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「過去の傷」が「思い出」に変わる時|未来と過去という「虚構」からリアリティを剥ぎ取る修行

昨日、五年前から凍結していたフェイスブックの更新を再開したのですが、そっちが今、結構面白くなっています。

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私は過去に自殺未遂やパニックの発作を繰り返して人に迷惑をかけたり、組織の秩序を乱して追放されたりしてきた人間なので、昔付き合いのあった人の中には、私のことをよく思っていない人も結構いるのではないかと思います。

そして、当の私自身も、そんな自分の過去と向き合うのがずっと苦痛でした。

昔のことを思い出すような情報に触れると、身体が無意識に震えて呼吸が乱れてしまっていたのです。

特に、私を破門にした合氣道の師匠は全国的な有名人なので、たまたま雑誌とかネットでその名前を目にすることがあると、私の心はざわつきました。

そして、そんな状態が十年近く続いていたのです。

ですが、去年の年末に真理の探求を最後まで歩き終えたことで、私は「向こう側」にスポッと抜け出てしまいました。

それで、気づいてみたら、前はあんなに心身が拒絶反応を示していた過去の出来事に対して、私は懐かしさを感じて振り返れるようになっていたのです。

今の私は、「はぁ、そう言えば、そんなこともありましたなぁ」という具合で、心身を緊張させることもなく、過去の傷を眺めることができるようになったわけです。

私は、「心の傷」というのは、一生消えることがないと思っています。

実際、私は今も過去の痛みを思い出すことができますし、苦しかった当時のことを忘れたわけでもありません。

でも、今はそれが「リアリティ」を持って迫ってはこないです。

私はまるで「一枚の写真」を見るように、「自分の過去」を落ち着いて眺めていることができます。

「傷」そのものは、「写真」という形で残ってはいるけれど、それはもう今の私を圧倒するような「怪物」ではありません。

私はただ、それを「一つの思い出」として振り返るだけです。

でも、苦しみに囚われていたかつての私は、そんな風には思えませんでした。

「過去の記憶」は私の目の前に生々しく蘇ってきて、いつも私のことを責め立てていました。

そこにおいては、「今この瞬間目の前にあるもの」よりも、「頭の中で蘇ってくる過去の風景」のほうが「現実感」があったのです。

私たちが「未来への不安」や「過去の後悔」に駆られて苦しむのは、ひとえにこのためだったりします。

つまり、「目の前の存在しないもの」に対して、「強いリアリティ」を感じてしまっているのです。

たとえば、「最悪の未来」を想像して苦しむ人は、実際にはまだそれは実現していないのに、あたかもそれが既に実現してしまったかのような感覚を覚えます。

実際にはそれは目の前に無いのに、当人にはそれがありありと見えてしまっているのです。

また、「過去の記憶」によって苦しむ人も、「目の前の現実」よりも「過去の亡霊」のほうに「リアリティ」を感じています。

時には、「記憶の中に木霊こだましている誰かの声」があまりにもはっきり聞こえるために、「すぐ横で心配している人がかけてくれている声」が聞こえなくなってしまうこともあります。

つまり、「現実」を「虚構」が侵蝕してしまうわけです。

しかし、もし瞑想を実践していくと、「未来」も「過去」も「虚構」であるということが、感覚レベルでわかるようになってきます。

「頭」でそのような考えるわけではなく、その人は「心」と「身体」で納得するのです。

「時間は存在しない」と。

もしも、本当に「今」に留まると、その「今」さえもが溶けて消えていき、後には「在る」という感覚だけが残ります。

それゆえ、自分の軸足が「時間の存在する世界」から「時間は無く、ただ『在る』だけの世界」に移っていくにしたがって、「未来」と「過去」は徐々に「リアリティ」を失っていくことになるのです。

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瞑想がなぜメンタルに良いかと言うと、それは、実践によって「時間」という観念が徐々に溶解することによって、「未来への不安」と「過去への後悔」が「リアリティ(現実味)」を失っていくからです。

当人は徐々に、「これらはただ頭の中に浮かんでいる映像に過ぎない」と「感じ」始めます。

重要なことは、そのように「考え」始めるわけではないということです。

考えるのは、あくまで自己暗示とかポジティブシンキングの領域です。

そういったアプローチは、「思考によって思考をどうにかしようとするもの」であり、だいたいにおいて失敗します。

なぜなら、「未来や過去を気にしてはいけない」という思考を繰り返せば繰り返すほど、「頭」によるコントロール体制が強化されてしまい、それと共に、「時間」という観念も延命してしまうからです。

なので、「今」という観念さえもが溶けるくらいまで、「感覚」の中に留まることが大事です。

そうすれば、徐々に「時間」という観念自体が崩壊していき、「未来」と「過去」は単なる映像だと「感じ」られるようになります。

そして、この状態になると、過去と向き合う時も、「気を強く持たないと」というようなことを考える必要がなくなり、当人は「過去の傷」をありのままに見ることができるようになるのです。

そんなわけで、今の私は、フェイスブックを見ていても特に胸がドキドキしたり、頭が痛くなったりすることもありません。

過去に私が破門になった合氣道の道場に所属するかつての稽古仲間たちが、画面にはズラーっと友達候補として並んでいるのですけれど、そういうのを見ていると、懐かしさで思わずニヤニヤしてきてしまいます。

それで、試しにその中の何人かを見に行ってみると、かつての後輩がいまや私より上の段位になって道場を開いていたりしました。

「すげーなー、きっと頑張ったんだろうな」と思って、私はつい嬉しくなりました。

私はかつて、その後輩の門人のことが好きでした。

その人も私によく質問をしてくれて、私たちは一緒に稽古したものでした。

そんな人が、今はもう師範の元から独立して、自分の道場を持っている。

時の流れを感じます。

私たちが生きていれば、「傷つくこと」は避けられません。

「失敗」をしない人間はいませんし、ちょっとした考えの行き違いから、私たちはお互いに傷つけあうことになってしまう場合もあります。

でも、そういった「傷」もいつかは「思い出」に変わっていきます。

たとえ、どんなに深く苦しむことがあったとしても、それらの「苦しみ」にもいつか終わりが来るのです。

そうやって、私たちはみんな生きていきます。

「歴史」は残り、「足跡」は確かに刻まれます。

人生は私たちをどこかへと運び続け、私たちにはその流れを止めることもできなければ、速めることもできません。

「過去」を変えることは誰にもできず、「未来」はいつだって手つかずで瑞々みずみずしいままです。

だからこそ、「生きること」は美しいのだと、私は思います。

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