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「責任」とは、その人にしかできない仕方で「存在」に対して応答すること

たぶん、今までブログでは書いたことがなかったと思うのですが、私は「責務」と「責任」という言葉を、意識的に使い分けています。

私にとって「責務」とは、他人や世間から背負わされるものです。

英語で言えば「Duty」ですね。

要は、「義務」のことです。

たとえ、自分では背負いたくなくても、仕方ないから背負うもの、それが私にとっては「責務」なわけです。

逆に、「責任」というのは、誰かから特に言われていなくても、自分からあえて背負うものです。

英語でいうと「resposbility」ですが、これは「respose(応答)」と「ability(能力)」からできている語です。

つまり、「責任(resposbility)」とは、「応答可能性」のことであり、「応えることができる状態にあること」が「責任を背負っている状態」ということです。

でも、いったい「何」に応えているんでしょうか?

私が思うに、人は「神」や「天」といったような、「自分を超えたもの」に対して応える時に、「責任」を背負います。

つまり、自分の内側で「こうせずにいられない」という強い必然性を感じ、あえて「ある道」を選ぶ時、そこで当人が感じるものが「責任」なわけです。

たとえば、とても「良い家」に生まれて、「将来は医者になりなさい」と言われて教育された場合、その子にとって「医者になること」は「責務」です。

当人は親や親族、教師やクラスメイトなどからそれを期待され、「たとえ嫌でも将来は医者にならなければ」と考えます。

でも、その子の内側に「絵が描きたい」という想いがあったとしましょう。

そして、学校で勉強の合間の息抜きに、ノートへ小さな漫画を描いていると、その子はとても充実した気分になれました。

それゆえ、当人は「大人になったら漫画家になりたい」と思い始めます。

でも、それを周囲の人々は許しません。

家では「漫画なんてくだらないものだ」という価値観が支配的で、そもそも「漫画の話題」さえ出せない状況です。

それでも、その子の中では「漫画を描きたい!」という想いがどんどん膨らんでいくのです。

やがて、将来の進路を決めなければならない時期がやってきました。

もちろん、家族も教師も「この子は医者になるものだ」と思い込んでいます。

しかし、その子はとうとう思い切って言うのです。

「自分は漫画家になりたい」と。

当然、親も教師もビックリして当人のことを止めます。

「何を馬鹿なことを言っているんだ!そんなことができるわけないだろう?」と言って、その子の気持ちも言い分も聞かず、頭から抑えつけようとするのです。

でも、その子の気持ちは変わりません。

「たとえどんな結果になってもいいから、自分はやってみたいんだ」と言って、その子は家を出て行ってしまいます。

家族は何とかして連れ戻そうとしますが、その子は住み込みで働きながら絵を描き始め、そのうちプロの漫画家のアシスタントをするようになっていくかもしれません。

そうやって、その子は「外から押し付けられた責務」をはねのけ、「内側で感じた責任」を背負うようになるわけです。

この場合、もしも「責務」を担い続けるならば、その子は周囲との軋轢を生むことなく、家族からも支援してもらいながら生きていくことができたでしょう。

でも、その時、当人の内側では、「本当はこんなことがしたいわけじゃない」という想いがあり、嫌々ながら勉強していることで、徐々に疲弊していってしまいます。

逆に、「漫画家の道」を目指すなら、もちろん、それは「いばらの道」なのですが、当人はそこで「文句」を言いません。

なぜなら、「自分でしたくてしていること」だからです。

このため、「責務」を背負っている人は「文句」を言っては他人や世間に流され続け、「責任」を背負っている人は「文句」を言わずに「自分の足」でただ歩みます。

そして、そんな風に「責任」を背負っている人というのは、自分の内側の「心」を通じて、「何か大きなもの」に応えているのです。

「神」でも「天」でも「ぼん」でも、何でも好きに呼んだらいいのですが、
向こうから「おい、そこにいるか?」と言われた時に、「はい、ここにいます」と即座に答えることのできる人が、「責任(resposbility)のある人」です。

