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「心の静止」は「呼吸の静止」|もしも「心の動き」がなくなると、呼吸と共に世界が止まる

私は「『自由』というのは深く息ができていることだ」と常々主張しているので、
読者の中には、「きっとこの人自身はさぞかし深く呼吸をしていることだろう」と想像している人がいるかもしれません。

しかし、実のところ、もしも「心」が透明になると、呼吸というのは自然と静止します。

つまり、まるで吸っても吐いてもいないかのように、非常に静かな状態になるのです。

そもそも、呼吸には三つのフィズがあります。

一つは「呼息」であり、これは「吐くフェイズ」です。
もう一つが「吸息」で、こちらは「吸うフェイズ」にあたります。
そして、三つ目が「止息」で、これは「吸っても吐いてもいないフェイズ」です。

私たちの呼吸というのは、「呼息⇒止息⇒吸息⇒止息⇒呼息…」という順番でずっと繰り返されていきます。

しかし、ほとんどの人は、「呼息」と「吸息」の間にある「止息」のフェイズを自覚することがありません。

なぜなら、多くの人は「止息の時間」があまりに短すぎるからです。

これは、その人の「心」が波立っていることによって生じる現象です。

そもそも、呼吸というのは私たちの精神状態と密接にリンクしています。

実際、私たちは「怒り」を感じると呼吸が変化し、「楽しさ」を感じている時も呼吸が変わります。

それぞれの感情には「固有の呼吸のリズム」というものがあるため、たとえば、「楽しい時の呼吸」を維持したまま「怒り」を感じることは非常に難しいものです。

そして、だからこそ、「呼吸法」がメンタルの安定に役立つことがあるのです。

つまり、呼吸そのものを落ち着いたものにすることで、感情がブレないようにできるわけです。

このように、感情が落ち着けば呼吸も落ち着くし、呼吸が落ち着いても感情は落ち着きます。

逆に、どちらかが乱れると、必然的にもう片保も乱れることになります。

こういったことは、経験的にもわかりやすいはずです。

しかし、「心が完全に静止した状態」というのは、ほとんどの人が経験したことがないと思います。

「こうしよう」という意図も作為もなく、ただ「在る」だけの状態。

そこにおいて、「心」は「動く必要」を感じなくなるので、「静止」します。

そして、この「静止状態」が日常のデフォルトになると、呼吸も一緒に「静止」するようになっていくのです。

すると、「呼息」と「吸息」は非常に静かになり、「止息」のフェイズが徐々に長くなっていきます。

やがては「吐いているのか吸っているのかさえ判然としない状態」に至ると思います。

これは、「心の動き」が静かになったことで自然と起こる変化です。

逆に、もしもこれを意図的にやろうと思ったら、たぶん「息苦しさ」を感じるはずです。

なぜ息苦しくなるかというと、意図的に呼吸だけ止め続けることで、「心の動き」と「呼吸の動き」が当人の中でズレてしまうことになるからです。

逆に、私は無理してたくさん呼吸をしようとすると、かえって息苦しくなります。

なぜなら、私にとって無理に呼吸をしようとすることは、既に静かになっている湖面にわざわざ「波」を立てるようなものだからです。

そしてそれは私からすると、「余計なこと」と感じられるので、あえてたくさん呼吸しようとは思わないのです。

私たちの「心」と呼吸の間にはこういった関連性があるため、もしも瞑想を実践していくと、どこかの段階で「止息」が長くなり始めるはずです。

「そうしよう」と思わなくても、勝手にそうなります。

そしてそれは、「心の動き」が静止し始めたサインです。

なので、別に「息が浅くなってしまった!」と思って慌てる必要はありません。

ただ、「起こるべきことが起こった」と思っておけばいいと、私は思います。

しかし、そうは言っても、人によっては「本当に心が静かになっているのだろうか?」と疑問に思うかもしれないので、チェック方法を示しておきます。

それは、「止息」の状態の中で「心地よさ」や「落ち着き」を感じるかどうかです。

もしも「心の動き」が自然と静止した結果として発生している「止息」の場合、その状態に留まっていることは、当人にとって心地よく感じられるはずです。

時には、「自分の呼吸」と一緒に「世界全体」まで動きを止めたかのような静寂を感じ、深く落ち着くことができる人もいるかもしれません。

逆に、息が止まっている間、かえって自分の中が騒がしくなってくるように感じられる場合、それは「自然発生的な止息」ではありません。

その人の「心」はまだ激しく動き回っており、呼吸だけが無理に止められたことで、「動いている心」と「止まっている呼吸」の間のコントラストが際立つはずです。

