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探求の後半戦における「無努力の実践」について|人は恐れゆえに「努力」にしがみつく

私はよく、「探求の前半戦」とか「探求の後半戦」とかいった言い方をします。

「前半戦」と「後半戦」の境目は、禅宗で言うところの「見性けんしょう」を得ることです。

これは言い換えれば、「自我」の向こう側にいる「本当の自分」を初めて自覚することと言えます。

なお、「見性」については前に一度記事を書いていますので、こちらも適宜参照してください。

【関連記事】
禅宗における「見性」について|「覚醒」の中で生きる人だけが「生の美しさ」を知っている

ただ、おそらく「見性」を得て、探求が「後半戦」に入る時、ほとんどの人は大きな戸惑いを感じるはずです。

なぜなら、「前半戦」においては「努力」こそが前進するための動力だったのに、「後半戦」においてはむしろ「無努力」こそが前進するために必要になるからです。

ということで、今回の記事は、「後半戦」に入ったばかりで戸惑っている人を主な対象者として、この時期をどう乗り切ったらいいかについて、いくらかアドバイスをしたいと思います。

努力に努力を重ねて「本当の自分」は理解できたけれど、そこから先、どう進んだらいいかわからなくなってしまっている人は、参考にしてください。

では、行ってみましょう。

◎「私は在る」に、「その先」は無い

そもそも、「見性」を得るまではひたすら自覚的に努力することにも意味があります。

ここにおいて、当人はいつも意識して「覚醒」を保とうとします。

瞑想中に眠り込まないよう注意して、考え事に夢中になって我を失わないよう気をつけるわけです。

ですが、もしも一度でも「『本当の自分』というのは『自我』ではなかったんだ」ということに気づけたなら、もうそれ以上は、努力する必要がありません。

なぜなら、もうその地点には、「先」というものがないからです。

そもそも、「見性」を得る時、人は「無我」を体験しています。

思考も感情も沈静化し、「自我」さえもが沈黙する中で、その何もない「くう」を観ている者の存在に気づくのです。

この「観ている者」こそが「本当の自分」です。

そして、この「本当の自分」を取り除くことは決してできません。

なぜなら、仮に取り除こうとしたとしても、「そうして取り除こうとしているのを観ている者」はどこまでも残り続けるからです。

「私は在る」

それが「終点」です。

それ以上はもう何もなくすことができず、「そこから先」というものは在りません。

なので、一度この「極点」を経験した人は、自分が来た道を引き返し、「日常」に帰っていくことになります。

そして、これ以降の実践の中心課題は、「見性」を得た時に体験した「空っぽな感覚」を心身に定着させていくことです。

要は、「自分はもともと『仏』であり、最初から『自由』だったのだ」ということを、「頭」で理解するのではなく、「心」から納得できるよう、「見性」の時の体感を心身に練り込んでいくわけです。

