私も最近知ったのですが、世の中には「FOMO」という言葉があるそうです。
これは、「Fear Of Missing Out」の略で、「取り残される恐怖」を意味している語です。
SNSをやっている人は、身に覚えがあるかもしれません。
たとえば、自分がフォローしている人から発信される無数の情報を見るうちに、自分が何か時代や人々の流れから取り残されているかのような感覚になることがあります。
溢れかえる情報に触れるうちに、自分が孤立していくような不安を覚えてしまうわけです。
それで、「取り残されないようにしないと」と思って、その人は必死で周囲の流れにキャッチアップしようとします。
情報をたくさん消化して、自分自身でも活動をし、それをフォロワーたちに発信することで、
「自分は置いていかれていない」という気持ちになろうとするのですね。
しかし、それはあくまで「他動的な努力」であり、「当人の内側のリズムと必然性」に基づいたものではありません。
それゆえ、「追いつこう」とすればするほど、当人は徐々に疲弊していってしまいます。
そもそも、この十年~二十年ほどの間に、世の中に出回る情報の量は爆発的に増えました。
それらにあまり触れすぎると、私たちはどうしても「自分は取り残されているのではないか?」「自分に何か大切なものが欠けているのではないか?」という不安を感じがちです。
そこで、2010年代になって出てきたのが「JOMO」という概念です。
これは、「Joy of Missing Out」の略で、「取り残される喜び」を意味します。
つまり、「SNSや世の中の流れに取り残されることを積極的に楽しもう」という態度ですね。
これは、先ほど書いた「FOMO(取り残される恐怖)」へのカウンターとして出てきたものだろうと思います。
つまり、情報の洪水の中で、なんとかしてそこに追いつこうとしていたところから、あえて積極的に落ちこぼれていくわけです。
すると、そこには意外と深みや温かみのある時間が開けてきたりします。
「だから、むしろそこにこそ価値を見出して、もっと取り残されていこう」というのが、「JOMO」的な生き方なのでしょう。
しかし、「JOMO(取り残される喜び)」というものを人々が強調するのは、結局のところ、「FOMO(取り残される恐怖)」が多くの人の中にまだ残存しているからだと思います。
以前にもどこかで書いた気がしますが、私たちは「極端」から「極端」にジャンプしがちです。
これを中国哲学では「陰陽転化」と呼んでいて、中国においては「陰が極まれば陽となり、陽が極まれば陰となる」と考えられています。
そして、それは実際にその通りです。
私たちは何かを否定するために、「正反対の極端」に走ることがよくあるのです。
そもそも、「JOMO」という概念が出てきたのは、それだけ多くの人が「FOMO」に強い問題意識を持っていたからでしょう。
つまり、人々の中ではまだ「取り残される恐怖」が強い力を持っていたわけです。
それは言ってみると、一つの川の流れがある時に、あえてそれに逆らってのぼろうとするようなものかもしれません。
「川の上流」には「JOMO(喜び)」があり、もし泳ぐことをやめて流されると、その人は無意識にスマホやパソコンを触って情報を得てしまい、「川の下流」にある「FOMO(恐怖)」へと至りついてしまいます。
実際、デジタルデトックスをしたことのある人は経験的に知っているでしょうけれど、「全くデジタルに触れない」ということは、最初かなり苦しいものです。
そこにおいて当人は、「喜び」などは感じずに、ただただ焦燥感や不安感に苛まれます。
ですが、そうしてそのまま、「下流(FOMO)」に流されないように「上流(JOMO)」に向かって泳ぎ続けることで、段々と「喜び」が感じられるようになっていきます。
つまり、「FOMO」から必死で逃げ続けることで、なんとか「JOMO」に辿り着けるわけです。
ここにおいては、「喜び」というのは「自然発生的なもの」ではなく、どちらかというと、「当人の努力の結果」です。
その人は、心の奥底ではまだ情報とつながりたがっています。
だからこそ、あえて流れに逆らって努力しないと、「JOMO(喜び)」に辿り着けないわけです。
これに対して、最近「ROMO」という言葉が新たに出てきたようです。
これは、「Relief of Missing Out」の略で、「取り残される安堵」を意味します。
「ROMO」は、「JOMO」と同じのようにも思えますが、少しニュアンスが違います。
「JOMO」の場合は、どちらかというと、「自分の意志で積極的にデジタルから取り残される」という側面があります。
