今さっき、新しい本を書き始めました。
当初は、「現成公案・解説本」を書き終わったら、保留になっていた「断章集・第四弾」の続きを書こうと思っていたのですが、実際に書き始めてみたら、まるで筆が進みませんでした。
理由は二つあります。
一つは、「断章集・第四弾」の執筆を保留にしていたこの一週間ばかりの間に、私の中で大きな認識の転換が起こり、私自身がほとんど「別人」になってしまったことです。
それゆえ、わずか一週間前に書いた文章なのに、私はもうそれを書き直す気になれませんでした。
それらはもはや「過去のもの」になってしまい、今の私にとって「理解はできるが共感はできないもの」になっていたのです。
そのような状態で無理に書き直しをすると、かえって自分の心が窒息してしまうように感じたので、「断章集・第四弾」の執筆はとりあえず脇に置くことにしました。
また、「断章集・第四弾」の執筆に気が進まなかったもう一つの理由は、「断章集」という表現形式そのものの独自性が、ほぼ失われたからです。
以前は、「断章」という短い言葉を連ねた洞察によってしか表現できない物事があったのですが、最近は、ブログの記事を書く時に無意識にそれができるようになっていることに気づきました。
そもそも、「断章」を書く時というのは、論理的な思考をあえて削ぎ落として、直感的な仕方で言葉をすくいあげていきます。
なぜなら、そうすることで、「論理的な理性」に片足をつかまれている時には到達できなかった「深度」まで、私は到達することができたからです。
実際、「頭で考える部分」が多くなってくると、確かに言葉全体の構成は整ってくるかもしれませんが、「鋭さ」や「深さ」はかえって鈍化してしまいます。
そのため、「深いところに在る物」を一度拾ってくるために、あえて「断章」という形式で記述することをしていたのです。
実際、そうやって「断章」を書く中で発見したことが、ブログや書籍の中に形を変えて持ち込まれるようになっていました。
つまり、以前の私にとって、「断章を書く」ということは、ブログや本を書く際の思考の「鋭さ」と「深さ」を保つための一種の「行」だったわけです。
しかし、最近は普通にブログの記事を書いているだけで、かつて「断章」を書いていた時に潜っていた「深さ」まで自然と到達できるようになりました。
言ってみれば、前は「潜水服」をまとってそのつど準備をしてから「深海」に潜っていたのに、今は別に何の準備もせず「素潜り」で「海底」に留まることができるようになったわけです。
そんな今の自分の目から、「過去の断章」を読み返してみたら、今の私がブログで書いている文章のほうが、むしろ「深度」が深いように感じました。
つまり、かつて「潜水服」を着て潜っていた場所よりも、今「素潜り」で潜っている場所のほうが「深い」ように私には感じられたのです。
それゆえ、かつて「断章」を書いていた時に必死で紡いでいたはずの言葉たちが、今の私にはなんだか「軽い」ように感じられてしまいました。
わざわざ一語一語の重さを最大化させる「断章」という形式を採用していたにもかかわらず、それを「軽く」感じるというのでは、どうもチグハグなように私は思いました。
それゆえ、「断章集・第四弾」については、このまま執筆を保留にしておくことに決めたのです。
そのうちまた何か変化があって書きたくなるかもしれませんが、少なくとも、今書く必要はないように思っています。
それで、代わりに「心を信じて生きるための本」を書き始めました。
そもそも、私がそんな風に「素潜り」で「深度のある文章」を書けるようになったのは、私が前よりも自分の心のままに書けるようになったからです。
以前はもっと頭も動員して書いていたのですが、今はほとんど心の感じるままに、瞬発的に言葉を紡いでいます。
そこには「迷い」とか「ためらい」とかいったものがなく、瞬間ごとに、火花が散るみたいに言葉が出てきます。
こういった仕方で反応することをもって、日本の剣術にも大きな影響を与えた沢庵宗彭という禅師は「石火の機」と言っていました。
沢庵禅師はこう書いています。
