大人になってから検査をしてわかったのですが、私には発達障害的な特性があります。
診断名としてはASD(自閉症スペクトラム症)で、他人の気持ちに共感する能力や、話の文脈を理解する能力の欠如を伴います。
同時に、「特定のルーティン」に強いこだわりを持つことがあり、一つのことをやり出すと驚異的な集中力を発揮することがあるのです。
なお、医学的には発達障害は「生まれつきの脳の傾向」とされており、「直ることはない」と言われています。
思い返してみると、私は子どもの頃、まわりの子たちが話していることが理解できなくて、いつも困惑していました。
これは自伝でも書いたのですが、子どもの頃の私は、自分のことを「欠陥品」だと思っていたのです。
なぜなら、当時の私は「まわりの子が当たり前に知っていること」を自分だけ知らなかったり、「まわりの子が当たり前に理解できること」を自分だけ理解できなかったりしたからです。
他の子たちが話で盛り上がっていても、私には一つも共感できませんでした。
そもそも、そこで話されている話題が理解できませんでしたし、それの何がそんなに面白いのかもわかりませんでした。
でも、「仲間外れ」になるのが怖かった私は、「わかっている振り」をして相槌を打ち、話を合わせていました。
それゆえ、私は「自分はきっと欠陥品なのだ」と思うようになると同時に、「それが他の子たちにバレたらどうしよう」と恐れるようになっていったのです。
私はまるで、「血の通った人間たち」の中に間違って混じってしまった、「無感情なロボット」になったような気がしていました。
それは、「まわりの子たちや先生は、僕のことをひとまず『人間』だと思っているけれど、実は僕は『ロボット』なのだ」という妄想です。
そして、「自分がロボットだとバレたら終わりだ」と、過去の私は思っていたわけです。
実際、「もしも『それ』がバレたら、自分は追放されてしまう!」と、当時の私は思い込んでいました。
「お前は違う!」
「こいつは紛い物だ!」
「さっさと出ていけ!」
そんな風に言われて追い出される妄想に囚われて、しばしば恐怖に駆られていたことを思い出します。
また、当時の私の家では両親が共働きをしていたのですが、一人っ子だった私は、いつも家で一人で過ごしていました。
父は、私が朝起きた時にはもう出勤しており、夜は私が眠ってから帰ってきていました。
それでいて、休日には父は趣味の集まりに出かけていたので、子どもの頃の私は、「父の顔を一ヶ月に一度見るかどうか」という状況でした。
母の顔は、いちおう毎日見てはいましたが、看護師をしていた母は、いつも私に朝ご飯を急いで食べさせては、バタバタと仕事に向かっていきました。
学校から帰ってきても、基本的にそこには誰もおらず、母は夜勤の場合も多かったため、夜は一人で寝ることもしばしばでした。
そんなわけで、私は学校での孤立感を家で埋めることもできませんでした。
私は自分のことを「欠陥品」とか「血の通っていないロボット」のように考えながら、深い孤独感に苛まれていたのです。
その結果として、私は「絶対確実なもの」を無意識に求めるようになっていきました。
「なんとなく確からしい」というくらいじゃ、私には足りませんでした。
なぜなら、当時の私が感じていた「不安」は、あまりにも根源的なものだったからです。
私のような発達障害的な特性を持つ人たちというのは、「予想外のこと」が発生するとパニックを起こすことがあるのですが、それはそういった人々が「絶対確実なこと」を求める傾向があるからです。
こういった特性がある人たちは「世界の不確実性」にうまく馴染むことができません。
彼らは「心から安心していられる場所」というものをどこにも見出すことができず、いつも「不安」を抱えて苦しんでいます。
それゆえ、彼らは「特定のルーティン」に固執することがあります。
たとえば、自分の筆箱に入っている鉛筆の本数を意識的に固定しておき、当人はこれを何度も繰り返し数えて確かめたり、登下校の時に絶対寄り道せずに、「いつも必ず同じルートで行き帰りすること」にこだわったりします。
なぜなら、そういった「儀式」をおこなうことによって当人は、「このことだけは絶対確実だ」と思って安心できるからです。
筆箱の鉛筆の数をカウントすることで、「今回も同じ本数在った」と確認できると、その子は安心します。
彼/彼女は「大丈夫、世界は今日もおんなじだ」と信じることができるのです。
また、登下校の時に「いつも同じルート」を通ることによって、その子は「予想外の出来事」と遭遇する可能性を下げることができます。
「いつものルート」の中にある「いつもの風景」を見て、そこに在るものを確認することで、その子は安心することができることでしょう。
そうして、「大丈夫だ、世界は何も変わっていない」と、その子は思うことができるわけです。
でも、もしも何らかの理由で鉛筆の本数がいつもと違っていたり、「いつものルート」の途中にあるお店が閉店して取り壊し工事をしたりすると、その子はパニックになってしまいます。
なぜなら、それによってその子は、「世界の安定性が崩壊した」と感じるからです。
このような傾向があるため、ASD(自閉症スペクトラム症)の特性を持つ子どもは、しばしば授業や他人の話に集中することが難しいです。
その子は、「世界はこの瞬間も安定しているだろうか?」ということが気になって仕方ありません。
そして、彼/彼女は「世界の安定性」を確かめずにいられなくなります。
というのも、当人にはこの世界の中のどこにも「安心できる場所」がないように感じられているからです。
結局のところ、私が後年、精神的な失調をたくさん経験し、最終的に「真理の探求」をするようになったのも、このような傾向のためだったのかもしれません。
私は大人になってから「不安」や「恐怖」に駆られてパニックを起こすようになっていきました。
