以前、「父性原理」と「母性原理」について記事を書いたことがあるのですが、このことについて、再度、もう少し具体的に考えてみたいと思います。
ちなみに、前に書いた記事はこちらです。
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では、さっそく話を始めていきましょう。
◎どちらか一方の「原理」が強まり過ぎることで生じる問題
先ほどリンクを貼った記事の中でも書いていますが、私たちの中には「父性原理」と「母性原理」が存在しています。
「父性原理」は、「公平性」や「正しさ」、「力の感覚」などを重視します。
対して、「母性原理」は、「受容性」や「慈愛」、「温和さ」などを重視します。
「陰陽」で言うと、「父性」が「陽」で、「母性」が「陰」ですね。
そして、これら両者が内側でバランスを取ることで、私たちの心身というのは調和を保とうとするのです。
とはいえ、「父性」と「母性」のバランスを取るというのも、なかなか難しかったりします。
なぜなら、私たちはどうしてもどちらか一方に偏りがちだからです。
たとえば、「父性原理」が内側で強くなり過ぎると、「弱者を赦す」ということができなくなります。
その人は、「正しさ」の名のもとに「間違っている他人」を断罪したくて仕方なくなってしまい、他人の中にある「過ち」や「弱さ」を許容できなくなってしまうのです。
そして、この姿勢は自分自身にも向けられることになり、その人は「自分の過ちや弱さ」を受け入れることができなくなります。
それゆえ、当人はしばしば自己嫌悪や罪悪感によって苦しむようになり、この「苦しみ」を克服すべく、「力」を求めるようになっていきます。
具体的には、何らかの教えを学んで「自己変革」をしようとしたり、知識や技術を身に着けることで、「強く」なろうとするわけです。
しかし、どれほど努力したとしても、全ての「弱さ」と「愚かさ」を自分の中から一掃することは誰にもできないので、当人はどこかで「敗北感」に苛まれることになるでしょう。
また、そうやって「力への渇望」に焼かれ続けることで、その人は「何もしないでリラックスする」ということができなくなります。
つまり、「父性原理」が強くなっていると、常に「何らかのゴール」に向かって走り続けることになりがちなのです。
これに対して、「母性原理」が強くなり過ぎると、「公平性」を維持することができなくなります。
たとえば、目の前の他人が「どう考えても間違っていること」をしていても、当人はそれを止めることができなくなり、右往左往してしまったりします。
もし目の前で「不当な殺人」が起きようとしていた時、「父性原理」の働いている人であれば、それを力ずくで止めようとするでしょうけれど、「母性原理」が強くなり過ぎてそれに飲まれてしまっている人は、「殺す側にもそれ相応の事情があるかもしれない」と考えて、止めるのをためらってしまいます。
結果、殺人を止めることができず、「失う必要のなかった命」がなくなってしまうこともあるでしょう。
つまり、「母性原理」があまりに強くなると、人は優柔不断になるわけです。
ありとあらゆるの人の事情を考えて、それに共感と同情を示し過ぎてしまうことによって、その人は「何をしたらいいか」が決断できなくなってしまいます。
実際、「決断する」ということは、「それ以外の全ての選択肢を切り捨てること」を意味します。
それゆえ、そこにはどうしても「果断さ」が必要であり、「母性原理」が強くなり過ぎると、「決断」ができなくなってしまうわけです。
また、当人は心の中で「したい」と思っていることがあっても、それを断行することができなくなります。
なぜなら、「自分がしたいことを思い切りすることによって、誰かのことを害するかもしれない」と思ってしまうからです。
このため、「母性原理」が強くなり過ぎると、その人は何も言えず何もできず、身動きが取れなくなっていってしまいます。
これが、「母性原理」が強まり過ぎる場合の問題点です。
◎「陰陽転化」と、「陰陽の自発的な微調整」について
こういったわけで、「父性原理」だけだと「自他に容赦がなさすぎる」し、「母性原理」だけだと「何も変えることができない」という無力感の中に沈むことになってしまいます。
だからこそ、両者のバランスを取ることが重要にもなるわけです。
とはいえ、両者は常に「微増減」を繰り返しており、「完全に均衡した状態」に保つことはほぼ無理です。
私自身が過去に書いた記事を読んでもらってもわかるんじゃないかと思いますが、私もその時々で、「父性原理がちょい強めの文章」を書いたり、「母性原理のほうが強めの文章」を書いたりしています。
両者が完璧に均衡した場合、そこからは何も出てこなくなるので、たぶん「文章を書く」ということもできなくなるでしょう。
あるいはそれは、「あえて書く必要を感じなくなる」という状態かもしれません
そういう意味で、私が文章を書けるのは、私の中で「父性」と「母性」の間に「微妙な不均衡」があるからなのです。
