自伝の出版もできたので、次作の「道元解説本」を書いています。
とりあえず、今朝の執筆で「まえがき」と「第一章」が書き終わりました。
今のところ、文字数は一万文字ちょっと。
予想では、五万文字くらいでフィニッシュするのではないかと思いますが、こればっかりは、実際に書いてみないとわかりません。
ちなみに、第一章の内容は、「若かりし頃の道元自身の探求の記録」です。
道元は非常に聡明な子どもだったようで、四歳で漢詩を読み、十歳にもならない時には、「アビダルマ・コーシャ・バーシャ」という難解な仏典を中国語から日本語に翻訳していたそうです。
そして、七歳の時、両親の死をきっかけにして道元は真剣に仏道を志すようになり、のちのち彼は出家します。
その後、彼は仏典について学んでいくのですが、学んでいく中である疑問に取り憑かれるようになってしまいました。
それは、「なぜ悟るのに修行が必要なのか?」という疑問です。
彼は仏典を学ぶ中で、「人はもともと『仏』である」という文言をそこに見つけます。
しかし、もし本当に自分たちがもともと「仏」であるのなら、「真理を悟ること」は難しいことではあり得ません。
それは呼吸をするのと同じように自然な「本性」であり、それを悟るために努力が必要なのはおかしいでしょう。
それで、彼はこの疑問を解消するために、当時の自分の師に質問しました。
「なぜ自分たちはこんな厳しい修行を続けているのか?」
「これほど修行しているにもかかわらず、多くの僧が迷いと疑いから自由になれないのはなぜなのか?」
きっと道元は真剣だったでしょう。
でも、その時に道元の師であった公胤は、道元のこの問いに答えられませんでした。
なぜなら、公胤は仏典の知識をただ暗記して教えていただけで、「真理」を悟ってはいなかったからです。
道元は公胤に失望し、彼の元を去りました。
そしてここから、道元にとっての「真の探求の旅」は始まっていったのです。
道元はその後、あちこちの禅僧たちを訪ねたあと、中国に渡って「真の師」に出会います。
経典をただ暗記しているだけの人ではなく、「真理」を自分自身で体験的に理解し、それを実際に自分の一挙手一投足で表現できる「本物の師」と、ついに道元は出会ったのです。
なお、その経緯の詳細については、今書いている本が実際に出版されたら読んでみてください。
いずれにせよ、大事なことは次の点です。
それは、私たちのことを本当の意味で「自由」にしてくれるのは、経典をただ暗記しているだけの「教師(ティーチャー)」ではないということです。
「教師」は時に、ものすごい知識量を誇っているかもしれません。
ありとあらゆる経典に通じ、様々な質問に答えられるかもしれません。
でも、彼は「真理」については、まったくの「無知」です。
「教師」にできるのは、経典に書いてあったことをそのまま借りてきて、これを「受け売り」することだけです。
彼には「真理」を体現することもできなければ、それを生きることもできません。
彼にとって「真理」とは、「頭の中の観念」に過ぎず、「自分の中で血肉化した智慧」ではないのです。
それに対して、たとえ経典には通じていなかったとしても、「真理」を自分自身で毎瞬間呼吸している人がこの世には存在します。
こういった人々こそが、探求者たちを真の意味で「自由」にすることのできる「師(マスター)」です。
「師(マスター)」は「教師(ティーチャー)」ほど博識ではありませんが、自分自身で「真理」を日々生きています。
そして、この「生きた真理の源泉」をこそ求めるのが、「真の探求者」というものなのです。
ということで、「道元解説本」をちょっとずつ書いています。
興味が湧いた方は、完成を楽しみにお待ちください。
ほいではー。

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