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【新作の内容紹介】「心を生きる幸福論」の原稿が完成しました

この一週間くらいかけて書いていた「心を生きる幸福論」の原稿が完成しました。

今回はなかなか「全体のビジョン」が来なかったので、あえて書かないでしばらく寝かせておいて、代わりにここ数日はブログの更新をメインに執筆していました。

ですが、昨日になって急に「ビジョン」が浮びまして、「あ、そうか!」となったので、一気に最後まで書き切ることができました。

今回はコンパクトな新書サイズで200ぺージちょっとのボリュームです。

文字数としては五万文字ちょっとくらい。

でも、中身の密度についてはかなり濃いものとなっています。

構成は全四章に分かれており、全体の流れは以下のようになっています。

  • 第一章:「頭」と「胸=心」の対比
  • 第二章:「心」に根付いて生きるための具体的な実践方法
  • 第三章:「心」に根付き始めた時に起こる変化とそれへの対処法
  • 第四章:「知性」「心」「身体」の三位一体を確立して生きる道の解説

こんな感じです。

本の宣伝も兼ねて、それぞれザッと説明してみたいと思います。

では行きます。

◎第一章 「頭」と「胸=心」の対比

まず第一章で、「頭」による「心」の抑圧の構造について詳しく論じています。

詳細は前に一つ記事を書いているので、詳しく知りたい方はそちらを読んでみてください。

【関連記事】
【新作の進捗報告】「頭」と「胸=心」の対比から理解する「幸福論」

この章では、「頭」と「胸=心」を対比させて、両者の違いや関係性を解説しています。

たとえば、「頭」は「達成感」を重視するけれど、「胸=心」は「幸福感」を重視します。

また、「頭」は既存の価値観を保ったまま表面的な数字だけ見て「感心」しますが、「胸=心」は価値観を揺さぶられた時に「感動」します。

こういった形で、両者を比べることで、「頭」と「心」の特徴を把握してもらうのが、この章の目的です。

ただ、「頭」と「胸=心」を二項対立的に対比させたことで、結果として、「頭」が完全に「悪者」扱いをされることになっていて、この傾向は二章と三章にも持ち越されています。

しかし、「頭」は決して「要らないもの」ではなくて、活躍の場面もあります。

なお、それについては、最後の第四章で解説していますので、また後で説明しますね。

◎第二章 「心」を生きるための実践方法

次の二章ですが、ここでは、「心」の感受性を取り戻すための具体的な実践について解説しています。

それぞれの読者が置かれている状況に合わせ対応できるよう、四つのパターンに分けて実践方法を説明しています。

こちらも、過去に記事を書いているので、気になる方は下記の記事を読んでみてください。

【関連記事】
【新作の第二章の内容公開】「心」と共に生きるための具体的な実践についての解説

ここでは

  • 「楽しいこと」がある人のパターン
  • 「楽しいこと」がない人のパターン
  • むしろ「苦しいこと」がある人のパターン
  • 「抑圧していた感情」が噴き出てきた人のパターン

という四つに分けて、それぞれの実践課題と実践方法を解説しました。

たぶん、本書の中で一番実用性が高い部分だと思います。

こちらについては、上記の記事で既にかなり詳しく論じているので、特に付け加えて言うことはありません。

気になる方は、上記の過去記事を読んでいただき、それでも足りないようであれば、本書が販売開始されてから、本文を読んでみてください。

第三章 「心」と共に生きる際の試練と、その先の展望について

第三章では、二章で解説した方法を実践することで、実際に「心」が力を取り戻した場合、「その過程で起こる事態」について述べています。

まず、先に言っておきますが、もし実践が順調に進むと、実践している当人は必ず一時的に「生きづらさ」を感じるようになります。

なぜなら、「心」が感受性を取り戻すことによって、それまで当人が我慢して耐えることで成立していた「偽りの生活」が崩壊するからです。

たとえば、当人の「心」が力を取り戻したら、その人はもう満員電車に乗ることが我慢できなくなるかもしれません。

あるいは、嫌味な上司と話すことが耐えられなくなるかもしれません。

そういった「苦痛」は、それまで「自分の心」をあえて無感覚にすることでどうかこうかスルーしていたわけですが、もし「心」に感受性が戻って来ると、こういったことに当人は耐えることができなくなります。

