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【日記】新作の加筆作業と、フェイスブックの「村社会性」について思うこと

たまには日記みたいなことでも書いてみようと思います。

今日は、現在執筆中の「心を生きる幸福論」の編集作業をしていました。

ただ、原稿を寝かせていた2~3日の間に、私の認識や思考が深まったため、それより前に書いていた部分を全面的に加筆修正することになりました。

数日前は「フレッシュ」だった自分の文章が、たった2~3日で「古い!」と感じるようになってしまっていました。

「新陳代謝」が速すぎんよー。

ということで、結局、章を丸ごと一つ新たに作って、一万五千文字ほど書き足しました。

もともとの原稿は五万文字くらいだったのですが、今は六万五千文字くらいになっています。

今回はコンパクトになると思っていたのですが、なんだかんだでペーパーバック版は200ページを超えそうです。

それから、先日再開したフェイスブックのアカウントから、過去の知人のアカウントをいくつかのぞきに行っていました。

「元気にしてるかなー」と思って見に行ったのですが、私が見た範囲の人たちは、みんな数か月に一度くらいしか投稿していませんでした。

そんな私は、毎日ブログの記事を投稿するたびに、フェイスブックでもばんばん記事更新の告知をしています。

また、Xで呟いた洞察なども、時々転載しています。

そもそも、私は現在、ブログで毎日に3~4つの記事を書いているので、必然的にフェイスブックでも日に3~4回の投稿をすることになっている状態です。

たぶん、他のユーザーからしたら「異常な熱量の変態」に見えているんじゃないかと思います。

それと、過去の知人のアカウントを見ていると、どこかに行った時の写真を載せていたり、なんらかのイベントに参加したことの報告をしていたりするものばかりでした。

私みたいに「今こういう洞察が閃いた!」とか、「今日はこういうことをテーマに考えていた!」とかいったことを投稿している人は、私が見た範囲では、一人もいませんでした。

時々、思想系の投稿がタイムラインに流れてくることもありましたが、それらも「過去の偉人の言葉を丸々引用するだけ」というものばかりで、「投稿者本人のナマの思想」が流れてきたことは、今のところ一度もありません。

いや、別に何を投稿しようがその人の自由なので、何でもいいのですが、私は一人で立ち止まって「なんでなんだろうな?」と考え込んでしまいました。

それでしばらく考えて思ったのですが、おそらく、フェイスブックというのは、お互いの顔が見え過ぎるのだろうと思います。

言い換えれば、フェイスブックというのは「村社会的」過ぎるのではないでしょうか?

そこでは、近所に住んでいる人全員が顔見知りで、時にはお互いの家の家族構成とか職業とかまで知っています。

このような環境で、「自分の内面」とか「今の思想的テーマ」とか「感覚的な気づき」とかを投稿すると、「村の空気」を乱すことになりかねません。

下手をすると、「ホント、アイツ空気読めよ!」と思われてしまうかもしれません。

そこでは、あくまでもみんな「ペルソナ(仮面)」をかぶったままかかわっていて、「本当の自分」を見せることがありません。

確かに、「どこそこに行った」とか、「これこれのイベントに参加した」とかいったアクティビティは報告されますが、「じゃあ、そこでどんなことを考えて、どんな価値観の変化を体験したのか?」という「内面的な話題」については、見事なまでにスッポリと抜け落ちています。

それはたぶん、「村社会」の中で近所の人と世間話をする時に、生々しい「自分の内面」については隠したまま、「近況報告」をするだけに留めるのと同じような、一種の「マナー」の遵守じゅんしゅなのでしょう。

そういう意味では、私は「空気」も読まなければ「マナー」も守っていませんが、これが「私のやりたいこと」ですし、今さら「隠したいこと」もないので、何でもかんでもそのまんまタイムラインに放り込んでいます。

ただ、過去の知人たちが「近況報告」だけを投稿していて、そこに「内面」が見えてこないのが、私はなんとなく寂しく感じました。

それはたぶん、私が「表面的なレベル」ではなく、「もっと深いレベル」で人とかかわりたいと思っているからだろうと思います。

しかし、「深いレベル」で他人とかかわることにはリスクもあります。

なぜなら、その時に当人は、「自分の急所」を相手にさらすことになるからです。

それは、「自分の心の最も柔らかいところ」であり、「血がたっぷり通っていてドクドクと脈打っている部分」です。

ただ、私はそういう部分を毎日このブログでさらしまくっていますし、むしろそのような「命の核」こそが私の執筆の原動力にもなっています。

なので、私はそれをさらすことをもう恐れてはいないのですが、たぶん、普段からそういうことをし慣れていない人は、本能的に「核」を奥に引っ込めてしまうのではないかと思います。

特に、フェイスブックという「顔見知りたちの視線」が充満している空間では、なおさら「自分」を出すことは怖いはずです。

でも、私はやっぱり、人の表面を覆う「ペルソナ」ではなく、その奥で脈打っている「命」に触れたいと思っています。

だからこそ、フェイスブックで過去の知人たちの投稿を見ていて、なんとなく寂しくなったのでしょう。

そう考えると、いつもメールでやり取りしている人たちは、ある意味で、「ペルソナの奥にある命」を、私に見せてくれた人々です。

彼らも、普段の生活の場や職場では「ペルソナ」を使い分けているのでしょうけれど、メールの中では、私のためにそれを外し、「その奥にあるもの」を見せてくれたように感じています。

たぶん、私が彼らとメールをするのが好きなのは、このためですね。

つまり、「表面を覆う偽り」ではなく、「その奥に隠された本物」を通して交流できているように感じるからこそ、私は読者とメールをするのが好きなのです。

もちろん、だからといって、私に彼らのことが全部理解できるわけではありません。

むしろ、メールでやり取りをすればするほど、「新たな事実」が発覚し、「そんな人だったとは知らなかった」という(良い意味での)驚きをいつも新たにしています。

知れば知るほど、「知らない」と気づく。

他者というのはやはり「解けない謎」なのでしょう。

だからこそ、「もっとわかろう」とも思いますし、「わかった気をして決めつけることはできない」とも感じます。

いずれにせよ、今後も私は空気を読まずに「自分の内面」を大声で叫び続けます。

「聞きたくない人」はミュートすればいいと思いますし、「聞きたい人」にはいくらでもさらけ出そうと思います。

私の「弱さ」も「愚かさ」も、泥臭い私の日々の「あがき」も、みんな私の一部です。

だから、私はそれらを「恥」だと思いません。

むしろ、私はそれらを身にまとって言葉を書きます。

そんな私の生き方が、この社会のどこかにいる「寂しさを感じている人」に、届けばいいと思っています。

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