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「信頼」という名の明け渡し|「蛮勇」と「本当の勇気」の違いについて

最近、お問い合わせなどで複数の方と並行してやり取りをしているのですが、
どの方も「勇気」があると思います。

なぜなら、私にお便りをすることで、その人はある意味、私の目の前にある「まな板」の上に自分自身を載せているからです。

「言葉を書く」というのは恐ろしいもので、書いた言葉の中にその人のことが如実に表れてしまいます。

そこには、その人の「弱さ」や「限界」がにじみ出てしまい、それは決して隠すことができません。

むしろ、隠そうとすればするほど、それらは余計に読む人には透けて見えてしまいます。

だから、私はこのブログで自分の「弱さ」も「限界」も隠さないことにしています。

どうせ隠してもバレるのです。

だったら、最初から大々的に公開しておいたほうが、スッキリして良いというものです。

ともあれ、私に直接お便りをくださる読者の方たちというのは、私の眼前に「弱さ」や「限界」をさらす覚悟のある方だと思います。

たぶん、彼らも最初からそれだけの覚悟はなかったはずです。

でも、「伝えたい」「一歩踏み出したい」という想いのほうが、「怖さ」をちょっとだけ上回った時、思い切って私にメッセージを送ってくれたのでしょう。

そういう意味で、彼らは「勇気」を出して私のことを信頼してくれた人々だと思っています。

彼らは、「最悪、この人にだったら斬られてもいいか」と思ったはずです。

なぜなら、私たちが他人とかかわる時、「相手が絶対に自分を傷つけてこない」という保証はないからです。

それゆえ、「信頼」とは一種の「明け渡しの行」です。

私たちはいつも「未来」を恐れます。

そうして、他人に向かって閉じていくのです。

なぜなら、そうしていれば、「傷つくこと」を避けられるからです。

でも、他人に向かって閉じていると、「心の風通し」が悪くなるので、だんだん息が詰まってきます。

だから、人はどこかで思い切って自分を開きます。

「自分はこんな弱さを抱えているのだ!」
「自分はこんな限界を抱えて生きているのだ!」

そう言ってその人は、「それでも自分はあなたとかかわる」と告げます。

もちろん、そこには「恐怖」があります。

なぜなら、相手から反対にバッサリ斬られる可能性が、いつも残っているからです。

だから、最終的には「最悪、この人にはもう斬られてもいいか」と覚悟が決まらないと、人は踏み出すことができません。

私自身にも経験があります。

胸の中には「強い想い」があるのだけれど、それを伝えた時、相手から拒絶されたり否定されたりすることが怖くて、どうしても言い出せないのです。

時には、何年間もそうして言葉を抱えたまま過ごしたことがありました。

でも、私はだいたい、最終的には想いを伝え、受け入れられたり斬り捨てられたりしてきたのです。

誰かに向かって踏み出す時、人は「未知」へと自分を開いていきます。

「自分がこれからどうなるかわからない」ということに対して、防御を解いているとも言えるでしょう。

そして、なぜそんな風に防御を解いたのかと言えば、その人が相手を信じることに決めたからです。

多くの人は知りませんが、「信頼すること」というのは意識を覚醒させる「行」なのです。

実際、意識が覚醒すればするほど、「信頼すること」は容易になっていきます。

なぜなら、意識が覚醒している人は、「未知」を恐れることがないからです。

そして、なぜ彼が「未知」を恐れないかというと、その人が「自我」が傷つくことを恐れていないからです。

でも、最初のうちは、「未知」によって自分が傷つく可能性を感じると、人は「恐れ」を覚えます。

それゆえ、「最初の一歩」はどうしても心のどこかで「恐れ」を感じながらなされることになります。

当人は内側に「恐れ」があるのを自覚しながら、それでも前へと踏み出します。

そして、この「恐れを自覚しながら踏み出す」というプロセスが、当人の覚醒を深めるのです。

実際のところ、恐れているのは「自我」なのです。

「自我」はいつも物事をコントロールしようとし、「未来」を確定したものに変えようとします。

そうして、自分の中にあるセルフイメージにしがみつき、それを他人によって壊されることに怯え続けています。

ですが、そんな風に「自我」が怯えていても、私たちはには前に踏み出すことができます。

そういう意味で、「本当の勇気」とは決して「蛮勇」のことではありません。

実際、「恐れをそもそも感じたことのない人」というのは、「勇気」について何も知りません。

「勇気とは何かを知っている人」というのは、「恐れ」を感じながら、なおもそれに支配されないでいられたことのある人だけです。

私たちが生きていれば「恐れ」を感じることはあります。

そうして多くの人は、「恐れ」を前にすると、足がすくんで動けなくなり、やがてUターンして帰っていきます。

でも、一部の人たちは、そこであえて前へと進みます。

「恐れ」と直面したまま、それを抱えたまま、なおも「未知」の中へと入っていくのです。

そうしたことを続けていると、どこかの段階で「恐れを感じなくなる状態」に至ります。

でもそれは、「そもそも恐れを感じたことのない人の蛮勇」とは違います。

その人は、何度も何度も「恐れ」に直面し、それを自覚的に乗り越えていくことによって、自分の中に「本当の勇気」を育て続けた人なのです。

なので、もしも読者が私にメッセージを送るなら、その人の瞑想はもう始まっています。

その人はきっと私に送る文面を何度も確認したでしょう。

人によっては送信ボタンを押す指がいくらか震えていたかもしれません。

それくらい覚悟して自分と向き合う人の覚醒が、深まらないわけがないのです。

もちろん、気軽にメッセージを送れる人もいるでしょうけれど、もしも私とある一定以上に深くかかわる場合、そこには「覚悟」が必須です。

なぜなら、私は「この人と向き合う」と決めたら、とことんまで向き合う人間だからです。

私はその人の中の「弱さ」を見て、その人が抱えている「限界」を見ます。

そして、当人もまた、必然的にそれらと向き合うことになります。

でも、人によっては、そこに解放感を感じるでしょう。

弱さを認めてしまうこと。
限界を受け入れてしまうこと。

それによって、その人はかえって「自由」になります。

そうして、きっとその人はこう思います。

「なんだ、自分は別にこれで良かったんじゃないか」と。

私たちはみんな「弱さ」や「限界」を抱えて生きています。

それらを隠したまま生きていくことはできません。

なぜなら、それらの「弱さ」と「限界」は、私たちの一挙手一投足の中に表現されてしまうからです。

地位や権力を手に入れることで、そうしたものを隠そうとする人もいますけれど、そうやって隠せば隠すほど、「見える人」にはちゃんとそれらが透けて見えてしまいます。

だから、本当は誰もが「裸の王様」です。

「バレていない」と思っているのは、本人だけなのです。

このことがわかると、段々、「隠すだけバカバカしい」と思うようになっていきます。

少なくとも、私はそう思っていますので、いつも「もーだめだー」とか「またやっちまったー」とか、ブログで平気で言っています。

別に「完璧」になろうとしなくていいのです。

なぜなら、あなたは既に「完璧」だからです。

あなたには何も付け加える必要がありません。

あなたが身に着けている「弱さ」さえもが、あなた自身の一部です。

だから、それを切り捨てて隠す必要はないのです。

必要なのは、生きることです。

「弱さ」それ自体を生きることによって、あなたはそれを受け入れます。

そしてその「弱さ」があなたの中の「勇気」を育て、あなたを覚醒させるでしょう。

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