私は「こういう時はこうするように」とか、「この場合はこうしないといけない」とかいった形で、「規則」や「戒律」みたいなものはなるべく書かないようにしています。
そこには主に以下の三つの理由があります。
- そもそも私に「人を言う通りにさせたい」という支配欲が希薄だから
- 「明確なルール」を与えると、それに寄りかかる人が出てくるから
- 人は「教え」からではなく「自分の経験」から学ぶものだから
以下、一つずつ説明してみましょう。
◎「支配欲」や「慈悲」からルールを作る人々
まず、「支配欲が希薄だから」ということですが、これはわかりやすいでしょう。
そもそも、世の中には、「生徒を自分の思い通りに動かしたい」と思っている教師もいて、そういう人たちは、「自分の言うことに従いなさい」と言ってきます。
そうして、生徒を思う通りに操作することで、自分の中の「コントロール欲求」を満たそうとするわけです。
「宗教の教祖」なんかも、こういったパターンは多いですね。
信者に「規則」や「戒律」を与えてはそれらを守るように言いつけて、間接的に信者を支配・洗脳するわけです。
ただ、「教祖」の場合は、必ずしも「支配欲」から「ルール」を与えるとは限らず、「慈悲」ゆえにそうする場合もあります。
たとえば、ゴータマ・ブッダは「戒律」をかなり細かく設定して弟子たちに与えていましたけれど、これは別に弟子たちを操作したかったからではなく、「道」をきちんと理解できない弟子にも実践ができるようにするための「方便」だったのだろうと、今の私は思っています。
実際、彼の弟子の数は非常に多かったために、それらの弟子たちの中には、自分自身で考えたりすることが苦手な人もいたでしょう。
それゆえ、ゴータマには「ルールというものは無いから、みんな自分で思い思いに修行してね」とだけ言って突き放してしまうことができず、「とりあえずの方向性」として「戒律」を与えたのではないか?
私は今、そんな風に思っています。
ただ、ゴータマは亡くなる直前に「自分を拠り所とし、法(ダルマ)を拠り所としなさい」と弟子たちに言い遺しています。
これは、「自分自身をこそ拠り所として外側に依存しないようにしなさい」という教えでもありますが、問題は「法(ダルマ)を拠り所とせよ」という部分です。
「ダルマを拠り所とせよ」とは、決して「私(ゴータマ)の作った戒律を守り続けろ」ということではなく、「宇宙の法則にこそ従え」ということだったのだろうと思います。
これを仏教では「自灯明法灯明」(自分を灯火とし、法を灯火とせよ)と言っています。
わたし流に言えば、「『自分の足』で立って、『心の声』に従え」ということになるでしょうか。
「他人の教え」や「世間の常識」に判断を委ねず「自分自身」を拠り所とし、最終的には「宇宙の理」とつながっている「心(ハート)」に判断を委ねて生きる。
曹洞宗の道元禅師流に言えば、「万法によって証される生き方」です。
そもそも、この世界には、私たち人間を含んだ「何か大きな法則(ダルマ=万法)」が存在しています。
それは「大いなるもの」ではあるのですが、私たち人間もその「法則」の一部なので、実は私たちは内側でこの「宇宙的な法則」とつながっています。
ちなみに、一般に「覚者」と呼ばれる人々は、こういった「宇宙的な法則」と自分が繋がっていることを自覚している人のことです。
つまり、「覚者」というのは基本的に「自力」では生きていなくて、いつも「宇宙的な法則」によって「他力」で生かされているわけです。
そう考えると、ゴータマも別に「外側の戒律」を守ってほしかったわけではなくて、弟子たち一人一人に「自分の内側」で「宇宙的な法則(ダルマ)」とつながってほしかったのではないかと、私には思えてきます。
しかし、ほとんどの弟子はそれでは困ってしまいます。
なぜなら、多くの弟子には「外側のルール」は理解できても、「内側で鼓動する宇宙的摂理」は感じ取ることができないからです。
そしてこれが、私が「具体的なルール」を作らない二つ目の理由につながってきます。
◎「ルール」に寄りかかって「自分」を失う人々
結局、ゴータマが亡くなった後、人々はその教えについて議論したり対立したりするようになっていきました。
つまり、「ゴータマが伝えた教えのどの部分を守るべきか」という点において、後世、意見が分かれてしまったのです。
特に、「法(ダルマ)を拠り所にせよ」というゴータマの最期の言葉については、「戒律をきちんと守れということだ」と解釈した弟子だっていたでしょうし、むしろ、そういう風に解釈してしまう方が楽でもあります。
