昨日、「真理の探求」についてラジオで喋ったのですが、それに関連して、ちょっと頭がグルグルするようなことを、「お遊び」で書いてみようと思います。
先に言っておきますが、今回の記事は、人によってはかなり難解だと思います。
なので、もともと哲学的な思索が好きで、暇を持て余している人だけ読んでください。
さて、昨日のラジオの中でも言っていたのですが、探求における方法論の核は、基本的に「主観性を深める」ということに収斂していきます。
要するに、「とことん主観的になる」ということを目指して行くわけです。
すると、どこかの段階で、「主観的な私が在る」ということのリアリティが、
「客観的な世界が在る」ということのリアリティを凌駕してしまいます。
このことを感覚的に理解した時、探求というのは終わります。
そこにおいて、絶対確実なことは「私は在る」ということだけであり、「世界が実在するかどうか」は究極的には確かめようがありません。
つまり、「自分に見えている範囲」、言い換えると「五官で感じられる範囲」の外側に世界が在るかどうかは、私には確認しようがないわけです。
もちろん、哲学的には、私が五官を通じて感じている世界が「本物」か「偽物」か、みたいな議論も可能でしょう。
たとえば、「私が見ている世界」は夢のようなもので、それとは違う「真実の世界」と言うものが存在するのだと仮定するわけです。
よくあるSF的な想定なら、「本当の自分」は培養液の中の脳に過ぎず、自分が「生きている」と感じている世界は、その培養脳が見ている夢なのだ、という感じになります。
この場合、「本当の世界」は「培養脳が存在する世界」であって、私はあくまで培養脳に与えられた刺激に基づく「バーチャルリアリティー」を体験しているだけということになります。
つまり、主観的には「本物の世界を生きている」と思っているのに、実際には「作り物の世界を生きている」というわけです。
しかし、仮にそうだったとしても、自分がいま生きている世界が「本物」か「偽物」かについて、私には確かめることができないでしょう。
なぜなら、もし仮に、脳を培養している機械の不具合で、私の脳だけが目覚めてしまい、
「『本当の世界』の中では、自分は培養されている脳だったんだ」と私が気づいたとしても
その「培養脳の世界」そのものを作り出している、「さらに高位の世界」が存在しないことは永遠に証明不能だからです。
つまり、「培養脳の世界」自体を「バーチャルリアリティー」として作り出している、「もう一つ次元の高い培養脳」が存在するという想定が、常に可能なわけです。
…はい、ついてこれていますか?
今回はだいぶついて行けない読者を出しそうですね…。
ただ、こういったことを子どもの頃から自然と考えている人も世の中には居ると思うので、そういう人からすると、「確かにそうだよね」と納得できるのではないかと思います。
いずれにせよ、今回の記事はあくまで「哲学的なお遊び」なので、読者の方が無理して読む必要性は薄いと思います。
実際、この話が理解できるようになっても、生活の中で何かの役に立つこともないですし、
むしろこういうことをいちいち考えるようになってしまうことで、「世の中の常識」がその人の中でうまく機能しなくなる危険性さえあります。
ともあれ、「本物の世界」というものは、こんな具合にどこまでも「高位のもの」を想定することができてしまうので、「自分がいま生きているのが『真実の世界』なのだ」と断言することは、原理的に不可能です。
つまり、「自分がいま生きている世界」は、どこまで行っても、「誰かの見ている夢」かもしれず、「培養脳が体験しているバーチャルリアリティー」かもしれないわけです。
しかし、どっちにしたところで、私が気づいているのは「この世界」だけです。
それが「本物」だろうが「偽物」だろうが、関係ありません。
私は現に、「この世界」を体験しており、「それがそのように見えている」ということについては、確信をもって断言できるのです。
そして、「結局のところ、それが全てだ」ということを、感覚的に納得することが「悟り」です。
「主観性」を徹底的に突き詰めた果てに、ただ「在る」としか言えなくなる地点…。
