一昨日から書き始めた「道元の現成公案解説本」ですが、全体像が少しずつ見えてきました。
どうもこんな流れになりそうです。
- 道元自身の探求の旅を辿り、彼のルーツを理解する
- 道元の言う「自己をならふ」の意味を理解する
- 「自己をならふ」の第一段階としての「自己の確立」
- 「自己をならふ」の第二段階としての「真の自己の発見」
- 他の思想家や作家、身体論などにおける「自己をならふ」
- ニーチェの説く「精神の三段の変化(駱駝➔獅子➔小児)」
- 夏目漱石が生きた「自己本位」と、晩年に至った「則天去私」
- 武道における「自立」と「無心」
- 野口整体における「独立心」と「天心」
- 「自己をならふ」から「自己をわするる」に移行するための瞑想的生活
- その先に開けてくる「天によって生かされる人生」について(万法に証せらるる)
- 「悟りの臭み」を消し去って、「自分の仏性」を表現し続ける(休歇なる悟迹)
だいたいこんな感じになるのではないかと思っています。
「全体のビジョン」自体は、五日くらい前に一度「観て」いるのですが、実際に書き始めてみないと細かいところまではわからないものです。
そもそも、インスピレーションって、そういうものですよね。
当人は「あ、そうだったのか!」と思うわけなんですけれど、いったい何が「そう」なのかは、本人にもまだ判然としません。
ある意味で、創作行為というのは、当人が直観的に垣間見た、この「そう」を形にするためにおこなわれるものではないかと思います。
私自身も、いつもブログの記事を書く時は「あ、なんか来たぞ!」と思ってから書き始めます。
書くべきことの断片や全体像が瞬間的に「観える」わけです。
でも、細かいところまではわからないので、自然と「その全貌を知りたい」という好奇心がむくむくと頭をもたげてきます。
それで、思わず書いちゃうわけです。
私自身も、「自分がいったい何を『観た』のか」を知りたいからです。
そして、それが結果的には、私自身と読者の心身を「自由」にすることにつながります。
まず、こういう書き方をする時には、私自身が「文章の行き先」をコントロールすることを放棄しています。
実際、私は「どこか」からやってきた「閃き」に導かれたまま、「他力」によって書き進めていきます。
それは私自身にとってもスリリングで、ワクワクするような体験です。
そして、そんな私自身のワクワクや驚きは、たぶん読んでいる側にも伝わるんじゃないかと思います。
読む人は、私自身が書きながら味わったワクワクや驚きを、読みながら追体験し、それまで握りしめていた価値観が揺さぶられるはずです。
そうして、読み手が無意識に執着していた観念は手放されていき、その人の心身は「自由」になるわけです。
これをして、道元は「自己の心身および他己の心身をして脱落せしむる」と言っています。
要は、「自分自身の心身が自由なら、その人の言動は周りの人のことも自由にできる」ということです。
そして、それこそが「悟り」を「現成=日々の現実」の中で表現するという生き方であり、道元が「現成公案」という文献の中で主張していた、彼の思想の「核」となるメッセージなのです。
というわけで、「現成公案解説本」をちょっとずつ書いています。
ただ、全体像が見えてきたことで、資料をそろえる必要性を感じ、文献をいくつかAmazonで購入しました。
具体的には、ニーチェの『ツァラトゥストラかく語りき』と夏目漱石の『私の個人主義』、それから柳生宗矩の『兵法家伝書』です。
今回の本の中では、たぶんこれらの文言を引用することになると思ったので、不正確な引用にならないよう、手に入る文献は手元に置くことにしました。
もともとは全部持っていた本なのですが、前の引っ越しの時に本は8割がた処分してしまったため、もう手元になかったんです。
内容自体は覚えているので、説明だけならできるのですが、せっかくだし久しぶりにまた読み返してみて、新たな気持ちで引用してみたくなりました。
ところで、私は昨日の記事で「教師(ティーチャー)は本に書いてあったことを受け売りすることしかできない」と言ってこれを批判したわけですが、それなら私がこれからしようしている引用は、それに該当しないのでしょうか?
