私は毎日、何の迷いもなく文章を書いているように見えるかもしれませんが、そういうのを外から見ていると、「この人には『絶対的な自信』があるに違いない」と思う人もいるでしょう。
でも、「自信」って、いったい何でしょうか?
世の中の多くの人は、「自分には『自信』が足りない」と思っています。
そして、自己啓発本を読んだり、心理的なメソッドを実践したりすることによって、「自信」を獲得しようとします。
しかし、「自信」というのは、そんな風に外からくっつけたりできるようなものなのでしょうか?
人々は「自信」というものについてよくわからないまま、これを「神聖化」し、「それさえ手に入れれば、自分は変われる」と信じています。
「自信とは何か」がわからないまま、必死でそれを求めているのです。
もちろん、私もかつてはそうでした。
過去の私はいつも人目を気にしていましたし、「自分の無力さ」に打ちひしがれてもいました。
もっと「力」があれば、「知識」があれば、「技術」があれば、自分はきっと「恐れ」や「不安」から解放されるはずだ。
そんな風に思っていたのです。
だからこそ、私は様々な本を読んで知識を求め、あらゆるテクニックを身に着けていったのでした。
でも、そうやって「知識」や「技術」が増えていっても、ちっとも「恐れ」や「不安」はなくなりませんでした。
むしろ、学べば学ぶほど「上には上がいる」と思い知るばかりで、私は「自信」を失っていったのです。
それで、呼吸法や瞑想法を実践することで、「心そのもの」を鍛えようとしたこともあります。
確かに、呼吸法や瞑想法を実践することで、心はいくらか動揺しにくくなりました。
しかし、そこにはいつも「根源的な不安」がありました。
それは、「自分の足場はいつ崩れてもおかしくない」という不安感です。
私は、呼吸法や瞑想法の実践によって、なんとか「足場」を作り出すことはできたのですが、それが非常に脆いことに、私は気づき始めました。
実際、私は精神的に揺さぶられるような出来事に遭遇すると、すぐにパニックになりました。
そこでは、呼吸法や瞑想法の実践によって獲得したはずの「心の強さ」など、まるで役に立たなかったのです。
私はとうとう絶望しました。
「この不安から自由になれる日はもう来ないだろう」と思い、「自分はこれから一生、不安なまま生きていくしかないのだ」と感じたのです。
でもその後、「心を強くするため」ではなく、「苦しみを終わらせるため」に瞑想をするようになって、私は変わっていきました。
結局のところ、私が「心を強くしたい」と思っていたのは、私が「不安」を受け止められなかったからでした。
私は、自分の人生から「不安」というものを根絶しようとして、「強い心」という幻想にすがっていただけに過ぎなかったのです。
私は「もう不安から逃げるのはやめよう」と決意しました。
そして、「胸に湧き上がってくる不安」と面と向かい、そのままそれを感じ続けたのです。
私は「不安を忘れるために瞑想すること」をやめ、「不安そのものを対象にして瞑想すること」を始めました。
もちろん、それは「苦しいこと」でした。
でも、私にはもう「逃げ場」がないことがわかっていました。
なぜなら、たとえどれだけ「力」を得ても、私の「不安」は消えなかったですし、呼吸法や瞑想法によって忘れようとしても、「不安」は必ず戻って来たからです。
だから、私は覚悟を決めて「不安」と面と向かいました。
すると、次第に「不安」は小さくなって消えていき、後には「清々しい解放感」が残っていたのです。
私は現在、「不安」に囚われることがほとんどありませんが、それは、私がそもそも「不安」から逃げるつもりがないからです。
今の私は、たとえ「不安」がやってきても、いつでもそれと向き合う覚悟があります。
そして、もしも「向き合う覚悟」さえあるならば、「不安」は自分で溶かすことができます。
そのことがはっきりわかっているので、「自信」という幻想にすがる必要を感じないのです。
現在も、私の「知識」や「技術」のレベルは、大したものではありません。
きっと私は間違うこともあるでしょう。
「知らないこと」も「できないこと」もいっぱいあります。
過去の私と同様に、今の私も相変わらず「無力な一人の人間」のままです。
そして、だからこそ、過去の私は、自分という人間を「完璧」に近づければ、「恐れ」や「不安」から自由になれると思い込んだのです。
しかし、「完璧な人間」など、この世のどこにも存在しません。
この世の誰もが「不完全」です。
でも、別にそれでいいのです。
もしも「完璧」を目指そうとすると、人は「狂気」に取り憑かれます。
その人は、どこまでも「恐れ」や「不安」に追い立てられ、「完璧」という「存在しないゴール」に向かって、「絶望的なレース」を続けることになるでしょう。
本当は、私たちは既に「完璧」なんです。
実際、私たちには「欠けているもの」なんてありません。