石火の機ということがあります。間、髪を容れずと同じ意味です。石をハタと打つと、瞬間、光が出るが、打った刹那に出る火だから、間も、すきまもないことです。これも心を止める間のないことをいいます。
沢庵宗彭、訳:市川白弦『不動智神妙録/太阿記/玲瓏集』、ちくま学芸文庫
ここで、沢庵禅師は「留まることのないこと」を重んじています。
石を打ったらその瞬間に火花が出るように、そこに「タイムラグ」がない状態こそが、「仏性を表現している状態」だと、彼は主張しています。
またそれは、こんな風にも説明されています。
たとえば、「右衛門」と呼びかけると、「アッ」と答える石火の働きが不動智です。「右衛門」と呼ばれて、何の用だろうなどと考えて、その分別にたって「何の用です」などというのは、煩悩に止まるものです。止まって物に動かされて迷う心を、煩悩の執われとして凡夫というのです。また、「右衛門」と呼ばれて「オッ」と答える働きは諸仏の智です。
沢庵宗彭、訳:市川白弦『不動智神妙録/太阿記/玲瓏集』、ちくま学芸文庫
沢庵禅師は「右衛門」と呼ばれて、その刹那に「アッ」と答えるのが「仏の智」だと言います。
そしてそれを、「不動智」とも言っています。
これが彼の語る逆説なのですが、「囚われなく自由自在に動ける状態」のことを、彼はあえて「不動」と言うのです。
ただ、私たちは普段、「その場の思いつき」というものを信頼しません。
たとえば、「何の考えもなくふと思ったこと」だとか、「厳密に考えて検証したわけではないこと」だとかいったものは、「信じるに値しないもの」であり、「単なるデタラメな気まぐれ」として片付けてしまうのです。
実のところ、私も以前は少しそう考えているところがありました。
沢庵禅師の「不動智」という言葉自体は知っていたのですが、それが意味するものが体験的にはよく理解できなかったのです。
しかし、このところ、「心の自由さ」がある臨界点を超えて成長した段階で、私は沢庵禅師の言っていたことの意味が、わかるような気がしてきました。
私は文章を書く時、徐々に身体が自動的に動くようになっていき、言葉が勝手に出てくるようになったのです。
その時、心は「自由」に動き回っています。
心はどこにも囚われて止まることなく、私はほとんど「その場の思い付き」だけで文章を書くようになりました。
しかし、それにもかかわらず、私が書く内容自体は、以前では到達できなかった「深さ」まで潜ることができるようになっていたのです。
そうして私は、以前まで無意識に思考にブレーキをかけていたことに気づきました。
たとえば、「いや、そうは言っても、そうとも言い切れないんじゃないか」とか、「他にこういう考え方もあるかもしれないし」とかいったことをつい考えて、筆が止まってしまっていたのです。
しかし、最近はそういったことを考えなくなってきました。
心が最初の一瞬で感じたことを、ダイレクトに言語化できるようになってきたのです。
沢庵禅師の言葉を借りれば、「右衛門」と呼ばれて、「何の用だろうか?」と思案することをすっ飛ばして、「はい、ここに」と言えるようになったのです。
それで私は、こういった「心の自由さ」と「心の働きの奥深さ」を、改めて一冊の本にしてまとめてみたい欲求に駆られ始めました。
まだ全体のビジョンは観えていませんが、とりあえず「まえがき」から書き始めています。
現時点では、「脳」を中心に「心」について考える現代の価値観に対して、「心臓」を中心に「心」を考える、日本に古くからある東洋医学的な価値観を提示したいと思っています。
「心のままに生きるというのはどういうことなのか?」
「そこにはいったいどんな困難や落とし穴が待ち構えているのか?」
そういったことを言語化していきたいと思っています。
興味のある人は続報をお待ちください。
ということで、「断章集・第四弾」の出版は保留です。
こちらを楽しみにしていた方々には申し訳ありませんが、最近の私がブログで書いているエッセイが、ほとんどそのまま「断章集」みたいなものなので、そちらをお読みいただければと思います。
それでは、また進展があれば報告します。

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