探求の世界に「識別(ヴィヴェーカ)」という言葉があります。
いったい何を「識別」するのかというと、「意識」と「意識でないもの」とを切り分けます。
なお、「意識」については、以下の記事が参考になります。
【第7回】世界はなぜ「この自分」からしか見えないのか?「意識」の謎について
上記の記事の中でも説明していますが、「意識」というのは、簡単に言うと私たち自身の「主観」のことです。
この世界のあれやこれやを「観ている者」ですね。
一切を観照している主体なので、「観照者」と言ったりもします。
ですが、この「意識」というのはある意味で私たちにとってあまりにも身近すぎるため、その存在を自覚することが難しかったりします。
実際、生まれてからこのかた、「自分」でなかったことのある人なんて誰もいないわけですから、そういう意味で、「意識」というのは誰にとっても当たり前すぎるくらい当たり前の存在なのです。
それゆえ、探求の過程では、この「意識」を「意識でないもの」から明確に区別して認識するために、瞑想を実践していきます。
つまり、私たちは瞑想の実践をすることによって、「識別(ヴィヴェーカ)」を育てていくわけです。
今回の記事では、この「識別(ヴィヴェーカ)」に焦点を当てて、深掘りしていきたいと思います。
「識別(ヴィヴェーカ)」については、連載記事の中であまり踏み込んで記述できなかった論点でもあるので、瞑想の実践が行き詰っているように感じる方は、ぜひ今回の記事を参考にしてみてください。
では、行ってみましょう。
◎「ラベリング」による、瞑想初期においての「識別」の実践
この記事を初めて読む人の中には、「識別(ヴィヴェーカ)」という言葉を知らなかった方もいるかもしれません。
でも、たとえ言葉それ自体は知らなかったとしても、何らかの瞑想法を実践したことのある人は、自然と「識別」をおこなっているものです。
たとえば、瞑想の初心者が教えられるテクニックの一つに「ラベリング」というものがあります。
これは、瞑想中に起こる思考や感情に、ラベルを貼っていくテクニックです。
具体的には、瞑想法を実践している最中、不意に思考が湧いてきた場合などに、実践者が心の中で「思考」とだけ呟いて、自分の思考にラベルを貼るようにします。
また、もし仮になんとなくイライラして落ち着かなくなってきたら、「イライラ」とだけ内側で呟いて、自分の感じているイライラにラベルを貼ります。
そんな風にして、自分の中で起こってくる思考や感情に、ペタッとラベルを貼ってしまうことを、瞑想の世界では「ラベリング」と呼ぶのです。
人によっては「そんな風にラベルを貼ったところでどんな意味があるんだ?」と思われるかもしれませんが、初心者のうちは、このテクニックがかなり有効です。
というのも、多くの初心者は、瞑想中に湧いてきた自分の思考や感情について、追加でさらに思考や感情を巻き起こしてしまうことが非常に多いからです。
たとえば、瞑想法を実践している最中に、昨日上司から言われた叱責の言葉が突然思い出されたとします。
すると、当人は「あー、あれは本当に腹が立ったな…。今思い出すだけでムカムカしてくる…」と考え始めます。
さらには、昨日のことを思い出しているうちに、芋づる式にもっと過去に上司との間で発生した「嫌な思い出」まで蘇ってくるかもしれません。
そして、当人は自分がそんな風に物思いにふけっていたことに不意に気づき、「いけない!今は瞑想中なんだった!ちゃんと集中しなくっちゃ!」と思ったりします。
でも、当人はなかなか気持ちが落ち着きません。
過去の「嫌な思い出」が蘇って後味の悪い気分にもなっていますし、瞑想中に「余計なこと」を考えてしまったことで、少しだけ自己嫌悪に陥っているかもしれません。
それで、「あー、自分ってホント、ダメだなー」と思ったりするわけです。
まったくの初心者の状態で瞑想法を実践したことのある人は、過去にこういった経験を何度かしたのではないでしょうか?