逆に、既に「完璧」である自分の上に「知識」や「技術」を上塗りして、そこに寄りかかろうとすることによって、私たち自身の「心」は表に出てこれなくなってしまいます。
私たちの「心」というのは、「何か大きなもの」とつながっています。
私は「自分の力」は信じていませんが、その「大きな力」のことは信じています。
私自身が、「元から内側に在る完璧」を信頼するならば、そこから「途方もない力」が出てくるのです。
私はそのような「力」に導かれるままに言葉を紡ぎます。
それは私の言葉でありながら、私の言葉ではありません。
私は「行き先」も知らないままに、書き続けます。
「自分を超えたもの」に衝き動かされながら、私は「心」を叫ぶのです。
でも、それは「自信」があるからできるわけではありません。
私はただ、この「理解を超えた世界」を壊したくないだけなのです。
「理解できないもの」を、理解不能なまま保持できるのは人間だけだそうです。
動物や機械には、「理解できない」という状態を保持する能力がないらしいのです。
たとえば、動物は視界の悪い場所でユラユラ揺れる影を目にした時、これを「なんだかよくわからないものが在る」という風に受け止めることができません。
動物は、必ずこれを「既知の何か」として認知します。
つまり、「仲間の影だ」と考えたり、「敵の影だ」と考えたりすることで、この問題に「結論」を出して、さっさとケリをつけてしまうのです。
AIも同じです。
私はしばしばAIに質問することがあるのですが、AIは絶対に「わからない」とは言いません。
どんなに情報が足りなかったとしても、AIは「これまでに学習したデータ」の中から何かしらの「答え」を出して、提示してきます。
つまり、現代の優秀なAIであっても、「わからない」という状態に留まることはできないのです。
私たち人間だけが、「わからない」という状態を保持することができます。
「答えを出さない」ということができるのは、私たち人間だけなのです。
しかし、「自信」がない人たちは、「答えのない状態」が耐えられません。
彼らは、「人生」という「巨大な謎」を前にして震えています。
なぜなら、そこには「完全無欠の答え」というものが、全く存在しないからです。
次の瞬間に何が起こるかは誰にもわからず、明日の命を保証されている人は一人もいません。
「生」とは常に未知であり、それをコントロールすることは誰にもできないのです。
しかし、この事実を「人間的な仕方」で受け止められるようにならない限り、「不安」は決して消えません。
それはつまり、「私にはわからない」と言えるかどうかということです。
これは、アルベール・カミュの代表作である『異邦人』の主人公である、ムルソーの口癖です。
彼は作中で度々「私にはわからない」と言います。
そして、彼は「わからない」まま行動し続け、最終的に死刑になってしまいます。
それは彼が、「常に『答え』を出そうとする人々の社会」の中に、「わからないまま生きる」という在り方を提示することで、「致命的な亀裂」を入れてしまったからです。
世の中の誰もが「答え」を知りたがります。
なぜなら、「答え」を知りさえすれば、その人は安心して眠ることができるからです。
でも、「答えなどない」と知り抜いている人は、眠ることなく起きていようとします。
それゆえ、「覚醒」とは、「修行の結果」ではありません。
「覚醒」とは、「答えなどない」ということを事実として受け入れる人が纏う、「自発的な覚悟」の別名なのです。
また、「答えなどない」と知っている人は、「寄りかかれるものはない」ということも知っています。
それゆえ、彼はいつも「綱渡り」をしています。
もしも気を抜いていたら、「奈落」に落ちてしまうでしょう。
でも、当人は徐々に気づき始めます。
「『答えがない』ということは、『自分は自由だ』ということだ」と、その人は気づき始めるのです。
「自由な人」は、「答え」を知っているからリラックスできているのではありません。
むしろ逆です。
彼は「答えの無さ」の中に安住することができるようになるまで、ひたすら「そこ」に留まり続けたのです。
安心するために「答え」を求める人は、真の意味での「自信」とは、ついに無縁なままです。
「答えは無い」と悟って、「私にはわからない」と認める知性の持ち主にだけ、「何か大きな力」は流れ込んでいきます。
その時、当人は「自分の力」なんて信じませんし、どんな「答え」も信じていません。
彼は、果てしの無い「わからなさ」の真っただ中で、夢中で踊るように「遊ぶ」だけです。
「確かなものが何もない」
別にそれで構わないのです。
「寄りかかるものがないと立てない」というような仕方で、そもそも人間は創られていません。
「答えの無さ」に耐えられるような知性を持っているのは、人間だけです。
そしてそれこそが、動物やAIに「覚醒」が不可能である理由でもあるのです。

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