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「躁状態」と「自立しつつある状態」の違いについて

昨日、「一般的に、精神医学は『異常』と『超常』の見分けがつかない」と書きました。

「世間の常識」と「精神医学」が見落とすもの|「異常」と「超常」の違いについて

人間の生命力が内側から開花すると、当人は非常にエネルギッシュに「自分の活動」をするようになります。

常人では到底達成不可能なことを軽々こなすようになり、疲れ知らずで活動し続けることができるようになるのです。

でも、一般的な精神医学は、こういった状態を理解できません。

基本的に精神医学が理解できるのは「病気の状態」と「何でもない状態」だけです。

つまり、精神医学には「(良い意味で)とんでもない状態」がわからないのです。

それゆえ、精神科に通う患者の生命力が何らかの形で開花し、当人が「自己」を確立し始めると、精神科医はこれを「躁状態の兆候」と見なすことがあります。

実際には、当人の生命力が開花して、その人は「自分の足」で立とうと奮闘しているのですが、その姿は、見る人によっては「抑制を失って暴走している」かのように見えてしまうのです。

ただ、こういった「自己の確立」と「躁状態」には明確な違いがあります。

それは、活動の動機が「外」にあるか「内」にあるかです。

そもそも、「躁状態」がなぜ危険なのかと言うと、理由は主に二つあります。

一つ目は、自制が利かなくなってしまい、長期的に見た時、自他を損なうような言動を取ってしまうこと。

もう一つは、「躁状態」の後には決まって「抑うつ状態」がくることです。

私も経験があるのでわかるのですが、「躁状態」にある人は「今度こそすべてがうまくいく!」と思っています。

世界がバラ色に見えてきて、自分の中に「全能感」を抱きます。

そして、「今度こそ、自分の夢が叶うのだ」と期待するのです。

その「夢」の内容は、人によって様々でしょう。

それは、誰か特定の人から認められることかもしれませんし、社会的に成功することかもしれません。

いずれにせよ、当人は「外側の世界」に何かしらの目標を設定し、「今の自分なら、今度こそ、それを達成できる!」と「夢想」するのです。

しかし、そんな風に「外側」によって振り回されている人というのは、落ち着いて現実を認識することができません。

なぜなら、そもそも最初から軸足を「外」に取られているからです。

言い換えれば、「自分自身」を見失っているのです。

それにもかかわらず、「自我」が異常に肥大化していて、当人は「何でもできる」かのような気分になっています。

それゆえ、普段ならしないような高い買い物をしてしまったり、他人に対して傲慢な態度を取って人間関係がこじれたりします。

その結果、多額の借金が残ってしまったり、人間関係が破綻してしまったりして、当人の人生が損なわれるのです。

そうして、「結局、何も変えられなかった…」という無力感と、「自分はなんてバカなことをしてしまったのだろう…」という罪悪感とに苛まれ、「抑うつ状態」に移行していきます。

これが「躁状態」のメカニズムです。

問題は、当人の動機が「外側」にあることです。

それゆえ、当人は「外側の都合」によって絶えず振り回されます。

この「振り回されること」が、当人の中に焦りと緊張を生み出し続け、ますます冷静さを奪ってしまうのです。


反対に、「自己を確立していく過程」にある人は、動機が「内側」にあります。

当人は、「それまで寄りかかっていたもの(教師、思想、社会的ポジション)」から離れていき、「自分の足」で立とうとします。

その際、必ず「雄たけびを上げるタイミング」が来ます。

当人はその時、「我ここに在り!」という心の声を叫ぶのです。

これが、見る人によっては「抑制を失って暴走している」かのように見えてしまいます。

でも、実際は違うのです。

確かに、当人は「それまで寄りかかっていたもの」を、一時的に破壊していきます。

その過程で、人間関係が切れることもありますし、慣れ親しんだ家をあえて出ていく人もいるでしょう。

でも、そこで失われるものは、「当人が成長するために失われる必要があったもの」だけです。

実際、人が真に成長する時、付き合う相手は自然と変わります。

自分の周りにいる相手というのは、ある意味で「鏡」みたいなものです。

だから、自分自身が成長すると、周りにいる人も必然的に入れ替わるのです。

このため、真に「自己」を確立し、「もう寄りかかるのはやめた!」と力強く宣言すると、当人が寄りかかることを前提にして成立していた人間関係は、一斉に終わりを迎えます。

