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「心」のままに遊ぶように言葉を紡ぐ|「正しいことを書く人」と「感じたことを書く人」の違い

さっき投稿した日記の中で、「みんなもっと内面をさらけ出せばいいのに」と書いていたのですが、考えてみれば、そもそも世の中の多くの人は、私のように自分の思考や感覚をスムーズに言語化することができないのかもしれません。

ついさっき、考えを整理するためにAIを相手に壁打ちをしていたら、AIから「普通そんな簡単に言語化できないですよ」と言われて、「それもそうか」と気づきました。

「いや、気づいてなかったんかい!」と言われるかもしれませんが、今まで割と「誰でも言葉にしようと思えばできるものだ」と思い込んでいたところがあります。

実際、私自身は、約15年前に初めてネット上で文章を書き始めた時も、言葉に詰まるということがなくて、当時から何万文字も記事を書きまくっていました。

それくらい、私の中には「言いたいこと」がたくさんあり、それを言語化することにも苦労したことがなかったのです。

そういったこともあって、「世の中の誰だって、実は考えていることや感じていることがあり、言語化しようと思ったらできるはず」という先入観が、私の中には生まれてしまっていたものと思われます。

しかし、そんな私も昔から文章を書くことがスラスラできたわけではありません。

これは自伝で一度書いたネタなので、読んだ方は知っていると思いますが、小学生時代の私は作文の時間というのが苦手でした。

いえ、「苦手」などというレベルではなく、過去の私にとって作文の時間は「地獄」でした。

なぜなら、何を書いたらいいかが、まるでわからなかったからです。

そもそも、当時の私は自閉症スペクトラム(ASD)の特性からか、周囲の子たちの話について行くことが全然できませんでした。

子ども時代の私は、他の子たちの感情にも共感できなかったですし、彼らが話している内容にも興味を持つことができませんでした。

というより、話していること自体が難しすぎて、私にはそれらを理解することさえできなかったのです。

でも、まわりの子から「仲間外れ」にされるのが怖かった私は、「わかった振り」をして、相槌だけ打っていました。

「わかっていないことがバレたらどうしよう…」と内心では怯えながら、表面だけ話を合わせていたわけです。

しかし、作文の時間になった場合、「ただ相手の話を聞いて相槌だけ打つ」ということはできなくて、「自分の考え」を書かねばなりません。

つまり、「内側」から何かをひねり出さねばならないわけです。

そうはいっても、私は周りの子たちの話について行くことさえできない「ポンコツ」だったので、「自分はきっと欠陥品なのだ」と思い込んでいました。

だから、「そんな自分が考えることはきっとみんな間違っているに違いない」と思っていて、作文の時間には何も書くことができませんでした。

仮に書こうとしても、何も言葉が浮かんでこなかったのです。

おそらくそれは、「自意識」が働き過ぎていたからだと思います。

「こんなこと書いたらバカにされるんじゃないか?」という恐れや、「他のみんなから浮きたくない」といった想いがあったために、私は無意識に自分の思考や感情にロックをかけてしまい、それらを意識化できなくなっていたのでしょう。