ただ、おそらくほとんどの探求者はここでまず「力を抜く練習」をする必要を感じるでしょう。

なぜなら、それまではずっと全力で集中して瞑想を実践していたからです。

◎「頑張らなくても目覚めていられる」と気づくまで

「探求の前半戦」において、実践中の当人の内側にはいつも「頑張っている感覚」があったはずです。

そして、この「頑張っている感覚」をこそ拠り所にして、当人は自分の実践を評価する「癖」がついています。

だから、「頑張っている感覚」がないと、「自分は前に進んでいない」と考えてしまうようにもなるのです。

しかし、「見性」を体験した後は、実践の舞台は「日常生活」に移っていきますので、いつも全力で実践をしていたら疲れてしまいます。

なので、適度に「力」を抜く必要も出てきます。

ただ、たぶんそれに対して最初は抵抗を感じるはずです。

というのも、「力を抜いたら実践にならない」と、どうしても思えてしまうからです。

これまで「努力」することによって進んできたからこそ、「努力にこそ価値がある」という考え方が、無意識レベルにまで染み付いてしまっているのです。

このため、多くの実践者は「力を抜いて実践すること」に罪悪感を覚えるはずです。

「こんなことでちゃんと実践になっているのだろうか?」と疑問に思うこともあるでしょう。

ですが、来る日も来る日も朝から晩まで集中し続けることは誰にもできないので、どこかで「力」を抜かざるを得なくなる時が来ます。

その時、主観的には「敗北感」とか「無力感」を抱くのですが、そのまま「事の成り行き」を見守っていると、不思議なことに気づくと思います。

というのも、別に頑張って集中していなくても、「覚醒」が失われないからです。

むしろ、変に力んでいないおかげで、とてもリラックスしたまま目覚めていられます。

それで、「なーんだ、別にずっと力んでいなくても大丈夫なんじゃないか」と思うわけですが、このことを受け入れるのには少し時間がかかると思います。

それほどまでに「努力こそが価値である」という考え方は、多くの探求者の中に深く根付いているものなのです。

◎「努力しないからこそ上手くいく」という逆説

しかし、そうして「適度に力を抜く」ということに慣れていくにしたがって、「むしろ努力していないほうが物事はうまくいく」ということを、その人は学び始めます。

そもそも、適度に「力」が抜けてくると、頑張っていないから疲れることもなく、力んでいないから心身共に自然体でいられます。

そして、自然体だからこそ心身のパフォーマンスも引き出され、問題が自然と解決していくようになるのです。

これは「自力」から「他力」へのシフトが起こり始めている時、少しずつ実感されることです。

自分で頑張ってやっている時には大変だったことが、「力み」を去って事に当たるようになったら、スルスルとスムーズに流れていくようになるわけです。

この時、当人は「作為のない受動的な覚醒」を保っているだけであり、「こうしなければ」というような意志を握りしめていません。

だからこそ、疲れることもなく、努力もしていないわけですが、それにもかかわらず、なぜか物事はうまく回り始めます。

要は、「頑張っていないのに結果が出る」ということが起こり始めるわけです。

たぶん、この逆説を「頭」が受け入れるまでには少し時間がかかります。

おそらく当人は「頑張っている手応え」を感じたくなるでしょう。

「努力している感覚」にしがみつき、「自分は意味のあることをしている」と思いたくなるはずです。

なぜなら、「自分で努力することで、その分の結果がついてくる」という構図が維持されているなら、その人は、「自分には結果をコントロールする能力がある」と信じることができるからです。