たとえば、今まで依存しあっていた関係性があれば、当人が「自立」することで、その「もたれ合いの関係」は破綻するため、自然と人間関係が解消していきます。

あるいは、当人のことを力ずくで支配していた親や教師は、もう支配し続けることができなくなるので、ヒステリックにその人のことを怒鳴って、外へと追い出すかもしれません。

そして、もしも精神科医に「見る目」がなかった場合、こういった変化を「良くない兆候」と誤認して、「衝動性が高まっているから抑制しないと…」と考え始める可能性があります。

でも、実際にはこれは「人間的な成長」です。

その人は、寄りかかることをやめて、「自分自身」で立とうとしているところなのです。

そして、その動機はあくまでも「内側」に在ります。

当人は決して「外側」の誰かや何かをコントロールしたくて「自立」したのではありません。

ただ、自分の内側に「信」と「芯」とを築きたいと、その人は願っただけなのです。

それゆえ、当人は外から見ている人が思っているよりも、ずっと冷静に自分のことを観察することができています。

なぜなら、その目は最初から「自分の内側」しか向いていないからです。

そして、そうやって目を向けられた「内側」には、きっと恐怖と不安があります。

誰だって、「ずっと寄りかかっていたもの」から離れるのは怖いものです。

でも、当人は「勇気」を出して、踏み出します。

なぜなら、それが「自分自身」にとって必要なことであると、当人にはわかっているからです。


このように、「躁状態」は「内的な自立」ではなく「外側への依存」のほうを助長し、「自己の確立」は「依存」を脱して「自立」を目指して進んでいきます。

両者は全く別物ですが、おそらくこの二つをきちんと見分けられる人は、世の中に10%もいないと思います。

それゆえ、「自立しようとする人」は、いつも「孤独な戦い」を強いられます。

なぜなら、誰も彼もが「お前は今頭がおかしくなっている」と、その人に向かって告げるからです。

自分の意志で離れていこうとする人を、誰も彼もが引き止めます。

「馬鹿なことはやめておけ」
「冷静になって考えろ」

そんな風に言って、当人の「自立しようとする意志」を削ぐのです。

でも、それも当然です。

なぜなら、もしも実際にそうやって離れていく人が出てしまうと、そこにいつまでも留まっている自分たちの「弱さ」や「間違い」が、間接的に証明されてしまうからです。

実際、会社にダラダラとぶら下がって給料をもらっているだけの人は、同僚が独立しようとすると、尊敬せずに馬鹿にします。

そうして、時には足を引っ張ることさえあるでしょう。

なぜなら、そうやって相手の独立を「失敗」させれば、独立しないでいる自分の立場を正当化できるからです。

「やっぱり自分のように独立しないでいるのが正しいのだ」

そんな風に思いこみたいがために、実に多くの人々が、「自立しようとする人」の足を引っ張ります。

でも、私はいつまででも言い続けますが、「自立すること」は当人にとって「必要な成長の一部」です。

だから、もしもあなたが「自立しよう」と思った時には、「自然と切れていく人間関係」を切ることに対して、後ろめたさや罪悪感を抱く必要は一切ありません。

あなたはただ、前だけ向いて歩いて行けばいいのです。

なぜなら、そもそもあなたの足を引っ張る人々というのは、単に「あなたの成長」に嫉妬しているだけなのですから。


ということで、「『躁状態』と『自立しつつある状態』は全く違う」という話でした。

もしも「今の自分って、『躁状態』なのかな?」と思った方は、「自分の動機」が内側と外側のどちらにあるかを、よくよく確認してみてください。

あなたの求めているものは「内側」にありますか?

それともあなたは、「外側」の誰かや何かをコントロールしたいだけなのでしょうか?

「答え」は、自分の心に聞けばわかります。

いつだって、「答え」は「内側」に在るのです。

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