このため、私は作文の時間になると「死後硬直した死体」のようにコチコチに固まったまま、国語の授業が終わるのを待つしかありませんでした。

でも、周りの子たちはみんな実にスムーズに作文を書いていました。

教室中に「コリコリ」と鉛筆が紙に当たる音が響いていて、当時の私は、その音からも「お前は無能だ!」と責められているかのように感じたものです。

たぶん、他の子たちは「どういうことを書けば教師から評価されて、クラスでも浮かずに済むか」を理解することができていたのだと思います。

だから、「実際に思ったこと」や「心の奥で感じていたこと」を書くことなく、「無難な回答」を書いて、やり過ごすことができていたのだろうと、今の私は想像しています。

実際、もしも「本当に思っていることや感じていること」を書こうとしていたら、きっと彼らだってそんな風にスルスルとは書けなかったはずです。

要は、「思っていもいない嘘八百」を書いていたからこそ、彼らはそこで何の葛藤もためらいも感じることなく、スラスラと書くことができていたのだと思うわけです。

しかし、当時の私には「嘘」をつく能力がありませんでした。

それは別に私が「誠実」だったからではなく、そもそも当時の私に、「嘘」をつけるほど他人の考えを想像することができなかったからです。

当たり前ですが、他人の心理的な動きを理解してこれを予測できない人は、「騙す」ということができません。

そして、当時の私はその能力がそもそも無かったわけです。

もしも当時の私に「他人を騙せるだけの想像力」があったなら、たぶん私も他の子たちのように「嘘八百」を書いていたのではないかと思います。

でも、それだけの能力がなかったその時の私は、何も書くことができずに固まっていることしかできなかったわけです。

しかし、そんな私に転機が訪れました。

小学校の高学年の時に、ある先生と出会ったのです。

その先生は生徒ときちんと向き合ってくれる人で、頭ごなしに子どもたちのことを否定したりしない人でした。

私も「この人は他の大人となんだか違う気がする」と感じていました。

そんなある日、その先生から「日記」の宿題が出されました。

簡単に言えば、「その日あったことを日記に書いて提出する」という課題が出されたわけです。

もちろん、私は顔面蒼白になりました。

「終わった…。また自分はなにも書けないんだ…」と思い、「どうやってこの課題をやり過ごすか」を考え始めました。

でも私は、「この先生だったら自分のことを否定しないかもしれない」という風にも感じていました。

それに、課題としてはただの「日記」であり、「感想文」のように意見や感想を書かねばならないわけでもありませんでした。

だから、私は「ただ、あったことをそのまま書けばいいだけだ!」と思って、勇気を出して「簡単な日記」を書いて提出したのです。

すると後日、その先生から日記が返却されました。

そして、おそるおそる返ってきた日記を見ると、そこには「先生の感想」が添えられていたのです。

そこには「よくできました」とか「もう少し頑張りましょう」とかいった「評価」は書いてありませんでした。

ただ、その先生自身が私の日記を読んで感じたことが、二、三行の短い言葉で添えられていただけです。

でも、私はそれがすごく嬉しかったのです。

そもそも、それまでの私は「評価されること」をいつも恐れていました。

周りの子たちの話について行けない自分のことを「欠陥品」だと思っていた当時の私は、「評価されなかったら自分は無価値だ」とも思っていて、「否定されたくない」という恐怖を、いつも抱えていたのです。

でも、その先生は「良い」とも「悪い」とも評価せずに、ただ「自分はこう感じました」ということだけを書いてくれたのです。

この違いがわかりますか?

そもそも「相手を評価する」ということは、上下関係が成立していないとできません。

「評価」をするためには、まず「評価基準」が決まっていないといけませんし、その際、「評価する人」は「自分は『正しい基準』に基づいて相手を評価できる」と思っている必要があるのです。

つまり、「評価」というのは常に「上から目線」であるということです。

でも、「自分はこんな風に感じました」とだけ言う時、その人はあくまで「自分が感じたこと」を伝えているだけであり、「自分の正しさ」を相手に押し付けたりしていません。

そして、その時の先生が私にしてくれたことも、まさにそれだったのです。

私はその時、自分のことを「一人の人間」として認めてもらえたような気持ちになりました。

何かを押し付けられることもなく、そのまま受け入れてもらえたように感じたのです。

それから私は、「日記の宿題」が終わった後も、個人的にその先生へ「日記」を提出し続けました。

先生はいつも読んだら感想を書いて返却してくれて、私はその感想を読むのが楽しみで文章を書くようになっていったのです。

そうこうするうちに、私の内側からは言葉がほとばしり出るようになっていきました。

頭で考えるより先に、「書きたい言葉」が自動的に浮かんで来るようになっていったのです。

つまり、「先生に読んでほしい!」という想いが原動力になって、私の中にそれまで埋もれていた言葉たちが、次々に掘り出されるようになっていったわけです。

私は徐々に、「否定されること」を恐れなくなっていきました。

既に当時の私は「この先生はきっと自分のことを受け入れてくれる」と信頼できるようになっていたため、「こんなこと書いてバカにされないかな?」とかいった「自意識」がもう働かなくなっており、言葉が内側でせき止められなくなっていたのです。