いえ、実際にはもう「何かを言う」ということさえもできなくなる地点において、「時間」と「空間」は溶解し、「存在」だけが残ります。
そこにおいては、「他人が存在するかどうか」とか、「世界が実在するかどうか」とかは関係がなくなります。
なぜなら、そういったものとは一切無関係に、「私は在る」ということが成り立ってしまうからです。
実際には、この「在る」こそが全ての始まりです。
この「在る」ということから、「時間」と「空間」が生まれ、「他者」と「世界」が作り出されるのです。
そもそも、生まれたばかりの赤ん坊は、ただ「在る」ということの中に留まっています。
その赤ん坊の中には、また「時間」も「空間」も存在しておらず、「他者」も「世界」もありません。
ですが、成長する過程で、「時間」・「空間」・「他者」・「世界」といったものを、その子は理解できるようになっていきます。
さらには、「自分が存在する」ということよりも前に、「時間」・「空間」・「他者」・「世界」というものが存在するのだと信じるようになっていくのです。
ここには「順序の転倒」が存在しています。
まず、「時間」でこのことを考えてみましょう。
最初、赤ん坊の時には「時間」という概念を所有していません。
赤ん坊が知っているのは、「この瞬間」だけです。
それを「今」と言ってもよさそうなものですが、赤ん坊からすれば、それは「今」という「時間的な一点」ではなく、あくまでも「在る」ということに過ぎません。
実際、赤ん坊はただ「在る」だけです。
ですが、成長していく過程で、この「在る」に「今」というラベルを貼るようになります。
そして、それによって、「今ではない時間」という仕方で、「過去」と「未来」が後から生まれてくるわけです。
普通の考え方だと逆ですよね?
普通は、「過去」から「未来」へ向かう「時間の流れ」がまず在って、そこに後から生まれてきた自分が「今」を生きているのだと、私たちはみんな考えています。
しかし、実際には順序が逆なのです。
最初、「時間」というのは存在しません。
そこでは、「自分」、つまり「意識」しか存在していないのです。
その「意識」に対して、「今」というラベルをまず貼り、その後で「過去」や「未来」という概念を理解できるようになり、最終的に、「過去から未来へ向かう時間の流れの中に自分が後から生まれてきたのだ」という「常識」を獲得するに至るわけです。
これらは、「空間」や「他者」、「世界」についても全て当てはまります。
赤ん坊は最初、「空間」という概念も所有していなければ、「他者」も「世界」も知りません。
しかし、赤ん坊が体験している「在る」に「ここ」というラベルを貼れば、その後で「そこ」や「あそこ」が生まれてきて、「空間」という概念が成立するに至ります。
そして、最終的には、「この宇宙には『空間』というものがどこまでも広がっていて、『ここ』というのは、その中の一点に過ぎないんだ」という風に思うようになるわけです。
つまり、かつては「全ての原点」にして「絶対的」だった「在る」が、「空間上に無数に存在する地点の中の一つ」に過ぎなくなってしまうわけです。
「他者」も同じです。
最初、赤ん坊はただ「在る」だけですが、この「在る」に「自分」というラベルを貼ると、「自分でない者」として「他者」が現れてきます。
そして、ここから「『自分』というのは『たくさんの他者』の中の一人に過ぎないんだ」と思うに至るわけです。
「世界」もそうです。
というか、「世界」というのは、まさに「時間」と「空間」と「他者」によって編み込まれた「虚構」みたいなものですから、ここまでの説明が理解できている人は、たぶんわかると思います。
赤ん坊は最初、「在る」ということの中にいるわけですが、これに「主観」というラベルが貼られることで、それとの対比で「客観的な世界」というものが存在し始めることになります。
そこから、最終的には、「『客観的な世界』というものが先に存在していて、この『主観性を持った自分』は、そんな『世界』に後から産まれて生きている『一個の個人』に過ぎないんだ」と信じるに至るわけです。