しかし、そのようにして「コントロール能力」を内側に閉じ込めている限り、その人は「自力の世界」をぶち破って「他力の世界」で生きることができるようにはなりません。

確かに、「自力の世界」に閉じこもっている限りは、「努力をして、それにふさわしい結果を得る」というわかりやすい因果関係の中に留まることができます。

そこにおいて、その人は「主人」でいることができ、「自分の人生の主導権」を握っていられるでしょう。

しかし、それによってその人の心身は常に限界づけられてしまっており、本当の意味で潜在能力が引き出されてはきません。

「自分の限界」を突破するには、逆説的なのですが、「あえて努力しないこと」が重要になるのです。

◎「手応えの無さ」の中で、「受動的な覚醒」を保つだけ

もしも「自分の人生の主導権」を明け渡すなら、その人の中には「他力」が流れ込み始めます。

物事は勝手に回り始め、もうその人には結果をコントロールすることができなくなります。

自分を超えた「何か大きなもの」こそがその人の人生を主宰するようになり、当人はただ流され始めるのです。

もちろん、最初からそこまでダイナミックに流されることはないでしょう。

むしろ、探求が完全に終わるまでは、「ダイナミックに流される」ということは難しいと思います。

ただ、段々とそこには近づいていくはずです。

当人は結果をコントロールしようとしなくなり、「意味のある事をしている手応え」を感じたいがために不必要な努力をすることも、徐々にしなくなっていきます。

なぜなら、そのほうが楽だし物事もスムーズに進むからです。

なので、「探求の後半戦」においては、価値観が完全にひっくり返ることになります。

そこにおいては「努力」ではなく「無努力」にこそ価値があり、「作為しないこと」によって物事はかえって丸く収まります。

「手応えの無さ」はむしろ「うまくいっている証」であり、逆に、「手応えがある」ということは「余計なことをしている」ということです。

つまり、こと「後半戦」においては、「何も特別なことをしている感覚がなく、楽なほうに楽なほうに流されていく」というのが「正解」なのです。

ただし、その「楽なほう」に流されていく時、そこに「見性の時の感覚」があるかどうかだけはチェックする必要があります。

その感覚の中にリラックスして留まる時、呼吸は深くなって、心は透明になり、身体は存在感を失います。

もしもこの「身軽で快い感覚」があるならば、実践は順調に進んでいると見なして問題ありません。

あとは、「努力している感覚の無さ」にとことん安住できるかどうかだけです。

きっと「頭」は「努力していないと意味がない」と言うと思いますが、もしも「努力」を手放せるなら、そこには「無条件の幸福感」が溢れてきます。

実際、「何も作為せず、ただ物事が回っていくのを観ているだけの状態に留まればいい」なんて、こんな「気楽な在り方」は他にありません。

「たとえどんな結果になろうと、まぁいいか」
「きっと今回もまた、最後は丸く収まるだろう」
「そもそも『自力』でできることなんて高が知れているんだ」

このような「楽観」と「諦観」が入り混じったかのような感覚がそこにはあります。

そして、これをしてインドの覚者であるOSHOは「レット・ゴー」と呼んでいました。

作為を捨て、物事をあるがままに任せること。

それによって、「他力」がその人の中に流れ込み、「起こるべきこと」が起こり始めます。

「力み」はどんどん抜けていき、心身はその度に「自由」になっていきます。

そして、この「無努力の自由」が「極点」に達した時、「悟り」というのは起こります。

その時、当人はもう「作為」ということをしなくなり、「宇宙の法則」によって動かされるままに生きるようになっていくのです。

◎「無努力への抵抗」は「未知」に対する恐れの現れである

ただ、何度も言いますが、最初は抵抗感があると思います。

きっと「努力している感覚」にしがみつきたくなるでしょう。

ですが、それは実のところ、「未知」に向かって自分を明け渡すことへの恐怖の裏返しだったりします。

言い換えれば、その人は「努力することで未来をコントロールしたい」という欲求によって、自分の心身を縛っているのです。

なので、もしも「後半戦」の中で「努力」をしたくなった場合、「自分が何を恐れているか」を点検するようにしてみてください。

きっとそこには、「こういう結果でないといけない」という想念が存在しているはずです。

でも、どうして「その結果」でないといけないのでしょうか?

そもそも、物事というのは、なるようになって、ならないようにはなりません。

そして、このことを受け入れられない時、私たちは「努力」にしがみついて、物事の結果を「自力」で操作しようとするわけです。

しかし、「宇宙の法則」には誰も逆らえないので、最終的には私たちが積み重ねる「ちっぽけな努力」は必ず負けます。

にもかかわらず、人は「今度こそ負けないように」と言って、さらに多くの「努力」を積み重ねるのです。

ですが、もし「自分の敗北」を認めてしまうなら、あとは流されていけばいいだけです。

今の自分がいるのがどんな「川」であれ、そのまま流れていけば、いつか必ず「海」に辿り着きます。

逆に、流されることに抵抗すると、その人は消耗するばかりで、「海」に辿り着くこともできなくなります。

もし抵抗をやめるなら、ただ流され続けていくうちに、その人はいつか「海」へとたどり着きます。

そして、「自分もまた海の一部だ」と感じるでしょう。

あるいは、「自分は海そのものだ」と感じるかもしれません。

いずれにせよ、同じ話です。

ただ、そのためには、「流れに抵抗すること」をやめる必要があります。

「泳ごう」とせず、「浮こう」とも考えず、だたリラックスしてプカプカと漂っていれば、勝手に流れが導いてくれます。

実践中は、それを信頼してみてください。

「努力」することなく、ただ「受動的な覚醒」を保って生きていれば、「起こるべきこと」は起こり、あなたは気づいたら「海」に辿り着いていることでしょう。

◎終わりに

ということで、今回は「探求の後半戦」にいる人に向けて、「力を抜くことの意味」について書きました。

もしもあなたが「力を抜くこと」に抵抗があるのだとしたら、きっとあなたは「海」に向かって流されることを恐れています。

なぜなら、「海」はあまりに広大であり、その大きさの前では自分なんてあまりにちっぽけな存在に過ぎないからです。

それゆえ、「自分のちっぽけさ」を自覚することを恐れていると、人は「自力」にしがみついて、流れに逆らい始めます。

要は、「自分は無力ではない」と思いたいのです。

ですが、私たちはみんな等しく「無力」なものです。

そして、「自分自身のちっぽけ」を進んで受け入れることができた時、その人は「大きな何か」とつながって、「他力」によって生かされ始めることになるのです。

【追記】
今回の記事で述べた「受動的な覚醒」について、日常的に実践するための具体的な方針を「補足記事」として書きました。

【補足記事】「無努力で受動的な覚醒」を培うスモールステップのご紹介

「無努力で受動的に覚醒する」ということを、具体的にどこから始めたらいいかわからなくなっている人は、こちらの記事も参考にしてみてください。

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