そうして、先生と私の間で「個人的な日記の交換」がしばらく続きました。

結局、その先生は次の学年に上がったタイミングで他の学校に赴任していってしまいましたが、私はその先生から多くの物を受け取ることができました。

私は「書くことの楽しさ」を知り、「言葉が届く喜び」を知ったのです。

以来、私は文章を書くことが苦も無くできるようになっていきました。

言葉はいつも自動的に内側から溢れ出てきて、私のコントロールを離れて文章を紡ぐようになっていったのです。

なので、もしも小学校時代にその先生と出会っていなかったら、私は今のように文章を書いていなかったと思います。

そうして、きっと私は「自分の考えはどこかおかしいに違いない」と考え続け、「他人からバカにされたらどうしよう?」と怯えて言葉を飲み込み続けていたはずです。

そういう意味では、このブログが存在するのも、その先生との出会いがあったおかげです。

「出会いが人を作る」とも言いますが、やはり「ご縁」というのは大事だとつくづく思います。


ともあれ、これが、私にとって「書くことの原点」になっています。

だから、私は読者から受け取ったメールに返事をする時も、なるべく「評価」はしないようにしようと思っています。

もちろん、私自身の経験から「見立て」を伝えたり、「アドバイス」を言ったりすることはありますが、「これが正解だ」と言って押し付けることは避けるよう意識しています。

言い換えると、私はいつも「心」に従って書いているのです。

「心」は「正しいかどうか」は気にしていなくて、「楽しいかどうか」を重視します。

それゆえ、私はいつも「この言葉をここに置くとワクワクする」とか、「ここにこのフレーズを置くと呼吸が深まる」とかいった基準で言葉を選択しています。

つまり、私は「『正しい理屈』を先に頭の中で用意してからそれを出力する」ということはしていないわけです。

むしろ、私はいつも行き当たりばったりで、「感じたこと」だけを書いています。

でも、「頭」を使って文章を書く場合には、たぶん「感じたこと」より「正しいこと」を書こうとするはずです。

当人は先に「自分の意見」を確定させ、それと矛盾しないように論理を展開して、「自分が正しくて相手は間違っている」ということを、なんとかして証明しようとし始めるでしょう。

仮に本人が「そうしよう」と思っていなくても、「頭」を中心に文章を書いていると、どうしてもそうなってしまうと思います。

ですが、「心」は「正しいこと」ではなく「感じたこと」をそのまま書こうとします。

そしてそれは、「自分の正しさ」を証明するための言葉ではなく、ただ「自分の心」を表現した言葉となっていきます。

だから、「心」のままに書いていくと、自然と「あなたはそう思うんですね。ちなみに、私はこう思います」というような「適度な距離感」を保つことができるようになっていくものです。

相手の考えを否定せず、かといって自分が感じたことを否定することもしない。

ただ、「相手の心が感じたこと」と「自分の心が感じたこと」を共鳴させながら、素直に対話することができるのです。

思うに、世の中には「頭で書く書き手」「心で書く書き手」の二種類の書き手が存在します。

そして、「頭で書く人」はいつも「正しさ」に固執しては相手を論破しようとします。

逆に、「心で書く人」は、あくまで「感じたこと」を書くだけなので、相手を論破する必要を感じません。

その人は、「とにかく、自分はこう感じたんだ」と言うだけで、それを別に相手に無理やり飲み込ませようとはしないのです。

このため、「頭で書く人」が私のような「心で書く人」とやり取りをすると、「ちょっと面白いこと」になります。

相手は必死で「自分のほうが正しい」と主張しようとするのですが、私がそれに取り合わないものだから、相手が調子を崩して自滅してしまうのです。

しまいには、その人は何が言いたかったのかわからなくなって、言葉が出てこなくなってしまいます。

だって、いくら「正しさ」を主張しても、私のほうは「なるほど、あなたはそう思うんですね。ちなみに、私はこう感じています」と言って、両論併記するだけで終わってしまうのです。