もちろん、そのように信じることは、社会生活を送る上で必須です。
誰も、赤ん坊と同じような仕方で「在る」に留まったまま、社会で生きていくことはできません(老荘思想的なタオの立場は、「あえて赤ん坊のままでいる」ということを理想化しているようにも思えますが、そんなことはほとんど誰にもできないでしょう)。
ただ、もしも瞑想の中で、再び「在る」に至りつくと、「物事の順序」が再度転倒し始めます。
たとえば、深い瞑想の中で当人は、「過去」と「未来」を見なくなって、「今」というラベルさえも取り去ることで、原初的な「在る」という状態を体験します。
また、「そこ」や「あそこ」は意味を持たなくなり、「ここ」というラベルさえも取り去って、「在る」という状態に入っていきます
そして、「自分」は「無数の人間のうちの一人」ではなくなり、「世界の中の個人」でもなくなり、「絶対的な存在者」になるわけです。
でも、「絶対的な存在者」と言ったからといって、別にそれは「自分は他の人より優れた人間なのだ」というような話ではありません(まさかね)。
そうではなくて、これは、「そもそもそんな比較は最初から成り立たない」という話なのです。
「私」というものは「絶対」です。
それは、「全ての始まり」であり、否定することも逃れることもできない「原点」なのです。
このことを感覚的に納得できた時、探求というのは終わります。
そう、あくまでも「感覚的に」です。
私は別に、上記のようなことを頭で考えたわけではないのです。
ただ、瞑想的な生活をひたすら続けていたら、「物事の順序」が再転倒して、全てのラベルが剥がれしまっただけなのです。
「今」というラベルが剥がれ、「ここ」というラベルが剥がれ、「私」とさえ言えなくなり、「客観的な世界」は溶解して消えてしまいました。
そのことを、感覚的に理解した時、「全てはフィクションだったんだ」とわかったわけです。
つまり、「物事の順序」が再度転倒することで、赤ん坊の頃に体験していたであろう、純粋な「在る」に還ったのですね。
とはいえ、さっきも書きましたように、赤ん坊のままでは社会生活は送れませんので、私も「在る」だけに留まったりはしません。
あくまで、「時間」も「空間」も「他者」も「世界」も実在しているかのように、私は生きています。
実際、私は、物好きな探求者が集まるこのブログだからこそ、こうやって「本当に感じていること」を書いているだけです。
事情を知らない友人や知人とやり取りをする時は、こんなことはいちいち説明しませんし、私だって「世間の常識」に表面的には従うようにしています。
でも、私の中では、「これって結局、全部フィクションなんだよな」ということへの、覚めた気づきがあるのです。
つまり、「世界」とか「人生」とかいったものは、私にとって全て「一個の茶番」に見えているわけです。
しかし、それは「演じるのがなかなか面白い茶番」でもあるのです。
インドの過去の賢者や哲人たちが言うように、「世界」というのは「幻」です。
ですが、だからといって、それを楽しんではいけないわけではありません。
「世界は全て幻だ」と言うと、「それじゃあ、生きていることは虚しいものだ」と感じる人もいるでしょうけれど、「世界が全て幻なのだとしたら、それを一つの劇として思い切り演じてみる」ということもできますし、少なくとも私はそうしています。
そんなわけで、私は今日もこうして「劇」を演じ続けています。
つまり、文章を書くというのは、「私が劇を演じる仕方」の一つであるわけです。
それはあくまで「フィクション」なのですけれど、だからこそ気楽に演じられます。
もしこれを「作り物の劇」ではなく、「紛れもない現実」だと思い込んでしまっていたとしたら、きっと私はもっと深刻になり、楽観的に「事の成り行き」を眺めることができなくなってしまうでしょう。
そして、そのように、「深刻な現実」だと思っていたものが「ただの茶番」に過ぎないと理解した時、その人の魂は、真の意味で「自由」を獲得することになるのです。

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