なぜなら、その場合、「わかりやすい判断基準」が確保できて、自分で考えたり感じたりしなくて済むようになるからです。
「戒律さえきちんと守っていれば悟りに到達できる」と考える弟子たちは、もはや教えを授けてくれるゴータマのいなくなった世界で、「戒律」にしがみついて思考停止していっただろうと思います。
しかし、当のゴータマ自身は「何らかの外的な基準」に従って教えを授けていたわけではなく、あくまで「宇宙の法則(ダルマ)」とつながる中で理解したことを伝えていただけでしょう。
つまり、ゴータマは「宇宙の法則」を彼なりに翻訳していただけだっただろうと思うのです。
そういう意味で、ゴータマ自身は「外側の戒律」に従っていたわけではなく、「宇宙の法則」に従っていただけです。
でも、「宇宙の法則」がまだ見えない弟子にとっては、目で見てわかるような「はっきりしたルール」に従うことしかできません。
このため、多くの弟子たちは「既存のルール」に従っていればいいのだと考えてしまい、「宇宙的な理」に対しては閉じていったはずです。
そうして、彼らの中では「戒律」に対する依存心が育っていき、同時に、「そこから外れてはいけない」という恐れや束縛が生まれてくることになったでしょう。
◎探求におけるスリーステップ
「現状公案・解説本」でも書いたのですが、基本的に私たちの探求というのはスリーステップで進みます。
最初は、教師の下で「既存の教え」を学びます。
そこで生徒たちは、自分でもまだ「宇宙の法則(ダルマ)」が見えていない「教師(ティーチャー)」に師事して、「出来合いのルール」について学ぶわけです。
もともとその「ルール」は、「宇宙の法則(ダルマ)」を自分で理解できていた「師(マスター)」によって作られたものだったのですが、その「師」がこの世からいなくなってしまうと、「外的な形式」だけが受け継がれていきがちです。
それゆえ、「ダルマをまだ自分では理解できていない教師」が「形式と本質の違いの見分けがつかない生徒」に向かって、「死んだ教え」を伝授するということにもなるわけです。
これが探求のファーストステップです。
しかし、このような状態に長く留まっていると、「真摯な探求者」ほど違和感を覚えるようになります。
なぜなら、いくら「教え」を学んでも「根本的な変化」が何も起こらないからです。
確かに、「教え」を学べば、「戒律」や「教義」については詳しくなるかもしれません。
時には「偉大な学者」にさえなることもあるでしょう。
でも、その人は単に「形式」に詳しくなっただけで、あいかわらず「ダルマ」が理解できるようにはなっていません。
つまり、「宇宙とつながる」ということがどういうことか、体験的には知らないわけです。
このことに違和感を持つようになった人は、教師の元を離れて、「真の師(マスター)」や、「真実の道(ダルマ)」を求め、「自分の足」で歩き始めます。
要は、既存の教えや教義に寄りかかることをやめて、自分自身で探求するようになっていくのです。
そして、「自分の足」で歩いて「師」と「道」を求めるうちに、徐々にその人の「覚醒」は深まっていきます。
なぜなら、その人はもういかなる教師にも既存の教えにも、全面的に寄りかかることができないからです。
当人はここにおいて、全てを自分の責任で決定し、自分自身で「進むべき道」を見つけねばならなくなります。
彼/彼女は「自由」ではあるのですが、その「自由」には同時に「責任」も付随することになるわけです。
そして、この「自由」と「責任」が、当人に「注意深く生きること」を促します。
つまり、その人は自然と「意識的に生きる」ということをし始めるようになるわけです。
この結果、当人の「目」が徐々に開いてきます。
具体的には、自分自身が「意識的に生きる」ようになることで、「機械的にルールに従っているだけの人」と「意識的に宇宙の法則(ダルマ)に従っている人」との違いが見分けられるようになるのです。
そのため、だいたいの探求者が、この段階で「真の師(マスター)」と出会うようになります。
つまり、経典や聖典を受け売りするだけの「教師(ティーチャー)」ではなく、自分自身で現に「宇宙の法則(ダルマ)」につながりながら生きている「師(マスター)」を見分けて、その人に師事するようになっていくのです。
ここまでが、探求のセカンドステップです。
そこからは、その「師」の元で学ぶことで、徐々に「師」の中に在る「静寂のリズム」が当人を感化していきます。
