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「感覚の深化」には「痛み」が伴う|「問題を自覚できない状態」と「問題がない状態」の比較

とある読者の方とやり取りをしていて、感覚の話になりました。

それで、「感覚の深化」について少し伝えたのですが、これはブログではあまり書いたことのないトピックだったかもしれません。

本の中では何度か書いていたのですが、いい機会なのでブログでも共有しておこうと思います。

◎私たちの本能は、「問題」があるとそれを自動的に訴える

そもそも、私たちの感覚というのは、「問題のある場所」に自動的に吸い寄せられるようにできています。

これは、生物としての生存本能が働くためです。

たとえば、野生動物は「生き残ること」が最優先事項です。

このため、もしも脚に何か「問題」があって、うまく走れない状態になりかけている場合、実際に走れなくなるよりも前に、「痛み」とか「違和感」などの形でSOSを発するのです。

そして、これらの「痛み」や「違和感」があるからこそ、その個体は「問題」をなんとかしようとします。

まぁ、動物の場合、そういった「対策」は意識的にはおこなわれず、ほとんど無意識的・本能的におこなわれるでしょうけれど、人間の場合は話が変わってきます。

私たちもまた生物なので、生存本能は働いています。

そのため、もしも身体に何か「問題」がある場合、それは「痛み」や「違和感」という形で自覚されます。

別に意識的に「感じよう」と思わなくても、身体が自動的にそれらの感覚を意識の中に持ってくるのです。

このため、「なんか最近、肩が凝るな」とか、「なんだか胸のあたりに詰まりがある気がする」とかいった形で、その人は「身体の問題」を自覚することになります。

しかし、「身体」は「頭」と違って言語を使うことができないため、私たちはこれらの「感覚」を元にして、「身体が言いたがっていること」を解読しなければいけません。

ひょっとしたら「肩が凝る」のは、文字通り重い責任を肩に背負いすぎて、神経が張り詰めているサインなのかもしれません。

また、「胸が詰まる」ということは、無意識に呼吸を制限し、苦手な上司とかかわるストレスを感じないように自分を鈍感にしているサインなのかもしれません。

もし責任の背負い過ぎで肩が凝っているなら、もう少し気楽な生き方ができるように環境調整をする必要がありますし、呼吸を制限して胸が詰まっているのなら、ストレスの原因である上司から距離を取って、深く呼吸できる環境を作ることが必要です。

こういった形で、「身体の声」を「頭」にも理解できる形に翻訳し、あれこれ試行錯誤することで、「身体が訴えている問題」を解決していくわけです。

◎「問題」を感じられなくなるメカニズム

しかし、中には、こういった「痛み」や「違和感」をそもそも感じることができない人もいます。

そういった人というのは、「身体が異変を訴える力を失っている」か、「頭が身体を抑え込んで強固に支配している」か、あるいはその両方か、いずれかの状態にあります。

こういった状態になってしまうと、身体は「言いたいこと」があっても、それを言い出すことができなくなります。

結果的に、仮に身体の中に「問題」があっても、それがSOSのサインを伴って意識に上がってこなくなってしまうのです。

たとえば、毎日満員電車に揺られながら通勤している人たちは、もはや「すし詰め状態」に「痛み」や「違和感」を覚えなくなっています。

これは、「頭」が「我慢して耐えろ!」と身体に命令し続けた結果として、身体がもう抗議することを諦めてしまっている状態なのです。

本当は身体はずっと不快感を感じていますし、ストレスにもさらされ続けています。

しかし、それを自覚したところで、どうせ「頭」がそれを握りつぶすことがわかっているので、身体は黙ったまま耐えるしかなくなっているわけです。

この場合、当人の中には「問題」がありますが、これを自覚することができなくなります。

「自覚するだけ無駄だ」という諦めが心身に染み込んだ結果として、こういった「無感覚状態」が作り出されてしまうのです。

また、時には幼少期の寂しさや満たされなさから、こういった「無感覚」が作り出されることもあります。

たとえば、どれだけ求めても親からの愛情がもらえなかった場合、その子は「自分の寂しさ」を感じようとしなくなっていきます。

どれだけ「寂しい」と感じたところで、それによって愛情がもらえるわけではないので、「寂しさ」という感情は、その子の中で「感じても無駄で不快なだけのもの」になっていきます。