つまり、最初はちょっとした思考や感情の揺らぎだったのに、気づくとそこに盛大に巻き込まれてしまうわけです。
このような状態を「思考や感情との同化」と呼びます。
つまり、「自分」が思考や感情そのものになってしまっているわけです。
そしてこれは、「識別(ヴィヴェーカ)」がない状態でもあります。
なぜなら、「意識(本当の自分)」と思考や感情がピッタリ一つにくっついてしまっていて、全然切り法けられていないからです。
瞑想法の実践というのは、まず思考や感情を「自分自身」から切り離すところからスタートします。
湧き起こる思考や感情に飲み込まれることなく、離れて立つことができるように練習していくわけです。
それが「識別(ヴィヴェーカ)」の訓練です。
そして、初心者の内は、「ラベリング」を実施することで、思考や感情に飲み込まれることをある程度避けることできます。
たとえば、思考が湧いた瞬間に、「思考」とすぐにラベルを貼ってしまう。
そうすると、その思考は当人の中で「確認済み」という状態になり、手放しやすくなるのです。
要するにこれは、「はい、私はここに思考が在ることを確認しました」と言ってさっさと処理してしまうための、「指差し確認」のルーティンなのです。
思考をあくまでも「確認対象」として突き放し、そこに巻き込まれないための、一種の方便と言っていいと思います。
初心者の内は、このテクニックがなかなか使えます。
なぜなら、自分の中で「思考」「怒り」「イライラ」などと簡潔なラベルをペタッと貼ってしまえば、そこに巻き込まれることを防げるからです。
「確認!ヨシ!」というやつですね。
これによって、実践者は次第に「思考や感情というのは『自分自身』とは別のものみたいだな」と感じるようになっていくでしょう。
思考が湧いてもそれと同化しない。
感情が襲ってきても、それに丸ごと飲み込まれない。
こういったことができるようになることをもって、「識別(ヴィヴェーカ)」が成長していると判断するわけです。
これが瞑想の実践初期において、「識別」という言葉が意味するところです。
◎「ラベルを貼る人」として、最後まで居残り続ける「自我」
ですが、この「ラベリング」というテクニックが役に立つのは、あくまでも初心者の間だけです。
と言うのも、「ラベリング」をおこなっている間は、「ラベルを貼る人」が沈黙できないからです。
たとえば、思考が湧いてきた時に、「これは思考だ」と言ってそこにラベルを貼っているのは、いったい誰だと思いますか?
それは私たち自身の「自我」に他なりません。
「自我」と「意識(本当の自分)」というのは、非常に混同されやすいので注意が必要です。
実際、瞑想の中で「静寂」が訪れた時、当人はしばしばその「空(くう)」の中で、「全てが消えた。今、私はいない」と言ったりします。
「自分は究極の『無』に到達した」と思うわけです。
でも、相変わらずそこには「私はいない」と言っている者が存在しています。
それがまさしく「自我」であり、「自我」は基本的に自分のことだけはいつも「特別扱い」するのです。
先の「ラベリング」の件でもそうです。
「自我」は思考や感情にラベルをペタペタと貼っていきますが、そうやってラベルを貼っている「自我自身」にだけはラベルを貼ることがありません。
それもそのはずで、そもそもそんな風にラベルを貼る仕事というのは、「自我」にしか担うことができないからです。
「ラベルを貼ること」が「自我」にしかできないことである以上、「自我」は自分自身にラベルを貼ることができません。
そして、「自我」は「自分は思考や感情なんかとは違う。自分こそが『不変の実体』なのだ」と思い込み始めます。
実際、「自我」がラベルをペタペタと貼れば、思考や感情は瞬く間に消えていってしまいます。
思考も感情も変化し続けるものであり、実体のない儚い影のようなものです。
しかし、「自我」はそんな思考や感情に一方的にレベルを貼って管理できる、「特別な存在」のように見えます。
というのも、実際、思考や感情は現れては消えていくけれど、「自我」は常にそのまま留まっていて、思考や感情を観察し続けているからです。
だからこそ私たちは、「自我」のことを「意識(本当の自分)」であると、ついつい勘違いしてしまうわけです。
ここからが、「識別(ヴィヴェーカ)」の本当の修行です。
かつて初心者だった人も、「ラベリング」を実施することで、思考や感情を「自分自身」から切り分けて「識別」できるようになるでしょう。
でも、まだ「自我」と「意識」を「識別」することができていません。
「自我」と「意識」は同化してしまっていて、別々のものとして認識できていないのです。
しかし、「自我」と「意識」との同化を解くことは、思考や感情との同化を解いた時のように簡単にはいきません。
なぜなら、先ほども言いましたように、「『自我』に対してラベルを貼ってくれる人」が私たちの中にはいないからです。