つまり、「外的なルールに従うこと」によってではなく、「師の呼吸や言動に触れること」によって、当人の中にも「宇宙の法則(ダルマ)への経路」が開通し始めるのです。
そうして、どこかの段階でその人は「宇宙」と一つになります。
あるいは、「自分こそが『宇宙』だ」と気づきます。
この段階が、真理の探求の「終点」である、サードステップです。
ここから先は、内側で常に鼓動している「宇宙の法則(ダルマ)」を日常的に表現しながら、「自分の悟り」を終わりなく振り撒いて生きるようになります。
それが「悟った後の人生」です。
ちなみにこれを、道元禅師は「自己と他己の心身を脱落させる生き方」と言っています。
それは言い換えると、「自分と他人の心身を自由にし続ける生き方」のことです。
というわけで、「真理の探求」というのはこんな具合に進んでいくのですが、詳しいことは「道元禅師の現状公案・解説本」に書いたので、もっと知りたい方はそちらを読んでみてください。
ともあれ、このような「探求の全体像」が見渡せるようになると、「外的なルールにしがみついている段階」というのは、まだファーストステップに過ぎないとわかるはずです。
そこから先に進むためには、むしろ「ルールに寄りかかる」という在り方自体を捨てねばなりません。
しかし、人によってはこれがあまりにも恐ろしいので、いつまでも「ルール」に寄りかかり続け、なかなかファーストステップから抜け出すことができなかったりもします。
そして、私としては、なるべくそういう人を増やしたくはないので、「寄りかかりやすいルール」は極力作らないようにしているわけです。
◎人は「既存の教え」ではなく、「自分の経験」からこそ学ぶ
最後に、私が「わかりやすいルール」を作らない三つ目の理由ですが、それは、私が人々の「学ぶ力」を信頼していることです。
そもそも、私たちが本当に深く何かを学ぶ時というのは、いつも自分の経験から学ぶものです。
実際、私たちはこう言わないでしょうか?
「こんな目に遭ったおかげで、あの言葉の意味がやっとわかった」
「いろいろ苦労したけれど、おかげでこの教えの意味が納得できた」
実際、「経験」こそが「最も純度の高い学び」を私たちに与えてくれるものです。
人は「教え」からは学ばず、「自分の経験」から学びます。
そして、後になって「経験から学んだこと」と「教え」を突き合わせることで、「答え合わせ」をするのです。
実際、人は傷つくことで「痛み」を知り、「失敗」を重ねることで「自分の小ささ」を知ります。
そして、自分で実際に「失敗」をするからこそ、「この道は間違っていたのだ」と理解することができるわけです。
だから私は、本人が「やってみたい」と思っていることは、基本的に何でも推奨することにしています。
どうせ止めたって、当人は「やりたい」と思っているのです。
だったら、実際に自分でやってみないことには、その人は納得できないでしょう。
逆に、そこで無理に引き留めてしまうと、後々まで当人の中に迷いを残す結果になりがちです。
そうなると、「結局、あっちの道は試さなかったけれど、あの道は本当に間違っていたのだろうか?」と、きっとその人は考え続けることになってしまうはずです。
人は、自分で試して自分の身でもって「痛い目」に遭うことで学びます。
そうしてその人は「この道はもう捨てよう」と決意して、自分自身で深く納得した上で「別な道」を探し始めます。
逆に、自分で試してみて効果や価値を実感することで、「この道は自分に合っている」と確信することもあるでしょう。
そうであれば、そこからその人は自分の主体的な判断でもって、あえて「その道」の中に留まり、「自分なりの実践」を重ねていくことになるのです。
このように、人は「自分の経験」からこそ学ぶものであり、何も考えないまま「既存のルール」に従っていても学ぶことはできません。
なぜなら、「教義や学説に精通する」ということと、「人生について深く学ぶ」ということとは、全く違うことだからです。
そのため、私は基本的に「あなたの心は何をしたがっていますか?」とだけ問いかけることが多いです。
なぜなら、「自分の心」に従って「道」を歩むなら、その人は、「自分の経験」の全てから必然的に学びを得ることができると思うからです。
そもそも、人は自分で「これをしたい!」と思って始めたことについては、自然と意識的になるものですし、自分の選択にも責任を持つものです。
だからこそ、その過程で経験することは、みんなその人の身になりますし、「最終的な結果」についても、その人は「他人のせい」にしたりせず、自分自身で引き受けます。