ともあれ、やはり問題は「父性原理一辺倒」とか、「母性原理だけどっぷり」とかいった状態になることでしょう。
どちらにしても当人は苦しむことになってしまうので、両者をぴったり均衡させる必要は無いですが、ある程度バランスは取れていたほうがいいと思います。
「じゃあ、どうしたらいいの?」という話に今回もなってしまうと思うのですが、ひとまず自己診断をしてみましょう。
要は、自分の中で今、「父性原理」と「母性原理」のどっちが強くなっているかを点検してみるわけです。
もしも自他を許せなくて辛くなっているならば、「父性原理」が強くなっているでしょうし、優柔不断で物事を決められなくなっているならば、「母性原理」が強くなっているはずです。
人によっては、「両方の状態」を行ったり来たりすることもあるかもしれませんが、それもまたよくあることです。
これを中国の哲学では「陰陽転化」と言っていて、「陽が極まると一気に陰に転じ、陰が極まると一気に陽に転じる」とされています。
実際、人というのは「極端から逆の極端にジャンプする」ということをしがちな生き物です。
たとえば、それまで「反抗だ!闘争だ!」と叫んでいた人が、急に「非暴力」や「平和主義」に目覚めたりします。
そうして、またしばらくすると、その同じ人が「やっぱり闘争だ!」と言ったりするわけです。
なので、「父性の極み」と「母性の極み」を行ったり来たりすることも、「よくあること」だと思っておいてください。
重要なことは、「極端」を離れて「真ん中」に持って行くことです。
仏教で言うところの「中道」というやつですね。
しかし、これが「意識的に微調整する」ということが難しいのです。
むしろ、「父性原理が強くなり過ぎているから母性原理を強めよう」と意識的に調整しようとすると、「極端から極端へのジャンプ(陰陽転化)」を誘発しやすいです。
「じゃあ、どうしたらいいか?」というと、毎度のことなのですが、「覚醒すること」が鍵になります。
たとえば、もしも今、「父性原理」が強まっていて「自分や他人の弱さ」を許すことができないのなら、その時に起こることをよくよく観察することです。
自分や他人を裁くことによって、内側に生じる「痛み」を感じ、「傷つく他人」の姿を見て、そこで「心」が何を感じるかを観察してみてください。
たぶん、そういうことをずっと続けていると、どこかの段階で、
「『正しさに固執すること』はそもそも『正しいこと』なのだろうか?」という疑問を抱くようになるはずです。
つまり、「正しさ」に対するメタ的な思考が芽生え始めるのですね。
普通に考えると、「正しさに固執すること」は「正しい」はずなのに、この時、その「血の通っていないロジック」に異議を唱える声が内側で聞こえてきます。
そうして、自問自答をするうちに、自然とその人の中で「父性原理」が弱まって、「母性原理」が強まってくるのです。
◎「中道」は「自然な成り行き」として起こる
しかし、こういった変化は、「自然な成り行き」として起こるのであって、意図して起こすことができません。
自分と他人を実際に容赦なく断罪することの中で、自分や他人の「血」が流れ、「痛み」を経験した結果として、当人は疑問を持つようになるのであって、まだ一滴も「血」が流れておらず、一切「痛み」も知らないうちから、「内的な変化」だけ起こすことはできないのです。
だから、もしも今の時点で内側に「疑問」を感じていないなら、その人は容赦なく自他を断罪するしかないと思います。
どのみち、他に選択肢はありません。
なぜなら、まだその人は「疑問を抱ける地点」まで自分の足で歩いていないからです。
それによって、自分と他人が「血」を流すことになるでしょうけれど、それも仕方のないことです。
「自分自身への疑い」を持っていない人は「止まる」ということができないので、その人自身の中で「学ぶ準備」が整うまでは、「血」が流れるべくして流れるでしょう。
ですが、もしも「覚醒」を保ったまま、流れる「血」を見て、「痛み」を我が身で体験すれば、どこかの段階でその人は立ち止まるようになります。
そして自然と、「今までとは違うこと」をし始めるはずです。
人によっては「陰陽転化」が起こって、「逆方向の極端」に走ってしまうかもしれません。
つまり、いきなり「非暴力」や「平和主義」を掲げ始めるわけですね。
そして、たぶんそういうケースだと、またしばらくしたら、「陰陽転化」が起こるでしょう。
「やっぱり闘争がなければ世界は変えられない!」と思い始めるわけです。
ですが、そういった「行ったり来たり」もまた、「その人自身の学びの一部」です。
当人はきっと、何度も「陰陽転化」を繰り返すことで、気づき始めるはずです。
「結局、自分はずっと同じことをしている」と。
それまでは「反抗と闘争」を主張している時と、「非暴力と平和」を訴えている時とで、「自分は違うことを出来ている」と思えていたことでしょう。
でも、「目線」を少しだけ高く引き上げて全体を見下ろしてみると、