これについては、「引用元」と「自分自身」の関係性によって説明できると思います。
まず「教師(ティーチャー)」というのは、自分自身の中に「生きた智慧」を持っていません。
彼らは文献から学んだことをひたすら頭にだけ蓄えていて、それを日々の生活の中で実践もしていなければ、自身の生き方で体現してもいないのです。
それゆえ、文献から何かを引用する時も、「教師」はそれを「自分の言葉」で語ることができません。
「真実はわからないけれど、とりあえず自分はこう聞いた」としか言えないのです。
彼は「本当かどうか」を自分自身では確認しておらず、内側に「根拠」を持たないまま語ります。
ちなみに、夏目漱石はこれを、「鵜呑み」とか「機械的な知識」と言って批判しています。
そういった仕方で語られる言葉には、語り手の「血」が通っておらず、引用される言葉も「死んで」しまっています。
彼は「引用元の言葉を活かすため」に語ることはせず、あくまで「自分自身を大きく見せるため」に経典や聖典の言葉を引っ張ってくるのです。
まさに、「虎の威を借る狐」状態です。
これに対して、「師(マスター)」は、「智慧」を自分自身で日々生きています。
それゆえ、彼の一挙手一投足や、彼の呼吸そのものの中に、「智慧」は表現されており、「仏性」は彼の本性として表面に現れ出ています。
こういった人は、引用をする時も決して「機械的な仕方」では引用しません。
彼は「自分を大きく見せるため」に引用するのではなく、「引用元となっている過去の賢者や哲人たちと対話するため」に引用をします。
彼自身が体験的に理解した「真理」と同じものを、彼は過去の賢者や哲人たちの内側にも見出します。
そして、「あぁ、彼らもまた自分と同じ景色を見たのだ」と、その人は直感するのです。
それゆえ、「引用元を活かすことができる人」というのは、自分の足で「山の頂上」まで登ったことがある人です。
彼は「頂上から見える景色」を自分の目で見て知っています。
反対に、「教師(ティーチャー)」は、まだ「山の頂上」まで行ったことが一度もありません。
それにもかかわらず、「山の頂上から見える景色」について語られた経典や聖典の言葉を引用します。
だから、彼の言葉はチグハグになり、「根のない浮草」のような頼りないものになってしまうのです。
そして私としては、そんな風に、引用をすることによって「自分を大きく見せよう」という意図は持っていません。
私はただ、私自身が「頂上」まで登って見た景色を、「いろんな仕方」で読者の人にも見てほしいだけです。
そもそも、「頂上から見える景色」はもともと「一つ」なわけですが、「その景色を表現する仕方」の中には、そこまで登った人の「個人性」が如実に表れます。
それゆえ、本質的には「同じこと」を語っているはずなのに、表面上は「全く違うこと」を語っているように見えてしまうことも多いのです。
多くの弟子たちには、こういった「本質的な同質性」が見えず、「表面的な相違点」ばかりが目に付くため、宗派や学派ごとに不毛な言い争いが起こります。
「師(マスター)」たちは、みんな「同じ景色」を見たのです。
だから、そこには本当は「矛盾」がありません。
でも、それを表現する仕方には、どうしても「個人性」が表れます。
結果的に、表面的には「ある師(マスター)」の言っていることと、「別の師(マスター)」が言っていることが、矛盾して見えてしまうことも多いです。
そして、まだ「頂上」まで行っていない弟子たちは、この「表面的な相違点」に目を奪われて、「自分の師だけが正しくて、他の教えは間違っている」と言うようになるわけです。
私がしたいことは、その逆です。
つまり、「結局、皆おんなじことを言っているんだ」と、私は主張したいのです。
私は個々の賢者や哲人たちの間に対立を見ません。
彼らの言っていることは、本質的なレベルでは「みんな同じ」です。
でも、多くの人にはそうは見えないと思います。
だから私は、過去の賢者や哲人たちの言葉をあえて引用することを通じて、そこに「補助線」を引こうと思うのです。
たとえば、数学の図形の問題では、ほんの一本「補助線」を入れるだけで、「問題の解き方」が急に理解できるようになることがあります。
それと同じで、私は読者が「頂上から見える景色」を理解しやすくなるように、「補助線」を入れたいわけです。
そうすれば、それぞれの宗派や学派の間にある「対立」が、「本質的なもの」ではなくて、あくまで「表面的なもの」に過ぎないことが理解できるようになるでしょうし、その理解はきっと、読者自身の心身をより「自由」にしてくれるはずです。
そんなわけで、私はばんばん引用していこうと思っています。
まぁ、今はまだそこまで筆が進んでいないわけですが、ぼちぼち書き進めていこうと思います。
今の話を聞いて興味が出た人は、完成を楽しみにお待ちください。
ではでは。

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