現在執筆中の「現成公案・解説本」が第五章まで書き終わりました。
今の時点で六万文字弱なので、当初予定していた新書サイズでの出版は無理そうです。
これはまた四六判かな。
紙で読む人は、ちょっと「持った時の感覚」がずっしりしてくるかもしれません。
なお、この第五章では、「自己をわするるといふは、万法に証せらるるなり」というフレーズの解説をしました。
「自己をわするる」というのは、伝統的な探求の文脈でいうと、「悟り」とか「解脱」とか言われている状態を指します。
この地点において、「世界の実在性」は崩壊し、「世界が自分の外側に存在する」という観念が消え去ります。
そして、当人は「世界の実在性」よりも「自身の内なる仏性」のほうにリアリティを感じ始め、完全に「リミッター」が外れてしまいます。
そして、「リミッター」が外れることで、その人は「個人の努力」を超えたレベルで生き始め、「万法=天地の理」に従って生きるようになっていくのです。
こう聞くと、「なんだか抽象的な話だな」と思うかもしれませんが、実のところ、これは非常にシンプルな話なんです。
そもそも、もし「世界」という観念が崩壊すると、当人は「自由とは何か」を理解します。
でもそれは、「自由」という観念についての理解ではありません。
なぜなら、「悟り」という現象は、「知的な情報の獲得」ではないからです。
それはむしろ「感覚的な納得」です。
「あ、『自由』ってこれか!」と、感覚的なレベルで深く納得するのです。
だからこそ、それは「単なる自己暗示」とか、「マインドセット」とかいったものとは違い、当人の認識を根底から書き換えていくことになります。
たとえば、「この世界は幻だ!」といくら自己暗示をかけてみたところで、その人は財布を落としたら絶望するでしょうし、石で足を打たれたら痛みのあまり悲鳴を上げるでしょう。
それは、当人が「この世界は幻に過ぎない」と、心の底では信じていないからです。
でも、「悟り」というのは、「知的な理解」ではなく、「感覚的な納得」です。
当人はもはや「思考」ではなく「魂」のレベルで「この世界は幻だ」と感じてしまっています。
だからこそ、その認識は当人の言動にも反映されるようになり、そこには一貫性が伴うのです。
それはともかく、もしもそんな風に「世界は実在しない」ということを「魂のレベル」で納得すると、この「納得」から外れた時に、すぐ気づけるようになります。
ちなみに、私個人の感覚では、「自由」というのは、「息が深くできて、重心が自然と下がり、胸に穏やかな解放感がある状態」のことです。
私は基本的に、毎日起きてから寝るまでずっと「この感覚」の中で生きています。
そして、「この感覚が在る」ということは、「私の心は現に自由である」ということの証拠になります。
逆に、もしもこの感覚が失われた場合、たとえば、「呼吸が浅くなって、重心が上がり、胸が詰まって苦しくなった」というような場合、「自分は今、『不自由』になっている」と私は判断します。
つまり、「自分は今、『自由』か否か」というのは、「形而上学的な思弁」でもなければ、「観念的な抽象論」でもなく、「感覚的に確認可能な事実」なのです。
そして、私は「『自由』を失っている」と気づいた場合、即座に立ち止まって、自分の内側を点検します。
もしも「自由」を失っているなら、私はきっと無意識に何かにしがみついているはずです。
だから、その「何か」がどこに在るかを確かめるために、自分の内側をスキャンするのです。
すると、だいたい数秒か、長くても二~三分もあれば、「原因」を見つけ出すことができます。
それはたとえば、「他人から認められたい」という承認欲求へのしがみつきかもしれませんし、「どうなるかわからない未来を操作したい」というコントロール欲求かもしれません。
だいたいはこの二パターンの変形ですね。
で、「原因」を発見したら、それらの囚われが生む「感覚」にフォーカスしてこれを味わいます。
それは、私の「呼吸」を浅くさせ、「重心」を吊り上げ、「胸の解放感」を消すような「不快な感覚」です。
そこから私は、この「不快な感覚」を「どっか行け!」と言って追い払わずに、「おめー、こんなとこで何してんの?」と隣に坐って、感じ続けます。
すると、そのうちその「苦しみ」は満足したのか消えていきます。
そして、後には「深い呼吸」と、「安定した重心」と、「胸の穏やかな解放感」が残るのです。
こういったことを、私は毎日起きてから寝るまでずっと繰り返しています。
つまり、私にとっての「日常」とは、「絶えず『自由』を取り戻し続け、『悟り』を思い出し続ける」ということの連続なのです。
そして、そのような生き方をしていると、「呼吸が浅くなるような行為をすること」がそもそも選択できなくなります。
なぜなら、「呼吸が浅くなる」ということは、私が「宇宙の法則」に背いて、「自由」を捨てているサインだからです。
つまり、私にとって「自由で在り続けること」というのは、「深く呼吸し続けること」であり、同時に、「『宇宙の法則=万法』に従い続けること」でもあるわけです。
でも、それならそこに「私個人の自由意志」が介入する余地は在るのでしょうか?