「自分は両方の極端を行ったり来たりしているだけだ」ということが、事実として観えてくるわけです。
それゆえ、その人はある時に気づいてしまうはずです。
「結局、方向性が真逆なだけで、やってることは変わっていない」と。
その時、その人は「自分はこれまでずっと『同じ環』の中をグルグル回っていただけだ」と理解します。
そして、この理解がその人の中で起こった時、「父性原理」と「母性原理」は自然と均衡するようになっていき、結果的に「中道」が実現することになります。
なぜなら、その時その人は、「極端なことをする」ということに、もはや意味を感じなくなっているからです。
当人は既に、「そんなことをしても何も変わらない」と気づいています。
どれだけ「極端」に振り切っても、「環」の中からは出られない。
そのことへの気づきと無力感が、結果的に、当人の内側から「両方の極端」を落とすのです。
◎「変わること」を諦めた時、人は真の意味で変わり始める
そういうわけで、「中道」というのは意図して作れるものではありません。
そうではなくて、当人が徹底的に自分の経験の全てを意識的に観察した結果として、「自然発生する境地」なのです。
だから、今あなたがするべきことは、「父性原理が強めみたいだから、母性原理をちょっと足して」とかいったような「小手先だけの調整」ではありません。
そうではなくて、あなたにとって必要なのは、「自分の人生に対して覚醒すること」です。
自分自身の振る舞いによって人生に何がもたらされるかを意識的に観察し、その結果を見届けること。
それによって「学び」が自然と起こります。
そうしていつか、あなたは気づくようになります。
「自分はずっと『同じこと』ばかり繰り返している」と。
その時、あなたは「自分のやっていること」のバカバカしさを知って、うんざりすることになるでしょう。
そして結果として、それによってあなたは変わるのです。
基本的に人は、「変わろう」と思っているうちは根本的には何も変わりません。
人が根本的に変わるのは、「変わること」を諦めた時です。
「何年もかけて、どれだけ努力しても、自分は『同じ環』の中をグルグル回ることしかできていなかった」と気づいた時、あなたは自分自身に絶望します。
そして、それによってあなたは「変わること」を諦めて、「ただ生きる」ようになるでしょう。
しかし、この「変わろうとしない姿勢」が、かえって「本質的な変化」を引き起こします。
あなたは突然、内側で「バランス」が取れ始めたことに気づくはずです。
「自他を苛烈に裁こうとする欲求」が沈静化し、「他人の事情を考えすぎて何も言えない」ということにもならなくなって、「言いたいことはキッチリ言うけど、相手の立場も尊重する」という「自立した振る舞い」が、あなたは自然とできるようになります。
「真ん中」に立ったまま、どちらにも寄りかからずにいられる状態。
それは、このようにして実現します。
ですので、「中道」というのは「目指すもの」ではなく、「最終的に落ちていく場所」です。
ありとあらゆる「失敗」と「痛み」を経験し、「何をやってもダメだ」と万策尽きた時、その人は自然と「中道」を体現し始めるでしょう。
もちろん、生まれつき「父性原理」が強めの人や、「母性原理」のほうが強めの人もいるので、どれくらいのバランスで「中道」を体現するかは人によります。
ただ、「当人の中でバランスが取れて安定してくる」ということだけは確かなことです。
なので、とにかく「覚醒」してください。
言い換えれば、自覚的に「自分の人生」を生きてください。
「他人事」のように生きるのではなく、いつも「自分事」としてものごとを捉え、そこから学べることを学ぶのです。
そうしていけば、「父性」と「母性」のバランスは、自然と取れるようになるでしょう。
◎「自分が現に立っている場所」から始める
こういったわけで、「中道」を実現するための修行というのは、いつでもどこでも始めることができます。
あなたの「現在地」がどこであっても、関係がありません。
「あなたが今いる場所」が、あなたにとっての「学校」です。
禅には「脚下照顧」という言葉があります。
要は、「自分の足元を見ましょう」という教えです。
なぜなら、「自分が現に立っている場所」からしか、「旅」というのは始められないからです。
私たちはついつい「遠く」を目指してしまうものですが、それは往々にして「極端から極端へのジャンプ」しかもたらしません。
そして、「ジャンプ」を繰り返している限り、私たちは「同じ環」の中をグルグルと回り続けます。
ですが、それが「現在地」であるならば、気の済むまで「環」の中を回ったらいいと思います。
もしも「覚醒」していれば、きっとどこかで「飽きる」はずです。
そして、あなたが「自分のしていること」に心の底からうんざりした時、あなたは「終わりのない円環」から飛び出して、「自分の自由」を生き始めることになるのです。

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