また、それと同時並行して、おそらく言動が一時的にぎこちなくなったり、いろいろな疑問が湧いて止まらなくなります。

ですがこれは、「思考」や「運動」をより高度な次元で統合するために、心身が試行錯誤を開始した証です。

たとえば、陸上競技をしたことのある人は経験があるかもしれませんが、もし陸上を練習するようになると、まず走り方を学ぶことになります。

「走る」という動作自体は、子どもの頃からしていたことなわけですが、それはそのままだと自己流過ぎて無駄が多いのです。

だから、陸上的な効率の良いフォームを学んで身に着ける必要があります。

この際、当人は一時的に走り方がぎこちなくなります。

そこには「昔、身に着けた無意識の動き」と「今、身に着けようとしている意識的な動き」とが混在しています。

ですが、練習を積んでいくことで、新しく学んだ「陸上的なフォーム」が無意識のレベルで定着します。

すると、その人のフォームは「昔のフォームの良さ」と「新しいフォームの良さ」を統合したより高い次元で成立するようになり、以前よりエネルギー消費の少ない仕方でスムーズに走れるようになるわけです。

「心の潜在能力を開花させる技法」を実践した場合も、これと同じことが起きます。

その人は、一時的に「昔からの習慣」と「新しい習慣」とが混在した状態を通過します。

この過程で、当人は以前に比べて言動がぎこちなくなり、前だったらスムーズにできていたことに手間取るようになっていきます。

しかしそれは、自分自身の言動をより高度な次元で統合するための前準備です。

また同時に、それまでまるで疑問を持っていなかったことが、いちいち意識に引っ掛かるようにもなると思いますが、これも、当人の中で「批判的な思考」が育ち始めたことで生じる現象です。

つまり、「健全な懐疑心」が内側に芽生え始めることによって、それまでは無批判に思考停止して受け入れていた事実が、急に気にかかるようになるわけです。

こういった変化は、「古い状態」が破壊される過渡期で発生します。

しかしそれは、「新しい生き方」を創造するために必要となる破壊です。

これは要するに、「破壊無くして創造無し」という話です。

実際、これらの「生きづらさ」は、しばらくするとなくなっていきます。

そうして、当人は以前より高度に統合された言動を身に着けるようになり、前はできなかったようなことを易々やすやすとおこなるようになり、物事を考える時も、より批判的で深い洞察に基づいた思考が可能になるのです。