だって、「どういう場合に呼吸が深くなるか」について、私には「選択権」が最初から与えられていないからです。
私は気づいてみたら、「あること」をすると呼吸が深まり、「別なこと」をすると呼吸が浅くなるように、この「宇宙」によって創られてしまっていました。
私は自分で「こういう人間に創ってください」とお願いした記憶がありません。
ひょっとしたら、生まれる前に「宇宙」にお願いしたのかもしれませんが、仮にそうだったのだとしても、「なぜその時の自分は『こういう人間』として生まれたがったのか?」については永遠に謎のままです。
実際、私たちはみんな、「気づいてみたら『こういう人間』だった」という状態で生きています。
たとえば、私は猫が好きですが、なんで猫が好きになったのでしょう?
私は幼い頃に公園に捨てられていた猫を見つけ、憐れに思い、これを拾って帰りました。
その後、猫と一緒に暮らす中で、自然と猫を好きになっていったわけです。
でも、どんなに猫と一緒に暮らしていても、猫が嫌いな人はいます。
そもそも、どうして私は捨て猫を拾ったりなんてしたのでしょう?
拾わないことも選べたはずなのに、私はなぜかそうしませんでした。
他の人なら拾わずにそのままにしたかもしれないのに、私はあえて拾って帰ったのです。
このことを、自分や他人の人生を通して、よくよく観察してみてください。
実際、私たちの人生というのはこんなことばっかりです。
私たちには「自由意志を行使する余地」など、在って無いようなものです。
たとえ、「自分は今、自由意志を行使したのだ!」と思っていても、その選択の背後には、当人の「好み」とか「傾向」とかが無数に関与しています。
そして、そういった「好み」とか「傾向」とかいうものを、私たちは自分で選んで身に着けたわけではないのです。
私たちはみんなもともと「自由」です。
私たちには、「しよう」と思えば、何でもすることができます。
でも、その「しよう」という自由意志は、既に最初から創られてしまっています。
だから、ここには「選択の余地」が本当はありません。
「偶然」と「必然」は一つであり、「自由」と「宿命」は同じものです。
このため、もしも「自己を忘れる」ことによって、「万法」とつながるようになると、その人は「自分の使命」を果たし始めます。
「自由」を生きることによって、同時に「宿命」を生き始めるわけです。
特に、悟ったことで「自我(エゴ)」による介入がなくなるので、それまでよりもダイレクトに「宇宙の法則」に沿って生き始めることになるでしょう。
それゆえ、当人は「社会的な成功」や「人々からの称賛」よりも、「深い呼吸」や「安定した重心」や「穏やかな解放感」のほうを選びます。
そして、そのことによって、当人は「自力」ではなく「他力」によって生き始めます。
この時、当人は「自分で頑張って生きている」という感覚が消失し、「何か大きなものによって生かされている」と感じ始めるのです。
それを「天命」と言えば、たぶんそうなのでしょう。
でも、もうそれもどうでもいいことです。
結局はそれも、人間に理解できる範囲で無理やり作った「おとぎ話」に過ぎません。
なぜ「天」が私たちをそのように生きることへと導くのか、「本当ところ」は不明です。
いずれにせよ、誰もが「自分の人生」を生きています。
「起こるべきこと」は起こり続け、「起こる必要のないこと」は起こりません。
だからこそ、私たちはもともと「自由」であるのと同時に、いかなる「選択権」も持たないのです。

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