくない」と思う人もいるかもしれません。

それは「自我」が「自我自身」を守ろうとするからです。

もっと言うと、人は「たとえ他人から否定されても安心していたい」と思うからこそ、
より多くの尊敬やお金を求めることで、「自我自身」を強固に守ろうとするところがあります。

つまり、「もっと尊敬されて、もっとお金を集めれば、自分の立場は安全になるはずだ」と考えるのです。

これらは全て「自我」を満たし、「自我」を守るための行動です。

そして、こうした行動を続けることで、人は段々と消耗していきます。

なぜなら、「自我」の要求には限りがないからです。

「自我」は、得れば得るほどもっと欲しがり、たとえどれだけ安全な環境を築いても「いつかこの状態も失われるかもしれない」と考え、怯え続けます。

どうしてこういったことになるかというと、私たちが「自我」と「本当の自分」を混同しているからです。

考えてもみてください。

もしも「自我」と「本当の自分」が別のものであれば、「自我」を満たす必要もなければ、必死になって守る必要もないということです。

だとすれば、「自我」を満たすために名声やお金を集めようとしたり、「自我」を守るために安全な環境の構築に四苦八苦したりする必要もないのではないでしょうか?

「そんなこと言ったって、欲しいものは欲しいし、不安なものは不安だよ」と思う人は多いと思います。

実際、私自身も昔はそうでした。

そして、だからこそ、「どうしたら『自我』を満たすことから降りられるのか?」ということについて真剣に考え、いろいろなことを実践してきました。

たとえば、ボディワークや心理療法、呼吸法や瞑想法などを実践しました。

そして、たぶん15年くらいかかったと思いますが、数々の実践と試行錯誤の果てに、最終的には「『本当の自分』というのは『意識』のことであり、その本質は『純粋な喜び』なのだ」ということを理解しました。

「自我」は「本当の自分」ではなく、それを満たすために走り回る必要はない。

そして、もしも「本当の自分」として留まれば、そこには「無条件の喜び」が溢れている。

私はそのことを理解したのです。

ですが、いきなりこんなことを言われても、たぶん何のことだかあなたにはよくわからないですよね。

それに、私の言うことをすぐに信用するのも難しいと思います。

ですから、今後記事を書いていくことで、私が発見したこの事実について、もっと具体的に説明してみたいと思っています。


ということで、今回はここまでです。

「本当の自分」とは何か?

頭がグルグルしてしまった人もいるかもしれませんが、またのんびりお風呂に浸かっている時にでも、改めて考えてみてください。

では、また次回。

⇓⇓次回の記事です⇓⇓

【第3回】感情が持つ二つの性質と、「純粋な喜び」について