ある意味、ここが「自己変容」における一番の「試練」かもしれません。

おそらく、多くの実践者はこのタイミングで、「自分は退歩してしまった」と感じるはずです(実際、過去の私もそう思いました)。

ですが、今しがた説明しましたように、これは「新しい生き方」を創造し、それに再適応するための「一時的な不安定さ」に過ぎません。

それは、かつての「病的な安定」を破壊し、そこから新しく「健全な安定」に移行するための、「一時的な過渡期」に過ぎないのです。

この「過渡期」を越えられたなら、そこから先は、徐々に「心」が本来の力を伸び伸び発揮するようになっていきます。

当人は「心からしたいと思うこと」をするようになり、結果的に「独創的な活動」を始めるようになっていきます。

人によっては創作活動を始めるかもしれませんし、自分で起業する人もいるでしょう。

いずれにせよ、「頭」によって生き方を縛られることがなくなり、「心」のままに生きられるようになっていくわけです。

◎第四章 「知性」「心」「身体」の三位一体の確立

ここから先は、ここまでずっと「悪者」扱いされてきた「頭」を「心」と和解させていくフェイズです。

そもそも、「頭」が「悪さ」をしてしまっていたのは、「頭」の中にいる「自我(エゴ)」が表立って活動していたからです。

この「自我」は、「心」や「身体」を絶えずコントロールしようとし、同時に「自我」自身を守ろうとして自己防衛を働かせます。

そもそも、「自我」は何らかのセルフイメージを作り出して、これと自己同一化しています。

たとえば、「自分は優しい人間だ」とか、「自分は完璧な人間だ」とかいったイメージを、「自我」は必死で保持しようとするのです。

そして、もしもこういったセルフイメージが否定されるような事実が持ち上がると、「自我」はこれを全力で否定しようとします。

たとえば、自分の中に「怒り」や「憎悪」が湧いてきても、「自分は優しい人間だ」と思っている人は、これらの感情を受け入れることができません。

それゆえ、当人は自分の感情を抑圧して、自分の目から見えないようにしようとします。

または、「自分は完璧な人間だ」と思っている人は、「自分のミス」を決して認めようとしません。

事実としてどれだけそれを突き付けられても、当人はあれこれ言い訳をしては、なんとか言い逃れようとするでしょう。

これらは、「自我」が作ったセルフイメージと当人が深く一体化してしまっているからです。

ここにおいて、「自我」はセルフイメージが傷つくと、自分自身まで傷つくかのように考えるため、セルフイメージを破壊するような事実は決して認めようとしません。

その結果、当人は事実をありのままに認識することができず、絶えず現実の認知を歪められます。

しかし、もしも「心」が十分に力を取り戻すと、「頭(自我)」はもう「王様」のように威張っていることができなくなります。

この時、それまでは「自我」が一人で独裁体制を敷き、「心」と「身体」を奴隷のように扱っていたところから、逆に、「心」と「身体」のほうに「主権」が移っていくわけです。

でも、「自我」を完全に追放してしまったら、私たちは野生動物と変わらなくなってしまいます。

まぁ、別にそれでもいいのかもしれませんけれど、社会生活をおこなう上では、それだと困る場面もあります。

なので、「自我」を「王様」ではなく、「有能な補佐官」として再度招き入れるのです。

この時、「自我」はもうセルフイメージに固執しなくなります。

その時、当人のアイデンティティは、「自我が作り出すセルフイメージ」ではなく、「心と身体に根付いた生命力」のほうに移っています。

そのため、たとえ「自我」が作ったセルフイメージを破壊するような事実と出会っても、当人はこれを否定しなくなるのです。

これはいわば、「自我が希薄化した状態」です。

そして、もしもこのように「自我」が希薄化すると、その奥にあった「知性」が輝き出すようになります。

この「知性」というのはもともとヨーガの用語であり、正式には「ブッディ」と言います。

「ブッディ(知性)」については、以前にも一つ記事を書いているので、興味のある人は読んでみてください。

【関連記事】
思考における「三つの層」|瞑想をすると、本当に考えることができなくなるのか?

普通の人は、「知性」が「自我」という膜に覆われていて、その奥にある「知性」に直接アクセスすることができません。

本来「知性」は鏡のような役割を持っていて、事実をありのままに映すことができるのですが、もしその周りを「自我」が覆っていると、外から入ってくる情報は、絶えず「自我」によって歪められるため、「知性」は現実をありのままに認識できなくなってしまうのです。

逆に、もしも「心」と「身体」が「主権」を取り戻し、「自我」が」「サポート役」に徹するようになると、「自我」の奥にあった「知性」が本来の役割を果たし始めます。

その場合、「知性」は事実をありのままに映し出すようになり、同時に、そうやって受け取って蓄えた無意識下の無数の情報を統合し、「直観的なビジョン」を当人に見せるようになるのです。

