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「苦しみ」に思い出させてもらったこと

ついさっきまで、一人で「苦しみ」の中にたたずんでいました。

時間にして、30分くらいでしょうか?

こんなに長く苦しんだのは、ずいぶん久しぶりのことです。

なんだか、寝ても覚めても苦しんでいた昔のことが思い出されて、懐かしい気分になりました。

「そうそう、こんな感じだった」と思ったのです。

胸のあたりにズキィッとする感覚が走って、「自分は間違っていたのではないか?」「自分は完全に勘違いしていたのではないか?」という迷いや疑いが、頭の中で次々に巻き起こってくる。

人生の「あるある」ですね。

そんな「苦しみ」を30分くらい、ジーっと見つめていました。

すると、どこかのタイミングで「言いたかったこと」をだいたい言い終わったみたいで、30分くらい経ったら「苦しみ」は静かに消えていきました。

後には「スッキリした感覚」があって、脱皮した直後みたいな気分でした(もちろん、脱皮したことはないので、あくまで想像ですけどね)。

こういう風に、「苦しみ」を受け入れて、その向こう側にまで出てくると、新しく生まれ直したみたいな「新鮮な心持ち」がするものです。

「別にジタバタしなくていいし、カッコつけなくてもいい」

「そのまんまでいいじゃんか」と思うわけです。

だから、「弱さ」をなくそうとしなくても、いいのだと思います。

「醜さ」を消そうと思う必要もないのだと思います。

なぜなら、それらもまた、「自分自身の一部」だからです。

もしもそれらを切り離して自分から分離しようとし始めると、私たちは「綺麗なもの」や「正しいもの」だけしか存在しない世界に住むようになっていきます。

そこでは、「自分の弱さ」も「他人の弱さ」も、存在することが許されなくなっていってしまい、段々と息が詰まってきます。

だからといって、「深く息をしなければならない」と思い始めると、それさえもが一種の「強迫観念」になってしまい、当人の呼吸を束縛し始めます。

だから、結局はただ生きればいいのです。

「弱さ」を生きて、「醜さ」を生きて、時に呼吸を詰まらせながら、歩いて行けばいいのだと思います。

「天」と「地」を分離することはできず、「陰陽」は二つで一つです。

二元論は同時に一元論的で、それを言葉で表すことはできません。

でも、たぶん私は「それを自分はできる」と思い上がっていたのでしょう。

まるで、自分だけ「天地陰陽」から別に存在できるかのように思っていたのです。

しかし、この世の誰も、自分自身の頭をつかんで空中に浮かぶことはできません。

私は「天地」から離れて存在できないし、同時に、そんな私が生きることによって「天地」の間に一つの動きが生まれます。

それらは不可分に結びついていて、別個のものではないのです。

とかなんか言った後、「だからなんなんだ?」ということに何度も何度も帰ってきて、「やっぱり何でもありだったんだ」と思うに至ります。

人は何をしても自由だし、そこに「外側」はありません。

もしも「弱さ」を受け入れられずに苦しむならば、それで何も間違ってはいないのです。

「弱さ」を否定することも、「弱さ」から逃げようとすることも、結局のところ、「弱さの一部」です。

実際、私たちは「弱い」からこそ、「自分の弱さ」を受け入れられずに逃げるのです。

じゃあ、「強く」なればそれで万事OKなのでしょうか?

その「強さ」には、「弱さに対する容赦のなさ」が伴っていないでしょうか?

「弱さ」を許容しない「強さ」というのは、単なる「強がり」に過ぎないんじゃないでしょうか?

「弱さ」も「強さ」も一つであって、これもやっぱり、切り分けることができません。

もちろん、こういった「言葉遊び」はどこまでも続けることができます。

そうして人は、「何か意味のあること」を言っている気分になってきます。

でも、本来的に、言葉というのは無力なものです。

「本当のこと」を、決して示すことができません。

私たちは常に、「本当のこと」を語り落し続けるのです。

「それでも自分は語るんだ!」と思うところに、人間の「愛おしいまでの愚かさ」が、表れているように私は思います。

実際、身の程知らずにも、私はやっぱりこうして言葉を紡いでいます。

「本当のこと」は言葉にできないとわかっているのに、それでも私は語ります。

「自分の無力さ」を知りながら、私はなおも語るのです。

今はただ、この「無力感」を、できれば忘れずにいたいと思います。

もしも私がそれを忘れたら、私はきっと無意識に自分を特別視して、他人を断罪し始めるでしょう。

でも、私にそんな資格はありませんし、誰にもそんな資格はありません。

もちろん、「社会的なもめごと」を収めるために、司法は必要ですけれど、それはあくまで社会生活上必要となる機能であって、「人間の魂」に優劣を認めるものではありません。

閻魔えんま大王じゃあるまいし、「他人の魂」を裁く権利が、いったい誰に在るというのでしょうか?

もっと「まっさらな目」で、自分と人々を見ていきたいものです。

ともあれ、今回、改めて自分自身を見つめ直したことで、いろいろと認識が書き換わりつつあります。

なので、たぶんまた私の言うことが変わると思います。

「本質的な部分」においては一貫していると思うのですが、表面的には言うことが変わったように見えるかもしれません。

あるいは、これまでほど文章を書かなくなるかもしれません。

実際、「あえて書かない」というのも、「悪くない」ように感じ始めています。

まぁ、どうなるかわからないですけれどね。


今回もまた、まとまりのない話になってしまいました。

ただ、改めて「苦しみ」を30分間味わってみて、「苦しむのも悪くない」と思いました。

もちろん、自殺したくなるほど苦悩している人は、「冗談じゃない!」と言うと思いますが、私自身は、「大切なこと」を「苦しみ」に思い出させてもらったように感じています。

一言で言えば、「生きているっていうのは、こういうことだよな」と思いました。

なんだか「月並みな感想」になっちゃいましたけど、「最後に帰ってくる場所」というのは、こういう「月並みな気持ち」なんじゃないかと、私は思います。

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