その結果として、その子は自分の感受性をあえて鈍感にし、「寂しさ」を感じなくしようとするのです。

子どもの頃に愛情不足だった人は、大人になってからも呼吸が浅い傾向がありますが、それはこういった理由があるからです。

つまりその人は、幼少期に感じた「寂しさ」を乗り越えて生き延びるために、あえて自分の呼吸を殺すことで、感受性を鈍らせてしまったのです。

それゆえ、こういった人が呼吸を再び深める過程では、「幼少期に抑え込んだ寂しさ」や「親への怒り」が再燃してきます。

しかし、これらの「抑圧された感情」ときちんと向き合って和解しない限り、その人の呼吸が深まることはありません。

なぜなら、感情というのは、無意識の奥に抑え込んでいる限り、何年、何十年経っても消えることがないからです。

また、だからこそ、時としてカウンセリングというものも役に立つことがあるのです。

もしもカウンセラーが鏡のように機能できるような「熟達した心理士」であれば、クライアントは自分の中の抑圧された感情を、そのカウンセラーを通して意識化することができます。

そして、そんな風に抑圧された感情を「無意識下」から「意識下」に引っ張り出して自覚することで、それらの感情はやがて消えていきます。

なぜなら、感情自身が「当人から見てもらえたこと」によって満足するからです。

こうして、「痛み」や「苦しみ」を自覚しては成仏させていくことによって、私たちの心と身体は徐々に身軽になっていくのです。

◎「内」と「外」から挟み込んで、一つずつ「問題」を解決していく

ともあれ、私たちの中に「問題」があれば、基本的にそれを私たちは自覚できます。

心や身体がSOSを発し、「痛み」や「違和感」という形で、それを無理やり意識化させるからです。

ですが、もしもそれらのSOSが何度も無視されてしまうと、心や身体はそもそもSOSを発しなくなっていきます。

この結果、「実際には問題があるのにそれを感じられない」という症状が生まれてくるのです。

そのように考えると、「自分の身体を普段意識することがない」ということは、「問題がない」ということと必ずしもイコールではありません。

というのも、実際には「問題」があるのだけれど、何らかの理由で感受性が抑制されていて、ただそれを自覚できなくなっているだけの可能性があるからです。

このため、ボディーワークや呼吸法の実践をすると、往々にして当人は、一時的に「生きづらさ」を感じるようになります。

なぜなら、心と身体が「生命力」を取り戻すことで、それまで無視して感じないようにしていた「不快感」や「違和感」を、当人が自覚できるようになるためです。

それゆえ、その人は前までは何でもなかったことにストレスを自覚するようになり、今まで無意識に我慢していたことが耐えられなくなっていきます。

人によっては満員電車に乗ると吐き気がしてくるかもしれませんし、嫌味な上司と話していて頭痛を感じるようになるかもしれません。

それまでは感受性を鈍らせ、「生命力」を低くすることで無感覚にしてやり過ごしていたことが、もはや維持できなくなるわけです。

でも、それは当人の心と身体が「感じる力」を取り戻し始めた兆候です。

それは、「これだけは絶対無理!」という「健全な主張」を、心と身体が表立ってできるようになったということです。

そこからは、いったん休養のフェイズです。

人によっては休職したり、転職して環境を変える必要が出てくるかもしれません。

いずれにせよ、生命力が高まった結果として、我慢ができなくなっているのですから、「嫌なこと」はすっぱりやめてしまったほうが、後々のためになります。

そうして、ゆったりと時間にゆとりを持って過ごすうちに、当人の心と身体は「活力」を取り戻していきます。

心身はリラックスしていき、「詰まり」や「痛み」や「強張り」も徐々に解消されていくでしょう。

もちろん、瞑想法や呼吸法などの技法の実践を通して「自己変容」を促し、そもそも「問題」を発生させないような心身を練り上げることも重要です。

その過程で、幼少期に抑圧した感情と「内側」で向き合うことになる人も多いでしょう。

なので、「外側」ではストレスを減らす「環境調整」をし、「内側」では実践による「自己変容」を進めるという二段構えを取るのが望ましいと私は思います。

◎「問題を自覚できない」のと、「そもそも問題がない」のは別である

そうやって「内」と「外」から挟み撃ちで「問題」を解決していくと、やがて心と身体の中に、「目立った問題」が存在しなくなっていきます。