それゆえ、私たちにとって「自我」というのは、どうしようもなく「自分自身」であるかのように感じられます。
実際、「自我」が思考や感情のように現れたり消えたりするとは、当人にはとても思えません。
「自我」こそが「不変の実体」であると、人は感じてしまいやすいのです。
◎「自我」が沈黙の中で消える時、次の段階の「識別」が起こる
ですが、もしも瞑想の実践を「自我」から「無意識」にバトンタッチすれば、当人は徐々に「自我が消えることもある」ということを確かめられるようになっていくでしょう。
瞑想を「自我」から「無意識」にバトンタッチするというのは、意識的に「瞑想しよう」と頑張って実践することはやめて、頑張らなくても自然と瞑想が起こるようにしていくということです。
詳しくは、下記の記事で解説していますので、興味のある人は読んでみてください。
【第10.5回】「瞑想」の第二段階《実践編》|「無意識の力」を伸ばす「集中しない瞑想」
もしも「無意識」に瞑想を委ねることができるようになると、次第に「自我」が出しゃばってこなくなります。
というのも、別に「自我」が常に思考や感情を見張っていなくても、内側を「静かな状態」に保てるようになってくるからです。
こうなると、「自我」はする仕事がなくなってきます。
思考や感情を静めるためにいちいちラベルを貼る必要もなくなりますし、ずっと注意して思考や感情を観察していなくてもよくなります。
その結果、「自我」は徐々に沈黙するようになっていくはずです。
「やること」がすっかりなくなってしまうので、「自我」は黙っているしかなくなるわけです。
そして、そのようにして「自我」が沈黙している間、「自我」は一時的に消えています。
まるで、思考や感情がラベルを貼られて一時的に姿を消したように、沈黙の中で「自我」は消えます。
しかし、それにもかかわらず、その「自我の不在を観ている者」が確かに存在しています。
そこには、「在る」という存在の感覚だけが残っています。
思考はなく、感情も湧いておらず、「自我」も沈黙している中で、ただ「在る」という感覚だけが存在しているのです。
このような状態のことを、探求の世界では「私は在る」と表現します。
それは、一切が沈黙していて「在る」という感覚だけが残っている状態です。
この「私は在る」という感覚に留まることができるようになると、「自我」と「自分(意識)」は別のものだったと理解できるようになるでしょう。
なぜなら、「自我」は時として現れては消えていくのに、「自分(意識)」は常にその背後に存在し続けるからです。
これが「識別(ヴィヴェーカ)」の第二段階です。
「識別(ヴィヴェーカ)」の第一段階においては、まず思考や感情を「自我」から区別します。
「自我」は思考や感情を離れて観察し、「これは自分ではない」と理解します。
ですが、そこで終わりではありません。
その次は、「自我」それ自身を「識別」する必要があります。
そのためには、まず瞑想の実践を「自我任せ」から「無意識任せ」にシフトしていき、その「無意識に任せた瞑想」をしっかり定着させる必要があります。
そうすることで、「自我」は次第に沈黙することを覚えていき、どこかの段階で、当人は「私は在る」という感覚を体験することになるでしょう。
そこまで行けば、「『自我』は『本当の自分(意識)』ではない」という理解が起こるのも、時間の問題ではないかと思います。
◎「識別」によって、私たちは自身の束縛から自由になる
しかし、そもそもどうして探求の道においては、「識別(ヴィヴェーカ)」がそんなに大事にされるのでしょうか?
それは、きっちり「識別」をすることによって、そうして「識別」された対象から、私たちが自由になれるからです。
たとえば、思考を「識別」できるようになると、当人は自分の思考から自由になっていきます。
仮にどんな思考が湧いてきても、当人はその思考と自分を同一視することがありません。
「こんなことを考えちゃいけない」と思わないし、「もっとこういう風に考えなければ」とも思わなくなります。
なぜなら、そういった思考を「自分の考えだ」とは見なさなくなるからです。
私たちが自分の思考にこだわるのは、それらの思考を「自分の思考」だと思うからです。
だから、「他人を苦しめるようなこと」を考えると、「自分はひどい人間だ」と思って落ち込み、「品行方正で考え方」が頭に浮かぶと、自分まで立派になった気分がしてきます。
ですが、思考を「識別」できるようになった人は、そういった囚われから自由になります。
たとえどんな残酷な思考が浮んできても、「そういう思考が在る」とだけ認めてこだわりません。
また、どんなに素晴らしい考えが浮かんでも、「だから自分は立派な人間だ」と思うこともありません。
自分の中で「天使」がささやこうが「悪魔」がささやこうが、彼/彼女はどちらも等しく「自分自身とは関係がない」と見なすのです。
