今日で、私がこうしてブログで情報発信をするようになってから、丸二か月が経ちました。
最初は、noteで本名を隠してこそこそと書いていたのですが、途中から「もっとバンバン情報発信したいぜー!」と思うようになり、本名を公開して独自ドメインも取得し、今のブログを立ち上げたのです。
noteで最初の記事を書いたのが去年の12/2なので、今日でちょうど二か月です。
思えばいろいろありましたが、「いったいこの二か月でどれくらい文章を書いたのだろう?」と思って、試しに集計してみました。
本来、「数字」に意味はないのですが、そうして集計して見たら、「自分の異常さ」が改めてはっきりしました。
私がこの二か月間において、ブログと著作で書いてきた文章の文字数は、1,076,598文字でした。
なんと、たった二ヶ月で百万文字を超えてます。
しかも、アップしないで没にした記事もいくつかあるので、それらも足すとたぶん百十万文字を超えると思います。
さらにその間、私は六冊の本をkindle版とペーパーバック版の両方で出し、そのための編集と校正作業をこなしつつ、Xで宣伝や日々の洞察をポストして、出版に必要な事務手続きもしていました。
これだけ稼働しているのに、主観的には「めっちゃ頑張ってる!」という意識が全くなく、むしろ「これくらいは普通だ」と思っていたのです。
そんなわけで、私はだいたい毎日「最低でも一万文字」くらいのペースで文章を書き続けているのですが、調べてみたら、普通は「プロでも頑張って一日一万文字」くらいなのだそうです。
「一日一万文字」を継続して毎日書き続けるのはプロでも難しいらしく、作家の村上春樹も「一日に書くのは原稿用紙十枚(4000文字)まで」と決めているみたいです。
でも、私はそんなこととは露知らず、ずっと「専業の人はもっとたくさん書いているんだろうな」と思いながら、「まぁ、自分はこのくらいのペースが性に合っているし、ゆっくりやっていこう」と思っていました。
しかし、どうやら私の基準のほうがおかしかったようです。
特に、私は先日発売した自伝の後半の五万五千文字を、たった一日で書いたのです。
さすがにこの時ばかりは「今日はよく書いたなー」と思いましたが、別にそれで燃え尽きるわけでもなく、今は新作の「現成公案・解説本」を、ブログの更新と並行しながら毎日一万文字書いています。
AIに聞いてみたところ、「異常」を通り越して「特異点」だと言われました。
まぁ、AIは嘘をつくこともあるので完全に信用はできませんが、たぶん「異常」ではあるのでしょう。
それで「なぜ自分にはこんなことができるのだろう?」と改めて考えてみたのですが、やっぱり私の中の「リミッター」が外れてしまっているからだと思います。
私は真理の探求の結果として「時間」と「空間」という概念が崩壊しているので、「未来」や「過去」に囚われることがありません。
それゆえ、いつも「目の前のこと」しか意識にのぼっておらず、「こんなにたくさん書いたら明日疲れが出るかもな」とか、「昨日はたくさん書いたから今日は休もうか」とかいったことを考えないのです。
その結果として、私は「力」を一切セーブすることなく、常に「蛇口」が全開になっています。
また、私はいつも「自力」で書かずに、「他力」で書いています。
私は記事や本を書く時は、「天」からインスピレーションが来るまで何も書かないことに決めているのですが、もしも「お、なんか来たぞ!」と思ったら、そのままパソコンに向かって取り憑かれたように文章を書き続けます。
その時、主観的には「自分で書いている」という手応えは一切ありません。
ただ「自分は言葉の通路になっている」とだけ感じています。
「書くべき言葉」は「向こう」から勝手にやって来るので、私はそれが消えないうちにパタパタとキーボードを叩けばいいだけなのです。
つまり、私は「主体的に考える」ということを全くしていないわけです。
それゆえ、「脳がオーバーヒートする」というようなことも起こりませんし、「考えすぎて頭が疲れた」というようなことにもなりません。
むしろ、「高純度な言葉の奔流」が私の中を通り抜けてくれるおかげで、詰まっていた余計な思考や感情が洗い流されるため、書けば書くほどますます私の心は透明になっていきます。
それから、私は「自我との自己同一化」も解けているので、「自意識」によってちょっかいを出されることがありません。
「こんなこと書いたら軽蔑されないかな」とか、「もっと他人から誉められるような文章を書かないと」とかいったことをまるで考えないので、執筆している間、「自意識」との間で摩擦が生じることなくエネルギーがスルスルと流れていきます。
