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「初心者」と「熟練者」はよく似ている|音階の螺旋階段をどこまでも昇り続ける「無垢」への道

先ほどアップした記事の中で私は「瞑想状態が深まると呼吸というのは自然と静止する」と書きました。

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「心の静止」は「呼吸の静止」|もしも「心の動き」がなくなると、呼吸と共に世界が止まる

これは、「心の動き」と「呼吸のリズム」の間に相関関係があるためです。

それゆえ、もしも「瞑想状態」が日常的に持続するようになると、その人の呼吸は自然と静止していき、「吸っているのか吐いているのか判然としない状態」になっていきます。

「心」が「わざわざ動く必要」を失う結果として、呼吸も自然と動きが止まるのです。

ですが、「氣」自体は開放的に流れ続けています。

実際、呼吸が自然と静止していると、確かに「物理的な空気の出入り」はなくなるのですが、主観的には「天地と一つになっている」という風に感じます。

「自分」という枠組みが溶けていって、「何か大きなもの」と一体になっているような感じですね。

これが、瞑想が深まった結果として生じることになる「自然な止息」です。

ただ、瞑想を全くしたことのない人の中にも、「息を止めようと思っていないのに気づいたら止まってしまっている」という人はいるものです。

これはたぶん「一つの法則」だと思うのですが、
「最初の段階にいる人」と「最後の段階にいる人」というのは、表面的にはよく似ているのです。

沢庵禅師はそれを音階のたとえで説明していたことがあります。

ずっと高いのと、ずっと低いのとは、似たものになります。
仏法でもずっときわめてゆくと、仏も法も知らぬ人のように、目だつような飾りも何もなくなるものです。

沢庵宗彭、訳:市川白弦、『不動智神妙録/太阿記/玲瓏集』、ちくま学芸文庫

現代の音楽でも、「ドレミファソラシド」という順番に上がってき、「ド~シ」まで上がるとまた「ド」に戻ります。

そして、「修行」というのは、基本的にこの「ドレミファソラシド」をどこまでも繰り返し続けることです。

「一つ上のド」に達したら、またそこから「レミファソラシ」と上がって行って、また次のオクターブの「ド」に至ります。

そうして、またそこからさらに上の「レミファソラシ」へと移っていくわけです。

このため、「初心者」と「熟練者」の間には共通点が多くなります。

たとえば、武道の稽古などでは、「初心者」はまだ何も習っていないので、特に何も意識しないで動きます。

このため、「心」がどこにも囚われておらず、ものすごい力を発揮することがあります。

「熟練者」も同様に「心」が囚われておらず、自由自在に動けますが、そこには長年の稽古で培った「身体的な裏打ち」がなされています。

その人は多くの技術を身に着けて、その上でそれを忘れているがゆえに、「自然体」でありながら非常に高度な動きを展開することができるわけです。

そして、「初心者」から「熟練者」に至るまでの間には、「学んだ技術を意識して使っている段階」が横たわっています。

この「途中の段階」にいる人たちは、それらの技術をまだ十分に血肉化できておらず、いつも意識していないと動くことができません。

また、時には「習った通り」に動けなくて落ち込んだり、「うまくやろう」と思って力んだりします。

ですが、こういった「作為」が当人の心身を束縛することになってしまい、その人は自由自在に動けなくなってしまうわけです。

ただ、「初心者」と「熟練者」は、どちらもそんな風に「規則」によって囚われていません。

どちらも感じたままに動いており、内側に「こうでないといけない」という想念がないのです。

とはいえ、「初心者」はそれをまだ自覚しておらず、動きも自己流で「無駄な部分」が多いものです。

こういった「余分な部分」を削ぎ落して「そのまんま」にしていくプロセスこそが、稽古です。

稽古という言葉は「いにしえの智慧に学ぶ」というのが語源ですが、それは別に「外から何かをくっつけること」ではありません。

そうではなくて、稽古というのは、「古の賢者や哲人が残したかた」を学ぶことで、結果的に「余分なもの」をそぎ落とすためのプロセスなのです。

それゆえ、稽古を十分に積んだ「熟練者」は、たとえ「形」に従っていても「形」に縛られることがなくなります。

当人はあくまで「内的必然性」に従って自発的に動いており、「外側」に動機を持っていないのです。


以上のような違いはあるものの、基本的に「初心者」と「熟練者」というのは似ています。

それゆえ、「自身の仏性」を本当に深く理解している人というのは、むしろ「その辺にいる一般人」に溶け込んで、見分けがつかなくなりがちです。

なぜなら、「自分はもともと仏である」という理解が当人の中であまりにも「当たり前」になってしまうと、その人が放つ「特別感」はかえって薄れるものだからです。

同様に、こと「瞑想的な呼吸」においても、「初心者」と「熟練者」というのは似ています。

「初心者」はそもそも自分の呼吸を意識しておらず、しばしばそれが乱れますが、同時に意図せず呼吸が止まることも多いです。

つまり、緊張やストレスなどが原因となって、無意識に呼吸を止めてしまうのです。

こういった場合、後になって当人は「ぶはー!」と大きなため息をついたりします。

そうすることで、無意識に止めていた呼吸を緩め、自分の中に溜め込まれていた「邪気」を吐き出そうとするのです。

ですが、もしも「瞑想的な呼吸」に熟達してくると、そもそも「緊張やストレスから無意識に息を止める」ということ自体が発生しなくなります。

当人は何が起ころうと基本的に「自然体」を維持することができるので、「息が詰まる」ということが発生しません。

それゆえ、「邪気」が内にこもることもないので、「ぶはー!」とため息をつく必要もなく、悠々と息し続けることができます。

そして、「心」もまた「動く必要」を失う結果として静止していき、呼吸もそれに呼応して自然と静止するようになっていくのです。

このため、「初心者」も「熟練者」も、日常的に「止息」が起こります。

この点は表面だけ見るとよく似ています。

ですが、その本質は「全くの別物」です。

たとえば、「初心者」は無意識に息を詰めてしまっており、その際、「氣の流れ」は完全に遮断されます。

そのため、内側に「邪気」がこもって、不快な感じがしてきます。

具体的には、なんとなく気分がすぐれなくなったり、身体が重く感じたりしてくるのです。

反対に、「熟練者」の場合、「物理的な空気の出入り」は少ないものの、「氣の流れ」は全く滞っていません。

全身を活発に「氣血」が循環しており、「天地」にも「息の軸」が通っています。

それでいて、呼吸そのものは非常に静かであり、「吸っているのか吐いているのかわからない状態」になっているのです。


こんな具合で、いかなる道においても、「初心者」と「熟練者」というのはよく似ているものです。

そして、「熟練者」もまた、「もう一段上のオクターブ」から見れば「初心者」なのです。

このため、本当の意味で修行し続ける人というのは、「自分はもうこれでゴールした」と思うことなく、どこまでも「一つ上のオクターブ」へと昇っていくことになります。

そうして上に昇れば昇るほど、その人がまとう雰囲気は「一番下の初心者」に似てきます。

つまり、「赤ん坊」に似てきます。

もしも「ゴール」というものがあるとするなら、「そこ」なんじゃないかと、私は思っています。

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