ストレスを感じる要因が取り除かれたことで、心と身体が伸び伸びと活動できるようになるわけです。

この状態になると、当人は常時「なんとなく良い感じ」を感じるようになっていきます。

多くの人は、「健康な状態」のことを「何でもない状態」だと思っていますが、実際には違います。

本当に心と身体から「問題」がなくなると、人は「何でもない」とは感じずに、「なんとなく良い」と感じ始めるのです。

この「なんとなく良い感じ」こそが、「健康の証」です。

その人は、心と身体に「目立った問題」を抱えていないので、心身は「痛み」や「違和感」を訴える必要がありません。

そのため、当人は心や身体の存在を意識しなくなります。

つまり、心と身体が消えるのです

ちなみに、「自分の心身を意識していない」という意味では、「自分の中にある問題をそもそも自覚できなくなっている人」も同じですが、両者の間には決定的な違いがあります。

それは、「問題を自覚できなくて心身を意識できない人」と、「そもそも問題がないから心身を意識する必要がない人」との間の違いです。

この違いがわかりますか?

前者は、そもそも「問題」があることを自覚できていません。

つまり、「自分の心身を感じ取る力」自体がなくなってしまっているのです。

それに対して、後者の場合は、そもそも「問題」が存在していないので、心と身体も安心して黙っていられます。

それゆえ、当人は「なんとなく良い感じ」だけを自覚して、基本的に心と身体のことは忘れていられるわけです。

また、「感覚の深化」における最初の段階にいる人は、内側に「問題」があること自体に気づいていないため、仮に「新たな問題」が増えてもこれを自覚することができません。

これは、森の中に葉っぱが一枚だけ増えても違いがわからないのと同じ理屈です。

既に「問題」がたくさんあるので、一個や二個「問題」が増えても、それを自覚することができないのです。

これに対して、「感覚の深化」における最後の段階にいる人は、「問題」が既になくなっているので、もし「新たな問題」が発生すると、すぐそれに気づいて対処することができます。

これは、綺麗に掃除された部屋にゴミが落ちると、それにすぐ気づけるようなものです。

もし部屋がゴミだらけだと、一個や二個ゴミが増えてもわかりませんが、普段からよく片付けられている部屋だと、一個ゴミが増えるだけで目立つものです。

このため、「心と身体の大掃除」が済んでいる人というのは、大した労力を必要とせずに、自分の内側を「透明な状態」に保っておくことができるわけです。

◎今回の話についての「まとめ」の図

以上の流れを図にしましたので、これらを見ながら話を整理してみてください。

◎「嘘」を言って栄える「偽物の癒し手」と、「真実」を求める「探求者」

こんな感じで、感覚というのは徐々に「深化」していきます。

その過程においては、一時的に「生きづらさ」を感じることもありますし、過去に抑圧した「古い感情」と直面しなければならなくなったりもします。

なので、なかなか大変です。

そして、世の中の「スピリチュアル」とか「癒し」とかを標榜する人々は、こういった「都合の悪いこと」は、知っていても隠そうとします。

なぜなら、「本当のこと」を言ってしまったら、「商売あがったり」だからです。

それは、世の中の誰もが「楽な道」ばかりを求めていて、「本当の道」なんて求めていないためです。

みんな、「簡単に楽になれる方法」は知りたいけれど、「苦しくても根本的に問題を解決できる方法」は知りたくないのです。

そして、そういった人々の意識が、「偽物の癒し手」を世の中に生み出すことになるわけです。

ただ、私自身は別に「商売」のためにこの活動をしているわけではないので、「本当のこと」を言います。

それを聞いて去っていく人に対しては、私から言いたいことは何もありません。

「まだその時期が来ていないのだろう」と思うだけです。

でも、「自分の問題と向き合うしかない時期が来ている人」に対しては、「よくできた嘘」を言っても意味がありません。

そういう人に対しては、たとえ相手が辛くてなっても「真実」を言います。

なぜなら、「苦しみと向き合うべき時期が来ている人」にとって必要なのは、「嘘」ではなくて「真実」だからです。

ということで、この記事を読んで「本当のこと」が知りたくなった方は、瞑想会に来られるか、メールで個別に質問してください。

私の時間が空いていれば、とことん相談に乗ろうと思っています。

それでは。

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