さらに私は、「そういえば、今の話を聞いていてこんな話を思い出しましたよ」とか言って全然関係ないことを言い出すことさえあります。

私の心の中では「内的な必然性」があって話が繋がっているのですが、相手からすると、意味がわからなくて絶句するしかないんじゃないかと思います。

しかし、不思議なもので、そんな風に脊髄反射的に「心」が感じたことを即興的に書いている割には、私の書く文章というのは、後で読み返してみると、ちゃんと筋が通っています。

これについてはもう「心というものにはもともと叡智が備わっている」と考えるしかないんじゃないかと私は思っています。

つまり、わざわざ「頭」を働かせて書かなくても、「心」のまま書くならば、「論理的な整合性」とか、「主旨の一貫性」とかは、自然と成立するものだということです。

私はそれが経験的によくわかっているので、「心」に従うことに対して迷いがありません。

つまり、私はちっとも「自力」で書いていないのです。

私は「心」が感じたままに書けばいいだけです。

自分で一から考える必要はなくて、言葉は向こうから勝手にやってきます。

そして、結果的に、そんな風に「他力」で書くほうが文章のクオリティも上がるし、物事の本質を抉り出すこともできるのです。


というわけで、今回も感じたままに書いてきましたが、結局何が言いたいかというと、
「別に難しいことを書かなくてもいい」ということです。

普段、私の書く記事を読んでいる人は、もしブログの記事にコメントを書いたり、私にメッセージを送ったりしようと思った時は、「自分も負けないくらいきちんとした文章を書かないといけないんじゃないか…」という意識になるかもしれません。

でも、別に「名文」を書く必要なんてないんです。

ただ、「感じたまま」を書けばいいだけです。

たとえそれがどんなものであれば、「心」が感じたことであるならば、それは「あなたの真実」です。

逆に、「頭」の中で理論武装して私を言い負かそうと思ったら、たぶんあなたは「肩透かし」を食らいます。

なぜなら、私は「論争」に興味がないからです。

あなたの攻撃は全て「暖簾のれんに腕押し」の「ぬかに釘」状態になります。

そうして、きっとあなたは一人で疲れ果ててしまうでしょう。

それは不毛なことなので、鎧も武器も捨てて、ただ一緒に「遊び」ましょう。

井上雄彦の漫画『バガボンド』に出てくる剣豪・伊藤一刀斎も言っています。

「剣に生きると決めたなら、正しいかどうかなんてどうだっていい」
「感じるべきは、楽しいかどうかだ」

私たちは剣術家ではありませんが、言葉というものは時に「刃物」にも成り得ます。

「そんな『危ないもの』で遊ぶなよ」と言われればそれまでなんですけれど、実際には「正しさ」に基づいて「剣」を振るう人のほうが、その「正しさ」の元に人を斬ることをためらわないものです。

実際、戦争というのは「正義」と「別な正義」が衝突するときに起こるものです。

そこに在るのは「正しさ」だけです。

そして、こういった「正しさ以外は認めない」という態度を持つ人こそが、「生きた人間」を容赦なく切り刻むのです。

なので、もしもブログにコメントを書いたり私に個人的にメッセージを送る時には、ぜひ「遊ぶ」ような気分で書いてみてください。

それが難しければ、ただ感じたままを書いてみてください。

胸の鼓動を確かめながら、どの言葉があなたの呼吸を深めるかを、「自分の心」に問いかけてください。

それがきっと、あなたにとってこれ以上ないほど素晴らしい「瞑想」の機会になるでしょう。


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