それゆえ、かえって落ち着かなくなってしまい、呼吸も苦しくなるでしょう。

このように、「自然発生的な止息」というのは、「心」が十分に落ち着いたことの結果です。

なので、別に「異常事態」だと考えなくて大丈夫です。

ただ、「意図的な止息」も役に立つ場合があります。

これは「タントラ」というヒンドゥー教の瞑想技法のひとつなのですが、過去の私はこれを「停止の技法」と呼んで、日常的に実践していました。

やり方は簡単です。

日常の中で、突然、全身を停止させるのです。

「突然」というのが「ミソ」で、「よーし、今から止まるぞ…」と思って準備したりせず、いきなり止まります。

あたかも彫像になったかのように身体を止め、呼吸も完全に停止させます。

特に、「眼球の動き」はキッチリ止めてください。

なぜなら、「目の動き」というのは「思考の動き」と関連が深いからです。

実際、私たちが眠っている間に夢を見ると、眼球が激しく動きます。

つまり、脳が情報を処理するために思考する時、眼球というのは自然と動くものなのです。

このため、生まれつき思考が少ない人や集中力が高い人は、何かをジッと見つめる傾向があります。

そういう人にとっては、「眼球を動かさない」ということがさして苦痛にならないのです。

ともあれ、こんな具合に、身体を止めて、呼吸を止めて、眼球の動きを停止させます。

すると、たぶん「自分の内側」が見えてくるはずです。

つまり、そうやって「外側」を緊急停止させることによって、まだ動き続けている「内側」が見やすくなるのです。

そもそも、いつも私たちが「内側」を見ることがうまくできないのは、一緒になって「外側」まで動いてしまっているからです。

これは言ってみると、動いている列車に乗りながら、並走している列車を観察しようとするようなものです。

しかし、そんな風に「自分の足場」自体が動いていると、目の前の列車がどれくらいの速度でどっちに向かって動いているのかを、正確に観察することが難しくなります。

なので、「目の前の列車」という対象を観察しやすくするために、「自分の乗っている列車」のほうの動きを止めて、「観察するための足場」を固定してしまうわけです。

これが「停止の技法」です。

「身体、呼吸、眼球」という三つの動きを急に停止させることで、結果として、「まだ動き続けている内側」がコントラストでくっきり見え始めます。

これによって、当人は「内側」を観察するのが容易になりますし、「内側の動き」もまた、「停止した外側」にひっぱられて、徐々に停止していきます。

時には、「全身心が停止して、世界全体が停止したかのような感覚」を覚えることもあるかもしれません。

もしそのような感覚が生じていれば、この技法がうまくできています。

ただ、これはあくまで「意図的な停止」であって、「自然な静止」とは別なものです。

そもそも、「停止」は「無理やり起こすもの」であって、「静止」は「自然と起こるもの」です。

なので、いくら「停止の技法」だけを実践し続けても、「自然な静止」には直接つながっていかないのです。

しかし、「停止の技法」を実践していけば、「内側を見るとはどういうことか」が、感覚的にわかってくるはずです。

そうしたら、その感覚を頼りにして、日常的に「自分の内側」を観察していきます。

きっとそこには「こうでないといけない」という想念や、「こうなったらおしまいだ」という強迫観念があることでしょう。

これらの束縛は、「内側」に息苦しさや動揺をもたらし、「自然な静止」を妨げています。

だから、もしも「自然な静止」を実現したければ、「内側」を見つめることでこれらの束縛を自覚しては、一個一個手放していくことが必要です。

つまり、「停止の技法」を使って「内側を見るコツ」をつかめたなら、そこから「束縛の自覚と放棄」に進んでいけば良いということです。

そうして、「あぁ、これが自分を縛っていたのか」と納得した上で手放せると、「内側の束縛」は消えていきます。

そうやって束縛を一個ずつ手放していけば、きっとどこかの段階で息は自然と静止するようになっていくはずです。

そして、当人は「吸ってもいなければ吐いてもいない状態」の中に長く留まるようになっていき、そこに「静けさ」と「心地よさ」を感じるようになっていくのです。


インドの古くからの哲学では、「呼息」は「死」を意味し、「吸息」は「生」を意味しています。

そういう意味では、「吸っても吐いてもいない止息のフェイズ」というのは、「生でも死でもない状態」と言えるでしょう。

「解脱」のことを、「生と死の円環を超越すること」と表現したりもしますが、それが呼吸に現れたものが、「自然な止息」なのではないかと、私自身は思っています。

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