「他人からどう思われているか」ということが気になって深く苦しみ、オーバードーズで自殺未遂を図ったことも二度あります。
そして、私は「自分自身の問題」を解決するために、あらゆる知識や技法を学んで実践し、「道」を求めてもがくようになっていったのです。
しかし、どれだけ学んでも、私は「絶対確実なこと」を見つけることができませんでした。
子どもの頃の願い、「絶対確実な安心感を得たい」という夢は、その時の私の中でも、まだ生き残っていました。
おそらく、世の中のほとんどの人はそこまでの「執念」を持たないでしょう。
多くの人は「なんとなく確からしい」くらいで満足して、それ以上は追求しないはずです。
でも、私は「なんとなく確からしい」というようなものでは、全然足りませんでした。
実際、過去の私は「相対的なもの」では満足できませんでした。
私はいつも「絶対的なもの」を求め続けていたのです。
そして、最終的に私は「それ」に辿り着きました。
その「絶対確実なもの」とは、「自分は存在する」という、至極当たり前な事実だったのです。
瞑想の実践を続けて「覚醒」が深まっていくと、どこかの段階で思考や感情が完全に沈静化し、当人は「無」と直面します。
しかし、その「無」の中で、当人は「無を見つめている者」の存在に気づきます。
それこそが、「本当の自分」です。
ちなみに、この「本当の自分」に初めて気づく体験を、禅宗では「見性」と呼んでいます。
【関連記事】
禅宗における「見性」について|「覚醒」の中で生きる人だけが「生の美しさ」を知っている
この「本当の自分」だけは、「絶対に失われることのないもの」です。
たとえ何が起ころうとも、「自分」が「自分」でなくなることだけはあり得ません。
そして、この確信の中に留まっていると、私は次第に気持ちが落ち着いてきて、胸のあたりに「穏やかで心地よい感覚」が発生し始めました。
「あぁ、そうだ。別に何も間違っていない」
「何も変える必要はない」
「全ては最初からこのままでいい」
私は徐々にそんな風に感じ始めたのです。
そして、この「安心感」は次第に日常の全てに広がっていきました。
私は「自分は存在する」という「絶対確実な足場」を獲得し、徐々に、人生において何が起ころうと、それによって狼狽することがなくなっていったのです。
思うに、私がそんな風に「真理」を理解できたのは、おそらくそれだけ私が「臆病」だったからです。
私には「相対的な確実さ」では足りませんでした。
あまりにも「臆病」だった私には、「絶対に確実なもの」が必要でした。
だからこそ、「本当の自分」を見つけ出すまで歩くことを、私にはやめられなかったのです。
私は、本当に「自分の意志」でそこまで歩いたのかどうか、よくわかりません。
私の中にあったのは「執念」だけです。
私の中には、「『絶対確実なもの』を見つけない限り、安心できる日は絶対来ない」という確信だけがあり、私は途中で歩みを放棄することが、どうしてもできなかっただけなのです。
そういう意味では、私の中にあった「臆病さ」こそが、私をして最後まで歩かしめた「原動力」でした。
もしも私が「臆病」でなかったら、私はここまで歩いてくることができなかったでしょう。
「神」は私を「臆病な人間」として創ったわけですが、それが実は「神の恩寵」であったわけです。
だから、私は「過去の自分の臆病さ」に感謝しています。
なぜなら、他でもない、私が抱えていた「臆病さ」が、私のことをここまで育ててくれたものだからです。
人にはみんな「個性」というものが刻印されています。
時には、その「個性」があまりにも他人と違っているものだから、当人はそれを気にして「自分は欠陥品なのではないか?」と感じることもあります。
精神科医の泉谷閑示さんは、そういった「個性」について、「角」という言葉を使って、こんな風に書いています。
私たちはみんな、ほかの人とは違う「角」を持って生まれてきました。(…)
この「角」は、何しろひときわ目立ちますから、他人は真っ先にその「角」のことを話題にしてきます。
動物としての習性からでしょうか、集団の中で「角」のためにつつかれたり冷やかされたりして、周囲から格好の餌食にされてしまうこともあります。(…)自分が自分らしくあること、その大切な中心である「角」、それを自分自身で憎み、邪魔にして隠しながら生きるようになってしまうと、生きること自体が色あせ始め、無意味なものに感じられるようになってきます。
生きるエネルギーは枯渇し、全てが立ち行かなくなってしまいます。泉谷閑示、『「普通がいい」という病』、講談社現代新書
私たちの中には、生まれつき「個性」が埋まっているのですが、それは時に、私たちの内側を突き破って、表層まで「角」として露出してくることがあります。
すると、人によっては「馬だけの集団に混じったユニコーン」のような状態になってしまい、まわりから排除されたり攻撃されたりすることにもつながっていきます。
そして、やがて当人は「こんな『角』があるから生きにくいのだ」と考えて、それを取り除こうとし始めるのです。
私自身も、かつて「自分の臆病さ」を憎み、それを取り除こうと努力したことがありました。
心を強く鍛えることで、「臆病さ」を乗り越えようとしたのです。
しかし、私の「臆病さ」は並大抵のものではなかったため、ちょっとやそっと心を鍛えたくらいでは「焼け石に水」でした。
いくらメンタルトレーニングやポジティブシンキングを実践してみたところで、私の中の「不安」は全然なくならなかったのです。
そもそも、私の中の「恐れ」の根っこは、「まわりの子と自分は違う」という幼少期の実感でした。
そしてその時の私は、「まわりの子たち」のほうに「正しい」というラベルを貼り、「自分自身」には「間違っている」というラベルを貼ったのです。
でも、いったい何が「間違い」だったのでしょうか?