このため、たとえ何を経験してどんな結果になったとしても、その人はそこから何か「本質的なこと」を学べるのです。
◎人は「ジャンクフードを意識的に食べること」からも学ぶことができる
なので、私は人々に必要なのは「教え」ではなく「覚醒」だと思っています。
もしも「覚醒」が伴っているなら、どんな経験からでも人は学ぶでしょう。
たとえば、他人から「カップ麺なんて身体に悪いから食うな」と言われても、その人の「心」が「食べたい!」と言うのなら、私は食べてみたらいいと思います。
ただし、必ず「覚醒」を伴った仕方で食べます。
たとえば、せっかく食べるのですから、「これをこそ食べたい!」と心から思えるような「特別な一品」を選んで買ってきて、自宅で落ち着いて食べます。
その上で、食べている途中も、丁寧に味わって、一瞬一瞬を楽しみながら食べるのです。
そうすると、たぶん「カップ麺」を一杯食べるだけでも、かなり満足感があるはずです。
そして、もしもそうやって丁寧に味わってカップ麺を食べ続けるならば、どこかの段階で、その人は自然と「もっと手の込んだもの」を食べたくなるでしょう。
なぜなら、「カップ麺」はどこまで行っても「出来合いのジャンクフード」であり、本当の意味で「心」と「身体」を満たすことのできる「質」が伴っていないからです。
「カップ麺を味わって食べる」という「行」をおこなったことで、当人の感受性はきっと育っているはずです。
それゆえ、「自分の心と身体が本当は何を食べたがっているか」ということも、前より鋭敏に感じ取れるはずです。
その人はスーパーに買い物に行って、「生命力」に溢れているように感じられる食材を買ってきて、自分で調理をするようになるかもしれません。
「食べる」という営みをもっと楽しみたいがゆえに、誰から言われたわけでもなく、自分から自炊をし始めるわけです。
そうして、その人は「自分で作って自分で食べる」という全プロセスを楽しみ始めるかもしれません。
たぶん、この段階まで行ったなら、もう「カップ麺」に興味を持つことも激減しているのではないかと思います。
でも、もしこの人に「カップ麺は身体に悪いから食うな」と言って、そもそも「カップ麺を食べること」を一切許さなかったなら、当人はそこから何も学ぶことができません。
ただ、「食べたいものを食べられない」という束縛だけが内面化し、その人のことをかえって苦しめる結果になったはずです。
でも、「カップ麺」が本当に「身体」に悪いなら、「覚醒して食べること」を通して、「身体」がちゃんと教えてくれます。
実際、もしも「身体」に合っていないなら、しばらくすると自然と「食べたい」と思わなくなっていくはずです。
あるいは、人によっては「カップ麺」が「身体」に深く適合している可能性もゼロではありません。
実際、アメリカのドン・ゴースクさんという人は、マクドナルドのビッグマックがあまりにも美味しく感じるものだから、1972年以来、毎日これを食べるようになり、既に半世紀以上食べ続けていますが今も健康に生きています。
彼が食べたビッグマックの数は三万個を超えるそうですが、彼は健康を維持するためにウォーキングも欠かさないようで、彼のビッグマックにかける情熱のほどがうかがい知れます。
私は、彼がビッグマックを機械的に食べていたとは思いません。
きっと彼はそれを食べることを「心」から楽しみ、毎日新たな気持ちで「今日のビッグマック」と向き合っていたはずです。
そして、結果的にはそういった彼の「覚醒」を伴った姿勢が、「半世紀以上、毎日ビッグマックを食べ続けても健康を崩さない」という事態を生み出すに至ったのです。
◎終わりに
ともあれ、私は「既存のルール」というものにはあまり意味がないと思っています。
もちろん、「とりあえずの道標」くらいに使うならいいと思いますが、それに寄りかかっていては、人は何も学べなくなります。
そしてそれは、「自分の人生を生き損なう」ということにもつながります。
つまり、「外側のルール」に全ての責任を押し付けてしまうことによって、その人は「自分の責任で自分自身の人生を生きる」ということが、できなくなってしまうのです。
「自分自身の足」で歩み、「自分自身の経験」から学ぶこと。
そこにこそ、その人自身の「成長」はあると思いますし、そのような「成長の軌跡」の中にこそ、その人だけの「ユニークな足跡」も刻まれることになるのだと、私自身は思っています。

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