逆に、「大きな何か」が「心」を通して呼びかけているのに、それに返事をしない人は、「責任」を背負うことができません。

そういった人は、他人や世間に流され続け、不平不満でいっぱいになりながら生きるでしょう。

「自分の心」に蓋をして、「本当はしたいこと」から目を背けたまま、「無責任」に生きることになるのです。

しかし、時には、人は「責任」を背負うことによって、かえって人々から「無責任だ」と非難されることがあります。

さっきの例で言えば、「漫画家になる」と決めたことで、「医者になるべきだ」という周囲からの期待を無視した場合、おそらくそうなってしまうはずです。

実際これは、まわりの人々からしたら、「無責任」極まりない話であり、非難されることは避けられないでしょう。

「自分の責任をわかっているのか?」と。

でも、私から言わせてもらうなら、当人は「本当の責任」に目覚めたからこそ、「偽物の責務」を捨てただけです。

もちろん、それによって当人は家族からの後ろ盾を失い、頑張って努力しなければなりませんし、もしも漫画家として芽が出なかったとしても、それを誰のせいにもできません。

しかし、「それでもいい」と覚悟を決めることで、人は初めて「責任」を背負うことができるのです。

ただ、だからと言って、必ずしも他人に従っていてはいけないわけでもありません。

たとえば、さっきの例で、親から「医者になるように」と言われて、当人もまた「医者になりたい」と主体的に思っていた場合、それは「責務」ではなくて「責任」になります。

きっとその子は、「どうすれば立派な医者になれるだろう?」と日夜考えるはずです。

「人々の痛みに寄り添い、この社会から病や怪我で苦しむ人を少しでも減らすためには、どうしたらいいか?」

それを考えることが、その子の中心的な課題になるはずです。

そうであれば、結果的に親の言うことに従っているかのような外観にはなりますが、内的にはその子は「自分の心」に従っており、「大いなる存在」の召命に応えています。

つまりその子には、「はい、私はここにいます」と、即座に答える準備ができているのです。

そういう意味では、結局のところ、「内的な必然性を感じてること」を背負う覚悟があるかどうかだけが問題ということになります。

「したい」と想ったことをする。

その結果、どんなことになったとしても、それを他人にせいにしないで自分で背負う覚悟があるかどうか。

それが、「責務」と「責任」をわける分岐点です。

このため、たとえ雇われて働いていても「責任」を果たしている人もいれば、自営業を営んでいるのに「責務」としてそれをこなしている人もいます。

「何をしているか」が大事なのではなく、「自発性があるか」ということこそが大事なのです。

整体創始者の野口晴哉は、
「食えないと食わないは、たった一文字しか違わないが、結果は全く違う」と言っていたことがあります。

「人は『食えない』と思うと餓死するが、『食わない』と決めてしまうと、それは断食になってかえって心身が丈夫になる」と彼は言うのです。

「食えない」と思っている人は、本当は食べたいのだけど食べることができない人です。

逆に、「食わない」と思っている人は、食べようと思えば食べられる状況でも、あえて食べないことを自発的に選んでいます。

そして、この「自発性の有無」が両者の命運を分けるわけです。

実際、私たちの心身は、「無理やりやらされていることを嫌々こなしている時」には、エネルギーを出してくれません。

なぜなら、それは「自分の心」に適ったことではないからです。

そして、もしも「心」を自分から切り離されてしまうと、その人は「自分を超えた何か」とつながることができなくなります。

というのも、「心」こそが、私たちと「大きな何か」をつなげる「門」だからです。

この「門」の前に立って、「はい、私はここにいます」と答える時、当人の心身は突然「活力」に満ちてきます。

その人は、困難をものともせずに前進し始め、努力を努力とも感じないまま、ひとりでに成長していくのです。


「あなたの心」は、いったい何を望んでいるでしょうか?

あなたが日々の生活の中でしていることは、「責務」ですか?

それともそれは「責任」に基づくものでしょうか?

もしもあなたが「責務」をこなしているだけなのであれば、あなたはきっと今苦しいはずです。

そして、おそらく「責任」を背負うことを、潜在的に恐れています。

でも、別にいきなり学校や会社を放り出す必要もありません。

今いる場所で、「自分の心」を満たすことから始めてみることも可能です。

つまり、「責務」を「責任」に変えてしまうわけです。

シンプルに言えば、「やらされている」という意識でするのではなく、「自発的にする」という意識で取り組むわけです。

たとえば、「今していること」の中に、ほんのわずかでも「楽しい」と感じることや、「もっと学びたい」と思えることがあるのなら、そこが「とっかかり」になります。

「学校は嫌いだけど、この教科のこの先生の言うことだけは好き」とか、
「会社は嫌いだけど、この業務をしている時だけは深く集中することができる」とか、
何でもいいと思います。

そのような「心が動く瞬間」を捉えることができるなら、「責務」は「責任」に変わっていきます。

しかし、それでもどうしても「嫌だ!」という気持ちが強すぎる場合は、何もかも放り出して、「本当に自分がしたいこと」に集中するしかないかもしれません。

つまり、自ら退路を断って、背水の陣で臨むわけです。

でも、そんな時でもその人はきっと、「充実感」と「新鮮さ」を感じながら、駆け抜けるように生きるはずです。

当人にとって、日々は毎日刺激的で、多くの学びに満ちています。

その人は瞬間ごとに「自分の心」がワクワクするのを感じるでしょう。

なぜならその時その人は、「明日をも知れぬ日々」の中で、「生の神秘」に触れたからです。

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