実際私は、私の中にあった「臆病さ」に導かれながら、ここまでやってきました。
私が今のようにブログや本で情報発信をしながら、日々を幸福に生きられているのは、間違いなく私が「臆病な人間」だったからです。
私は確かに「臆病な人間」でしたし、今もまだ「臆病」なままです。
だからこそ、「自分は存在する」という「絶対的な足場」にずっとしがみつき続けています。
そして、「自分は存在する」ということ以外の物事については、「不確実だから心の底から信じはしない」という立場を取っています。
しかし、それによってかえって私は「不安」や「恐れ」に囚われることがなくなり、迷いや疑いからも「自由」でいられます。
これらは全て、私自身の「臆病さ」が生んだものなのです。
私は「臆病な人間」ではありましたが、別に「間違った人間」ではありませんでした。
あくまでも、私がそこに「間違っている」というラベルを貼ったことで、それが「間違ったもの」のように見えてしまっていただけに過ぎなかったのです。
あなたの中にも、きっと何かしらの「角」が埋まっているはずです。
ひょっとしたらあなたはそれを深く憎み、これを取り除こうと必死になっているかもしれません。
しかし、その「角」もまた、あなたの一部なのです。
それゆえ、この「角」を切除してしまうと、あなたは「一つの全体」であることができなくなって、バラバラに分解されてしまいます。
もしもあなたがバラバラに分解されると、そこには「分離感」や「葛藤」がつきまとうようになります。
あなたは「自分自身」と敵対し始め、内側は常に「戦争」が絶えなくなるでしょう。
自分の中の「内戦」を終わらせるためには、自分が無意識に貼っているラベルを一つずつ剝がしていく作業が必要です。
「自分が『正しい』と思っているものは、本当に正しいのだろうか?」
「自分が『間違っている』と決めつけているものは、本当に間違っているのだろうか?」
そうやって自問することで、ラベルは少しずつ剝がれていきます。
そもそも、この世には「正しい人間」もいなければ、「間違った人間」も存在しません。
人はただ、「その人自身」であるだけです。
それゆえ、もしもラベルが全て剥がれると、人は自然と「個性的」になっていきます。
人は外から知識や技術を付け足すことで「個性的な人間」になろうとしますが、本当は話は逆なのです。
必要なのは「落とすこと」です。
もしも「本当の自分」の上に塗り重ねられた全ての「色」が落ちたなら、そこに現れる「透明な心」は、「その人だけの色」を表現し始めます。
人は、「色を塗り重ねること」によってではなく、「透明になること」によって、「自分の色」を獲得するのです。
だから、「あなたの色」を思い出してください。
それは、あなたの中に最初から在ります。
あなたには何も足す必要がありません。
むしろ、「余計なもの」を取り除く必要があるだけです。
しかし、人々は「上に塗り重ねた余計な色」を落とさずに、「本当の自分」のほうをなくそうとします。
なぜなら、社会は「個性を捨てること」を求めるからです。
誰もが「偽りの色」を塗り重ねて生きています。
男も女も、誰もがみんな「厚化粧」です。
そうやって「本当の自分」を押し隠したまま、なんとかして「体面」を保とうとします。
なぜなら、そうしていないと社会から受け入れてもらえないからです。
でも、もしも表面に居座っている「偽り」が落ちたなら、奥から「本物」が現れます。
そして、「息苦しさ」から解放されるためには、「本物」を生きられるようにならないといけません。
誰もが「本物の人間」です。
どこにも「ロボット」なんていやしません。
だから、「本物」を生きてください。
他の誰とも違う「あなたの色」は、そこで、「あなたの帰り」を待っています。

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