同じく、感情を「識別」できるようになると、当人はその感情に飲み込まれにくくなっていきます。
たとえば、もしも「怒り」が湧いたとしても、「今、自分の中に怒りが在る」と客観視して、そこから距離を取れるようになっていきます。
つまり、たとえ強い感情が襲ってきても、それに圧倒されることが少なくなっていくわけです。
そして、もしも「自我」について「識別」できれば、当人は「自我」から自由になれます。
「自我」はきっと言うでしょう。
「これを成し遂げれば、きっと人から尊敬される」
「こういう人間になりさえすれば、お前はきっと幸せになれる」
「惨めで孤独な人生よりも、華やかで日の当たる人生のほうがいいに決まっている」
「自我」は絶えず私たちを誘惑して、「終わりのない幸せ追求のレース」へと駆り立てていきます。
「もっと人から認められたい」
「人から嫌われて孤独になるのは嫌だ」
そんな想いに囚われて苦しんでいる人は、世の中に多いものです。
そして、このような「渇いた想い」を生み出している元凶こそが、「自我」なのです。
もしも「自我」と一体化していると、私たちは「自我」を満足させるために生きるようになります。
もっと人から認められるように、なるべく人から嫌われないように、時に焦燥感に駆られ、時にはビクビクして怯えながら、私たちは生きるようになるわけです。
ですが、もし「自我」を「識別」できるようになると、この束縛が徐々に破壊されていきます。
それは、「自我」と間にあった自己同一化が、「識別」によって断ち切られるからです。
「『自我』は『自分』ではない」ということが「識別」できると、当人はだんだんと「自我」の言い分を気にしなくなっていきます。
そうしてやがては、「別に何者かにならなくてもいい」と考えるようになり、「仮に他人から嫌われて孤立しても、それによって自分の幸福が破壊されるわけではない」と理解し始めるのです。
◎「自我」による束縛が破壊される時、「穏やかな幸福感」が湧いてくる
そのような「自我」からの自由が実現することによって、当人は心から解放感を味わいます。
「自我」による束縛が破壊されることで、「穏やかで持続的な解放感」が訪れるのです。
私がこのブログのタイトルにつけている「存在する喜び」とは、この「自我からの解放感」のことです。
思考や感情によって縛られておらず、「自我」によっても束縛されていない時、当人は胸のあたりに「穏やかで持続的な心地よさ」を感じ始めます。
この「幸福感」を感じるためには、別に何者かになる必要はないし、大きなことを成し遂げる必要もありません。
ただ、「自分自身」として在ればいいだけです。
そして、つまりはそれが、「私は在る」という感覚の中に留まるということなのです。
そういう意味では、「識別(ヴィヴェーカ)」とは「自由を実現するための力」とも言えるのではないかと思います。
「識別」は私たちに束縛を破壊し、私たち自身を解き放ってくれます。
もちろん、「解放」は一気には訪れません。
まずは思考から去らねばなりませんし、感情や身体などとの自己同一化も破らなければならないでしょう(今回の記事では扱いませんでしたが、「身体との同化」も私たちの束縛の一つです)。
しかし、思考や感情や身体との同化を「識別」によって一つ一つ破壊していった上で、最終的に「自我」との自己同一化が打ち破られると、自由の実現はもう「時間の問題」です。
あとはただ、「私は在る」という感覚の中に留まることで、「穏やかな解放感」が訪れるでしょう。
それは、存在することそのものの中に宿っている「幸福感」であり、私たちが心の奥底でずっと求めていたものでもあるのです。
◎「識別(ヴィヴェーカ)」を育てることは、瞑想が目指す方向性の一つ
ということで、今回は「識別(ヴィヴェーカ)」に焦点を当てて記事を書いてみました。
おそらく、何らかの瞑想法を実践したことのある人は、「あぁ、あれって本当は『識別』って呼ぶんだな」と思ったのではないでしょうか?
実際、多くの人は「識別(ヴィヴェーカ)」という専門用語は知らなくても、いつの間にかそれを実践してしまっていたりするものです。
ですが、「識別」という概念を全く知らないと、瞑想の実践をしている途中で、自分がいったい何のために何をしているのか、不意にわからなくなってしまいがちです。
つまり、瞑想の実践というものがそもそもどこを目指しているものだったのかが、時々、人はわからなくなってしまうわけです。
そういう意味で言うと、「識別(ヴィヴェーカ)」を育てるというのは、瞑想の一つの方向性をはっきり示していると思います。
そして、この「識別」という力は、最終的には自由を実現することを助けてくれるものであり、瞑想の実践を続けることで、伸ばして行くことができるものでもあるのです。
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