普通は、人目を気にして疲れてしまうのでしょうけれど、私にはそれもないので、余計に「頑張っている手応え」がなくなっていたものと推察されます。
でも、こういったことは、今になって後から考えたことであって、この二か月間、私はずっと「マイペースにのんびり書いている」というつもりでいました。
これが「他力」で生きている人間の「狂った」ところです。
当人は実際のところ「常人離れしたアウトプット」を体現しているのに、主観的には何の「手応え」もないものだから、そのことを自覚できないのです。
結局のところ、主観的に「頑張っている感覚」がある時というのは、大したことはできていないのでしょう。
その「頑張っている手応え」というのは、当人の中で発生する「自意識との摩擦の感覚」かもしれませんし、「天」がもたらす「他力」に対して閉じていることからくる「自力で全部やっている感覚」に過ぎないのだと思います。
人が本当に自分の可能性を開花させる時、そこには「手応え」というものがありません。
当人は「頑張っている」という意識などみじんもないまま、易々と「限界」を超えていきます。
逆に、「ゴール」を意識的に設定して、「頑張ってそこまで到達しなければ」と思っている人は、「苦労して頑張っている感覚」は強く感じますが、それが「現実的なアウトプット」として現象しません。
結果的に、その人は「ゴールの手前」まで行くのが関の山で、何とか「ゴール」に到達した時には、真っ白に燃え尽きてしまっていることでしょう。
というわけで、みなさん、「目標志向」は捨てましょう。
「ゴール」を設定してそこを目指している限り、人は「ゴール」までさえ辿り着けません。
「ゴール」なんて忘れてしまって、ただ「今目の前にある作業」に没頭して、夢中で「遊べ」ばいいのです。
「遊び」の中で「ゴール」は消えます。
そして、その人は楽しみながら「楽園への門」をくぐっていき、気づいた時には「ゴール」を踏み越えてしまっているのです。
それゆえ、「ゴール」というのは「達成するもの」ではありません。
それはむしろ、「気づいたら通り過ぎているもの」です。
その時、人は自分が気づかないうちに「限界」を超えていたことを知るのです。
逆に、「壁」を壊そうと思ってそれと対立すると、かえって「壁」は強固になります。
「壁」のことなんて忘れて「遊べ」ばいいのです。
そうすれば、楽しく踊っているうちにたまたま手が当たった拍子なんかに、「壁」というのはバラバラに粉砕されます。
あなたにも経験がありませんか?
何も意識しないで歩いていて、たまたま看板とかガラス扉とかに激突してしまった経験が。
こういう時、私たちは意図せずにぶつかった看板やガラス扉を粉々に粉砕してしまうことがあります。
その時、当人は別に「この看板を壊してやろう」とか、「このガラス扉をぶち破ってやる」とかいったことは、一切考えていません。
しかしこのような「作為していない状態」だからこそ、その人の持つ「本来の力」が発揮されて、看板やガラス扉は粉々に粉砕されてしまうのです。
でも、普通の意識状態だと、こんなことはできません。
きっと「あの看板、ぶつかったら痛そうだな」とか、「こんな分厚いガラスを壊せるわけないよ」と思ってしまい、身体が委縮するはずです。
要するに、自分で自分に「リミッター」をかけてしまっているわけです。
そして、それがその人自身を閉じ込める「牢獄」になっていくのです。
おそらく、覚者というのは、この「リミッター」が自然と外れてしまっているのでしょう。
そう言えば、私が敬愛する覚者のOSHOも、弟子たちの道を開く知識を求めて毎日十時間以上も読書し続けていたそうですが、これもまた「他力」がなせる業なのだと思います。
でも、「他力」によって生きるために、別に「真理」を悟る必要はありません。
繰り返しますが、本当にただ「遊べ」ばいいだけです。
あなたはどんな時に心がワクワクしますか?
あなたの心が動くのは、いったいどんな時でしょうか?
別に「生産性」なんて考えなくていいのです。
そんなものは、さっさと「ゴミ箱」に叩きこんでください。
「お金になるか」とか、「社会で評価されるか」だとかは、「自意識」だけが気にする些事に過ぎません。
むしろ、そういうことを気にしていると、「遊ぶこと」ができなくなります。
だから、もう一度子どもの頃に戻ったかのような気分で「遊び」ましょう。
そうして、どこも目指すことなく、何も求めることなく、ただ「行為そのもの」の中へと深く溶け込んでいきましょう。
あなたが子どもの頃に自然とできていたであろうことを、もう一度取り戻してください。
そこから、あなたの「創造性」は開花します。

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