つまり、先ほども言いましたように、「FOMO(恐怖)」に流されそうになる自分の「弱さ」に逆らうようにして、頑張って「JOMO(喜び)」を目指す面があったのです。
これに対して、「ROMO(安堵)」にはそういった「力み」がありません。
ただ、受動的に世の中から取り残されていき、そのことにリラックスしている状態です。
先ほどの川の例で言えば、「下流」に向かって流されることに抵抗しないわけです。
そこには、「恐怖を避けて喜びに至らなければ」という観念がありません。
「JOMO(喜び)」においては、「自分の意志と選択で積極的に取り残されることを選ぶ」という面が強かったですが、「ROMO(安堵)」においては、当人はただ、受動的に取り残されていくことに、かえって安心感を覚えているわけです。
私はこのブログにおいて、「幸福を意識的に味わってください」とよく言っています。
それは、ある意味で「JOMO」的な作為です。
ここにおいて当人は、意図的に努力して「不幸」ではなく「幸福」に目を向けるようにしていきます。
なぜなら、人間の本能というのは、「不幸」に自然と吸い寄せられて、「幸福」は見落とすようにできているからです。
それゆえ、意識的に練習しないと、「幸福」というのは感じられるようになりません。
つまり、絶えず「下流(不幸)」に向かって流されがちな意識を、「上流(幸福)」に向かってさかのぼらせていく必要があるわけです。
ですが、そうやって練習を続けていくうちに、努力して「幸福を探そう」と思わなくても、その人は「幸福」を自然と吸着するようになっていきます。
それまで「不幸」ばかりを吸い寄せていた意識が、今度は「幸福」のほうを吸い寄せるようになっていくわけです。
そうすると、だんだんと「幸福を見つけて味わわないと」といった「力み」が抜けてきます。
つまり、「下流」に向かって流されることを、その人は恐れなくなっていくのです。
そして、そうやって「恐れ」を感じることなく流れに身を任せていると、いつかは「海」に流れ着きます。
あとはただプカプカ浮かんでいればいいだけです。
そこには、「自分は『海』と一つだ」という「ROMO(安堵)」があり、
「自分こそがその『海』だ」という感覚があることでしょう。
なので、人は三つの段階を経て「安らぎ」へと至ります。
最初は「FOMO(恐れ)」があり、人は苦しみの中にいます。
そして、この「恐れ」が極点に達した時、当人の中で「陰陽転化」が起こり、その人は逆向きの極端であり「JOMO(喜び)」に向かって、川の流れをさかのぼり始めるでしょう。
それもまた一種の努力であり、心身に緊張を生み出しますが、次の段階に至るためには必要なプロセスです。
そうして「JOMO(喜び)」が心身に定着し始めることによって、当人は「泳ぐ必要性」を感じなくなっていきます。
なぜなら、その時の当人には、わざわざ「上流」に行かなくても、「喜び」が感じられるようになっているからです。
それゆえ、その人は「下流」に向かって流されることを恐れなくなり、いつかは「海」に辿り着きます。
そして、そこには努力も力みもない、「ROMO(安堵感)」が広がっているのです。
あなたが今、どの段階にいるのかはわかりません。
ひょっとしたら、まだ「FOMO(恐怖)」が「極点」まで達しておらず、デジタル断ちをする勇気が湧かない状態かもしれません。
あるいは、「JOMO(喜び)」を育て始めてはみたけれど、「FOMO(恐怖)」に向かって流されがちで、手こずっているかもしれません。
ただ、結局全ては時間の問題です。
「FOMO」の段階にいる人も、いつかはそれが「極点」に達し、天秤が逆に傾く時が来ます。
そして、「JOMO」を育てている段階の人も、「FOMO」に戻っても苦しいだけだとわかっているので、そのまま泳ぎ続けるでしょう。
そうして、いつかは万策尽きて泳ぎ疲れてしまうはずです。
その時、「流されること」が起こり始めます。
当人はもはや「下流」に向かって流されることに抵抗しません。
その人はもう十分に頑張りました。
「成し遂げられること」は既に成し遂げ終え、「できないこと」はできないままです。
そして、「それでよい」と感じられた時、当人は「海」にただ浮かぶようになります。
そこには「深い安堵感」があります。
もはや泳ぐ必要はなく、どこにも行く必要がありません。
「全ては最初からこれで良かったんだ」
そのように思わずつぶやく時、私たちは「一番居たかった場所」に既に居るのです。

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