たとえば、私は本を書く時にはいつも「ビジョン」を観てから書くようにしているのですが、これは自分で意図的に考えているわけではありません。

ただある時に、ふと「全体の条理」が一瞬だけ観えるのです。

「あ、今一瞬だけど全てわかった!」という感覚がそこで生じます。

でも、そういった「ビジョン」は一瞬で消えてしまうので、細部まではわかりません。

そこで、実際に本を書いていく中で、「自分が何を観たのか」を具体的に確認していくことになるわけです。

なお、こういった「自我」と「知性」の関係について図でまとめると、こんな感じです。

そして、「頭」が「希薄化した自我」と「光り輝く知性」によって運営されるようになると、「頭」「心」「身体」の三位一体構造が確立します。

そこにおいては、「頭」の「知性」が「地図」を書きます。

あたかも航海士が海図を書くように、自分の中に「直観的なビジョン」をもたらすのです。

そして、この「ビジョン」に触発されて、「心」がワクワクし始めます。

「心」の前には「知性」からもたらされた「宝の地図」があり、その先には「未知の冒険」が待っています。

それゆえ、「心」は思い切ってその「地図」を頼りに旅に出るのです。

私自身の例で言えば、これは「知性」がもたらした「ビジョン」を手掛かりにして、「心」のままに文章を書いていくことに当たります。

ここにおいて、「心」は行き先を決めて指示を出す「船長」のような役割を演じます。

また同時に、「心」は行くべき先を直感的に感じ取る役目も果たします。

「頭」にある「知性」は「直観的なビジョン」をもたらし、「心」はあくまで感覚的な「直感」に基づき、「今この瞬間の判断」を下していくのです。

そういう意味で、「心」は「船長」であると同時に、「羅針盤」の役目も果たします。

しかし、いくら「心」が「こっちに進みたい」と感じていても、「身体」の協力がなければそれを具体的な形にすることはできません。

私だって、「パソコンの前に坐ってキーボードを叩く」という動作無しに、「心」で念じるだけ本を書くことはできません。

そこでは、「身体」が「心」を連れて行くための乗り物、つまり「船」として働きます。

「身体」は、あたかも「心」を肩に乗せて歩いていくように、「心」のことを助けるのです。

また、「身体」は生命力の根源とも結びついているので、ここが「航海」を続けていくための活力の源ともなります。

これらの関係を図示すると、以下のようになります。

こうして、「知性」と「心」と「身体」が協力し合うことで、「全面的な生」、つまり「トータルな生き方」が実現していくことになります。

そして、「自我」はこういった生き方をする際、「社会的な必要事項」を微調整する「サポート役」に徹します。

私の場合は、文章を全部書き終わって、誤字脱字のチェックとか、表現の微調整などをする時には「自我」に手伝ってもらっているイメージを持っています。

こんな具合で、「心」を育てていけば、最終的には「頭(自我や知性)」とも協力しながら生きていけるようになります。

「心」を育て始めたばかりの頃は、「頭」を敵視しがちなのですが、「頭」というのは決して「敵として切り捨てればいい」というようなものではないのです。

むしろ「頭」が持っている可能性をも活かし、「心」や「身体」と協力する体制を構築することで、「全面的な生」が実現することになるわけです。

◎終わりに(発売開始時期の予測)

というわけで、またしても本書の中身についてほとんど話してしまいました。

この記事を読めば、この本は買わなくてもいいかもしれません。

もちろん、「もっと緻密に書かれた詳細まで知りたい」という方は読まれることをお勧めしますが、「ざっくりわかればいい」という方は、今回の記事を熟読いただければ、それで足りると思います。

いずれにせよ、原稿自体は最後まで書けたので、ここからは編集と校正作業です。

こちらは別に「ビジョン」を待たなくても、「自我」に働いてもらえばいつでもできます(だから、あんまり「ワクワク」はしないんですけどね)。

たぶん3~4日もあれば終わるんじゃないかと思います。

それから印刷の具合を確認して入稿・出版という流れです。

予測としては、一週間後の2/21くらいには販売を開始できるかと思っています。

「読んでみたい!」と思われた方は、続報をお待ちくださいませ。

ほんでは、さらばー。

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